第40話
式は滞りなく進められた。
和室に設けられた神殿を正面に新郎・新婦が着席した。一葉がちらりと横を伺うと保胤が気付いてニコリと目で微笑んだ。保胤は黒五つ紋付き羽織袴に、いつもの黒いマスクを付けていた。
(こんな日でも素顔は晒さないんだ……)
保胤について分からないことがたくさんあるが、このマスクもその一つだ。
一葉は何度か保胤の素顔を見ている。
だが、それは自分と二人きりの時だけ。それ以外ではしっかりと顔を覆い、下げているところを見たことがない。一度、三上に保胤のマスクについて尋ねると、三上はここ何年保胤の素顔を見ていないと言っていた。
『会社でもいつもつけていらっしゃいますよ。恐らく外でお外しになったことはないかと……』
(三上さんはああ言ってたけど、あんみつ屋さんで外してたけどな……)
何の基準で外しているのだろう。
今度聞いてみよう。それも何か手掛かりになるかもしれない。
背後をちらりと見ると、新郎新婦の後ろに両家の親族が座っている。
といっても喜多治家からは慶一郎と玲子、緒方家は三上の三名のみ。今朝、保胤に緒方家の席に座って欲しいと頼まれた三上は恐縮しきりだった。それでもあなたに見守って欲しいのですと保胤に請われ涙ぐんでいた。一葉も三上がこの場にいてくれることだけは嬉しく思った。
斎主がお祓いをして、参列者の身を清める。その後は
「指輪の交換を」
巫女が台座を持って二人の前に立つ。台座の上には指輪が二つ置かれていた。指輪交換はもともと神前式にはない儀式だが保胤の希望で取り入れることになったのだった。まず保胤が台座から指をとり、一葉の左手をとる。緊張してぴくりと指が跳ねた。
「ふ」
一葉にしか聞こえないくらいの小さな声で保胤は笑った。一葉は少しムッとした。左手の薬指に指輪が嵌められていく。
今度は一葉も保胤の動作を真似て、台座から指輪をとる。保胤自ら差し出された左手をそっと持つ。指輪をつけようとして、その手が止まる。
「……一葉さん?」
差し出された保胤の手を持ったまま、一葉は微動だにしない。
(……この手をとったら、きっともう引き返せない)
何を今更と思う。それでもこれまでとは違う緊張感があった。なにせこれからは二重スパイになるのだ。保胤と手を組み、喜多治家を騙し続ける。
一葉は喜多治家での出来事を思い出す。
初めて喜多治家に連れて来られた時。
初めて諜報員として手ほどきを受けた時。
初めて諜報員として任務に当たった時。
父と母を思い、
自分のせいで傷つけてしまった人々を思い、
眠れない日々を過ごした、あの狭くて暗い物置小屋の三年間の日々。
(もう……引き返さない――)
一葉は俯いていた顔を上げて、保胤の方を見た。そして、満面の笑みを保胤に見せた。
「――ッ」
一葉の笑顔に保胤は息を飲んだ。一葉はそれを気にする様子もなく、保胤の指に結婚指輪をはめる。一葉と保胤、二人の左手の薬指にはお揃いの銀の指輪が光っていた。
互いに向かい合っていた二人は神殿に向き直る。
「……」
保胤は隣に立つ一葉を見た。一葉はピンと背中を伸ばし、まっすぐに前を見て神主の言葉に耳を傾けていた。
「それでは、これより
保胤は台座に置かれた和紙で出来た手紙を手に取る。
誓詞には、結婚の誓いの言葉が書かれていた。
「今日の佳き日に私共は、神谷神宮の大御前で結婚式を挙げました。素晴らしい伴侶に出会えましたことを心から喜び、相和し、相敬い、苦楽を共にし、明るく温かい生活を営み、子孫繁栄のために勤め、終生変わらぬことをお誓いいたします」
一葉は保胤が読み上げる言葉の数々に聞き入る。
「信頼と愛情を持って、助け合い励まし合いながら、素晴らしい家庭を作っていきます」
そういうと、誓詞に落としていた目線を上げ、保胤は一葉の方に顔を傾ける。直球な愛の告白を受けているようで一葉は恥ずかしかったが、保胤に微笑み返した。
「何卒幾久しく御守りください。××年×月××日 夫 緒方 保胤」
自分の名前を読むと、保胤が誓詞を一葉の方へ少しずらした。
「妻 一葉」
一葉が最後に自分の名前を言い、誓いの言葉を締めくくった。これが夫婦になったふたりの初めての共同作業となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます