第17話

「……あ!」


 一葉の怒鳴り声に、シンと室内は静まり返る。

保胤は呆気にとられた表情で一葉を見た。


「わ、私……お手洗いに……!」


 雰囲気を察した女性の店員がすかさずご案内いたしますと一葉を連れ出す。







「……ッ」


 トイレの個室に籠り、一葉は声を殺して泣いた。


(泣いちゃだめ……泣いちゃだめ……!)


 胸が張り裂けそうなほど痛くて苦しい。

 あの髪飾りを見て、母を思い出してしまった。

 そして、保胤の言葉にどうしようもなく傷ついた。


『髪なんてまた伸ばせばいいじゃないですか』


「……ぅ……ふ……」


 あの人は、どんな気持ちで私が髪を切ったのかなんて知らない。


 あの人は、世間話程度にした女の好みのために私が髪を切ったことなんか知らない。


 それは全部あの人のせいじゃない。


 分かってる。


 分かってる。


 分かってる。


 分かってる分かってる分かってる――


 一葉はぺちぺちと自分の頬を叩く。


(涙、止まれ止まれ……しっかりしろ……!)


 何度も何度も頬を叩いたせいで一葉の顔は真っ赤になっていた。







「お品は後日、ご自宅までお運びいたします」

「よろしくお願いします」


 川勝支配人は保胤に深々と頭を下げる。


「今、お車の手配を」


 駐車場にとめた車を正面玄関まで移動するため、支配人は店員に指示を出す。しかし、保胤が彼らを呼び止め首を振った。


「一葉さん」

「は、はい!」


 保胤の後ろで黙り込んでいた一葉に声を掛ける。


「疲れていなければ少し周辺を歩きませんか?」


 困惑しながらも一葉は保胤の誘いを承諾した。保胤は支配人に向き直る。


「車、少し預かっていただけますか」

「もちろんでございます。ごゆっくりどうぞ」


 美津越を出て、中央通りを歩く。

 行き交う人々、車、路面電車。

 一葉は物珍しそうな表情でその一つ一つを目で追いかける。


(こんな風に出歩くなんて何時ぶりかしら……)


 喜多治家にいた頃は、自由に外に出歩くことは許されていなかった。全ての時間を諜報員としての教育に費やされ、自分の時間など無かったに等しい。


 道路橋を渡って、京橋方面へと歩く。一葉は自分より少し先を歩く保胤の背中を見つめた。


(何も聞かないのね……その方が有難いけれど……)

 

 部屋に戻って来た時、一葉の目が赤く腫れていることに保胤は気づいていた。一葉の嫁入り道具を見ていた時はあれほど雄弁だったのに、一葉が戻ってきてからは会話はなく、店員との口数も少なくなった。二人の間には気まずい雰囲気が漂った。


(きっと怒っていらっしゃるのよね……)


 自分のために高級な嫁入り道具を用意して、さらに髪飾りも買おうとしたのに突っぱねられるなんて、保胤からしたら気分のいいことではないだろう。

 だが、一葉は母との思い出や失った髪と思うと、良かれと思ってのことだとしても保胤の言葉を素直に受け取ることは難しかった。


「きゃっ!」

「おっと、ごめんよ!」

 

 キキーッという自転車のタイヤの擦れる音が響く。

 気もそぞろに歩いていたせいで、一葉は蕎麦屋の岡持とぶつかりそうになった。


「大丈夫ですか?」 


 前を歩いていた保胤が一葉の傍まで戻ってきた。


「すみません、こんな都会に出てくることがないものですから慣れなくて……」

「喜多治家の住所は大森の山王あたりでしょう? そんなに田舎じゃないと思いますが」

「それはそうですが……さすがに日本橋とは訳が違いますから。美津越なんて入ったのも一体何時ぶりか……」

「そうなんですか?」

「こんな恰好で来てしまってあなたに恥を欠かせなかったか心配です」

「……ふ」


 あ、笑った。

 保胤のマスクから漏れた声に、またおかしなことを言っただろうかと一葉は心配になった。

 

「関係ありませんよ。それにその着物、僕は好きです」


 一葉が着ていた着物は、元々実母が着ていた半物だった。別れる前、唯一母から譲り受けたものだ。えんじ色で柄もなく派手さには欠けるが一葉にとっては一張羅であり、大切な着物だった。


「この先に行きつけの店があるんです。少し付き合っていただけませんか?」


 一葉はこくりと頷いて再び保胤の後ろをついて歩く。保胤の歩く速度が先ほどよりもゆっくりに感じられた。

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