第9話

 まだ陽の高い時間。花壇近くには2人の女子生徒がいた。


「あんた、トイレ行くんじゃなかったの?」


「んー?私そんなこと言ってないよ。お花を摘むとは言ったけど」


 そう言うと、少女は花壇前に座り込む。花壇を囲うレンガの外側に小さなタンポポを見つけた彼女はその一輪を手に取った。


「あっそ。じゃあ私は戻るから」


「あー、今戻るのはやめた方がいいんじゃないかなぁ」


 手にした花の茎をくるくると回しながら少女は告げた。


「なんで?」


「さっき上の階の廊下を先生が横切るのが見えたからね。もし階段を降りてきてたら出くわして色々言われるよ。『授業中に何を出歩いてるんだ』ってね」


「……」


 興味なさげにあっけらかんと答える彼女。蛇口は暫く思案した後、彼女に話しかけた。


「……何か用があるんでしょ?さっさと言いなさいよ」


「ん?何?私とお話ししたいの?意外と人懐っこいねー」


 時折伸ばされる語尾とふわふわとした声。人によっては魅力引かれるであろうそれに、蛇口は微かな苛立ちを見せていた。そして同時に確信していた。先ほどの男子と同じ時に帰らず、わざわざこの場に残ったのには自分自身と二人きりになることが目的なのだと。先ほどの発言の真偽も分からないが、多少の冷静さを取り戻した彼女はこの場から去らず、このふわふわしたつかみどころのない生物との対話をしなければならないと、そう思っていた。


「冗談言わないで。誰が好きであんたなんかと」


「ひどいなぁ。いつまでも怒んないでよ。謝ったでしょ」


「あの顔で謝られて、はいそうですかってなる訳ないでしょ」


 蛇口の脳裏に過る、先ほど謝罪した時の彼女の表情。それは到底謝る人のものではなかった。口元に笑みを浮かべ、馬鹿にしたような視線を向けた表情は少年にこそ見えていなかったが、確実に蛇口に向けられていた。さながら宣戦布告のように。


「……へぇ」


 少女はゆっくりと立ち上がり、くるりと体を蛇口の方に向けた。しかし、その視線は手元で遊ばせている花に注がれている。


「意外だよ。君が人の表情から何か感じ取れる人間だったとは」


 蛇口の背をゾワッとした感覚がなぞる。それは、今しがた自身に向けられた視線と、先ほどまでとはうって変わったトーンの声色によるものだ。


「これは認識を改めないと。いじめをするような奴はみんな非人間的だと思ってたけど、むしろ人間らしいといえる」


「な、何を……」


「おっと、ごまかしは不要だよ。私が何も知らないと思ってるんなら見当違いも甚だしい。理由もなく人の親を侮辱するような人間じゃあないよ」


 淡々と告げながら一歩一歩距離を詰めていく彼女。花壇前の砂を踏み締めるたび、小さく音が鳴るが、蛇口はそんなことに意識を割く余裕がない。ただただ後退りしていた。


「私は君が何をしたかを知っている。彼に対しても……その前の行為も、ね」


 怯えた表情を見せられても、なお距離をを詰めていく彼女。そして───



 ガシャン



 という音と共に蛇口は動けなくなる。校区を守る金網が、一人の生徒の逃げ道を塞いでいた。


「さっきは彼のお願いだったから謝ったけど、私自身はそんなこと微塵も思ってない。君も、君の周囲も、その全てを否定してやっても良い」


 そう言って彼女は勢いよく蛇口の横に手を着いた。再びガシャンと音がする。


「今度また同じことをやってみろ。タダで済むとは思わないことだ」


 彼女は顔を近づけ低く怒気を孕んだ言葉を告げる。端正な顔立ちのせいで、かえって人間ではない何かに覗き込まれているような錯覚と恐怖を覚えた蛇口は、その迫力にヘナヘナと座り込むしかなかった。そんな姿を見下ろして冷ややかな目で一瞥した後、彼女はその場を後にした。


「ゲホッ、コホッ……ハア、ハア」


 それが過ぎ去ったことを体が理解した時、唐突に肺に負担がかかる。忘れていた呼吸を行なって、なんとか酸素を巡らせる。蛇口はただ空を仰いだ。


 風。肌をやさしく撫でるそれは、砕かれ地に落ちたタンポポを吹き飛ばす。地を転がるように吹かれる花弁の哀れな姿を目に留めるものはいなかった。







 時は少し遡り、世良町が別れて校舎内に戻った頃のこと。


「さて……保健室に行かないと」


 少年は怪我した足を庇うようにしながら保健室へと歩みを進める。さっきの会話を終えて気がついたが、メモを残した以上、この5限目の間に保健室にいた事になっていなければ後でこっぴどく叱られるのが目に見えている。既に一度前科持ちということになっているのだ。少年は急いだ。


 保健室は幸い、校舎の一階に位置している。なんでも、部活動中の怪我が一番多いらしく、外からすぐに保健室へ来れるような教室配置になっているのだとか。保健室を普段利用することはあまりないが、保健教諭は優しいことで有名だ。授業が始まって大分経つが、言葉を濁して説明しても多少は融通を効かせてくれることを期待しよう。後は、このまま誰にも見つかることなく……


「ん?授業時間中に何をしているのかね?」


 校長ー!?え、嘘。そんなタイミング悪いことある?


