第2話
「一葉様、お仕度整いましたでしょうか?」
「え、ああ! はい、はい! い、いま、整います! 今すぐ!」
襖の外から声を掛けられ準備を急ぐ。せめて髪を綺麗にと思ったが、これだけ短いといくらやったところで大差はないだろう。
一葉は櫛をトランクに仕舞った。トランクの中は数着の反物と父と母の写真。そしていくつかの仕事道具。元々自前のものは少ない。鍵をかけて持ち上げると軽かった。
「旦那様と奥様がお待ちです。お急ぎください」
「すみません……!」
迎えに来た使用人の後ろをついていくと大広間に通された。中に入るとこの家の主とその妻が一葉を待ち構えていた。一葉の姿を見ると、家の主・
「えーと……、お養父様、お養母様。大変お世話になりました……?」
広い部屋に「はぁ……」と心底うんざりしたようなため息が響いた。
ああ、これはしょっぱなから失敗しちゃったな。
「なんて締まりのない……ここで疑問形で挨拶をするとはどういうつもりだ。最後に嫌味の一つでも言いたいのか?」
「も、申し訳ありません! そのようなつもりは……!」
こういう時どのように振舞えばいいのか一葉も手探りだった。台本があればいいのだけれど、何せ役者は自分のみで目の前にいる二人は舞台には立たない。うまく立ち回れない自分に非があるのは事実だった。
「あなた、もういいではありませんか。今日は一葉ちゃんの門出ですよ。笑って送り出してやりましょう」
隣にいた慶一郎の妻・
(う……この笑顔は苦手だ)
一葉は背中が冷たくなるのを感じて顔を下げて畳をみつめた。
「……まぁ、いい。いいか、
慶一郎は部下に命令するかのように一葉に言い放つ。
「一葉ちゃん、あなたは今日から緒方家の人間です。どんなに辛くともご自分の役目を全うすること。それが我が喜多治家への恩となることを決して忘れてはなりませんよ」
続けて玲子が語り掛ける。口調は優しいのに突き放すような言葉だった。
「はい……承知しております……行って参ります」
一葉は畳に額をこすり付けんばかりに深々と頭を下げた。
*
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長い廊下を歩き、炊事場の横を通り過ぎたところで話し声が聞こえた。
「旦那様、わざわざ伏見の蔵元から大吟醸を取り寄せたみたいよ」
「夕餉には鯛の刺身を出せですって。あからさま過ぎて笑っちゃうわ」
「嫁入り先もさすがにびっくりするんじゃない? まぁ、早く出て行って欲しい気持ちは分かるけどさぁ」
喜多治の屋敷で給仕を務める女性たちの声だった。名前が出ずとも自分の悪口を言われていることに一葉は気付いた。そのまま通り過ぎようかと思ったが一葉は口元がむずむずして思わず、
「いいなー! 私も鯛のお刺身食べたかったなー!」
と、大きな声で叫んだ。ガタガタガタッと激しい物音が炊事場の中から響く。前を歩いていた使用人が振り返り、鬼のような形相で一葉を睨んだ。
「ごめんなさい。私、独り言が大きくって……」
両手で口元を覆い謝罪の言葉を口にした。しかし言葉とは裏腹に大して悪びれる様子もなく、一葉は使用人を追い抜かしズンズンと歩いて行った。
これまでこの家で受けた数々の仕打ちを思い出し、思わず嫌味が出てしまった。刺身などこの家にいた三年間、一度も口にしたことなどない。嫌味というには小さすぎて自分でも笑ってしまうけれど、これ位許されるだろうと勝手に解釈した。
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