「あ、えーと、保健室に行く途中でトイレに行ったら少し時間がかかってしまいまして」


「保健室?やはり避難訓練は負担だったかい?」


 ……驚いた。確かに教員に背負ってもらっての避難だったので目立ちはしただろうが、一生徒の怪我のことも把握しているとは。


「いえ、単に少し気分が悪くなって。避難訓練の件は本当にありがとうございましたと改めて丸山先生に伝えてもらえたら」


「そうかい?それなら良かった。伝えておくよ」


 よ、良かった…とりあえず何とかなった。


「しかし、世良町君は2年生だろう?昇降口側から来たことに関しては何かあるかい?」


 目ざと!そこ突っ込む?今いい流れでそのまま別れるところでしょ。考えろ……何か良い言い訳はないか……


「……包帯を固定していた金具が取れていたようで。自分の靴を見てみようかと思いまして」


「ほう」


 そう言って僕の足元に視線を向ける校長。時間にしてわずか数秒のことだろうが、やけに長く感じた。


「ふむ、そういうことにしておこうか。生徒を信用してこその教師だからね」


 視線を僕の目に戻してにっこりと笑いながらそう告げられる。すごい含みのある言い方だが、ひとまず怒られることはないようだ。こちらも何とか笑顔を作り、校長が横を通り過ぎていくのを待っていると、


「ほどほどにしておくんだよ。私は甘いけどこの学校は厳しい先生も多いからね」


 ボソッと小さくつぶやかれた一言に思わず表現が固まる。慌てて後ろを振り向けば、ひらひらと手を振りながら遠ざかっていく少し曲がった背中が見えていた。……今どきホッホッホとかいう笑い方の人本当にいるんだ。


「……ばれてる」


 乾いた笑いと共に独り言が漏れる。少しベタつく背中から自分の緊張具合が時間差で伝わってきた。流石校長の座まで上り詰めただけある人だ、今度からはもっと敬意を払おう。


 思わぬアクシデントに見舞われたが、ひとまず僕は保健室へと再び歩みを進めた。







 保健教諭には体が痛くて少し気分が悪いという旨(嘘は言ってない)の説明をして、ベッドで休ませてもらうことになった。5限目の半ばあたりに来たことに関して深く追求されなかったのはありがたい。


「6限目はどうするの?話聞いたり熱を測ったりした感じだと大丈夫そうだけど」


「そうですね。授業出ようと思います。あんまり休んでると後で先生が怖いので」


「ふふふ。そうね」


 この柔らかい雰囲気は保健教諭特有のものだろうか。今回、自分は仮病みたいなものだが、実際に怪我をしていたり気分が悪かったりする人を安心させるにはピッタリな人だ。 


 5限目終了近くまで軽い雑談を交わしたのち、僕は保健室を後にした。万が一教室に早く戻っていろいろ聞かれたら困る。授業開始のチャイム直前あたりを狙っていこう。そう思って自分の腕時計に目をやる。


「そういえば……」


 結局、彼女も蛇口も保健室には来なかったことを思い出す。反響する足音が止まり、顎に手をやって少し思考を巡らせた。彼女はトイレに行くと言っていたが、蛇口は残りの時間何をしていたんだ?というか、あいつもトイレに行ったとしてそんなに長くなるものか?女子のトイレ事情とか知らんから何も言えんけど。まさかあのあと残った2人で何か話してたとか?そんなことある?……実は校長先生が見回りしてるのを知っていて僕だけ先に行かせたとか?


「いやいや、まさか」


 そう呟きながら再び歩みを進める。自分の足音は5限目終了を告げるチャイムにかき消されていった。







 予定通り6限目開始数秒前に滑り込むようにして教室に戻った僕は、周囲からの奇怪にみちた目を受けるだけで済ませ、彼らの口を開かせることなく授業に参加した。ちなみに、教室を見渡しても蛇口の姿は見えないままだった。……取り巻きに追求されたりしたらそれこそ面倒だ。授業が終わって放課後になり次第さっさと帰ろう。


 授業内容を適度に聞きながら、今日一日をぼんやりと思い返していた。バカみたいな理由で足を痛めた矢先に避難訓練があって、全校生徒の前で背負われる。何とか乗り切ったと思えば昼休みに彼女と蛇口が衝突。そして頬にビンタを食らう。挙句の果てに授業を抜け出して半ば無理やり彼女に謝罪をさせて、廊下で会った校長に冷や汗かかされて……何やってんの?


 机に左肘をつき、そのまま左手でこめかみを押さえるようにして頭を支える。忙しいと時間が経つのが早い。いや、今日は忙しいというか、面倒だったというか、心が休まる時がなかったというか……これ以上何もないといいのだが。


「おい、世良町!授業を聞く態度じゃないな」


 ビクッと背筋を伸ばし、慌てて教師の方を向いて「すいません」と小声で謝罪した。そうだ、この先生、肘をつくとかにもうるさくて、前に寝ていた生徒には授業中ずっと立ったまま受けさせてたこともあったっけ。……ついてない。

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