【蟲医】スキマカゼフルヒトの時空冒険記

マンボウ☆ロマンボウ

第0話 陽炎の命

──カゲロウ。


 短命な事で有名な虫だ。幼虫は半年から一年近く生きるようだが、亜成虫という段階を経て、成虫になると、一日あまりで死ぬ。長くても、二週間しかもたない。その短い時間の中で、交尾を終え、卵を産み、次の世代へと命を託す。


 その寿命の短さから、ギリシャでは「エフェメラ」──その日一日の命──と呼ばれた。


 日本では「陽炎」(かげろう)と呼ばれたが、これもまた儚い。陽炎とは、熱によって空気が揺らいで見える現象だ。実体のない、空虚で一時的な『揺らぎ』。


 しかし、カゲロウに限らず、あらゆる命は今にも消えそうな『揺らぎ』に過ぎない。その虫が成虫でも、幼虫でも──あるいは、人間であろうとも──。


「カチッ……ファサッ……」


 その手術室に響くのは、ほんのわずかな音。刃物やピンセットなどの手術器具の音、術衣の擦れる音。患者を見つめる執刀医の表情には、いっさい油断がない。人間の体を切る時と同じように、全神経を研ぎ澄ませているのだ。その横には助手も立っている。ただし、手術台の上にいるのは人ではなく、一匹のカゲロウ──ただし、その体はロブスターのように肥大化している──だった。


 カゲロウの体は、複数の箇所が慎重に切り開かれ、ワックスで止血されている。また、神経に無用なストレスを与えないよう、特製の麻酔薬が使われている。カゲロウはピクリとも動かない。


(もう少しでラストスパートだ)


 医師はそう考え、自分を落ち着かせた。手先は1ミリも震えていないが、心の底では震えていたからだ。武者震いだとよいのだが。


(……まったく、ひどい発明品だ。このサイズの虫を治すのは、初めての体験だったぞ)


 生まれて60年目にもなるこの患虫は、ロブスターを思わせるずっしりとした体格で、体の各所にぎっしり身が詰まっていて、ちょっと美味しそうですらある。


 医師は、カゲロウの体の奥深くにメスを入れた。複数の内臓が絡まる部分に、最後の腫瘍がある。切ってはならぬ箇所に決して傷をつけぬよう、慎重に指を動かす。


 チョウジュカゲロウと呼ばれるこの虫は、100年近く前に、日本のとある科学者が開発したものだ。遺伝子は普通のカゲロウと同じだが、特殊な薬品によってその働きを調整されている。『成虫』になっても人生を終えず、脱皮して『亜成虫』に戻るのだ。そして、『亜成虫』から脱皮して、また『成虫』になる。


 いわば、永遠の命。


 しかし、この生物にも欠陥がある。カゲロウの身体は、寿命を過ぎても生き続ける事など想定していない。歳を重ねるごとに免疫が弱まり、ガンの発症率も上がる。それに、脱皮するたびに少しずつ『巨大化』していくのだ。それがまた、カゲロウ自身の体に負担を与える。


 だから、チョウジュカゲロウの寿命は、50年前後だとされる。


「……摘出完了」


 医師は、ついに最後の腫瘍を摘出した。続いて、助手から縫合糸を受け取り、切り開いた箇所を閉じていく。


 あとはただ、カゲロウの意識が戻るのを待てばよい。


「よし、これで一息つけるぞ」


 彼がそう言うと、助手は、


「やりましたね、先生」


と言った。


 あとはただ、××の意識が戻るのを待てばよい。


「……先生?」


 揺らぐ意識。

 ──ああ、そうさ。


「60歳のカゲロウが61歳になれば、ギネス級の新記録だ。オレたちは世界に名を馳せる。21世紀はきっと……××の時代になるぞ」


 カゲロウよ、カゲロウよ。

 揺らぎ、

 揺らぐ、

 命の陽炎。

 お前は私に何を見せる。


「え?カゲロウ?」


 そうだ。あとはただ、××が戻るのを待てばよい──。


「先生、寝ぼけてます?」

「大丈夫かニャ?体当たりで起こすニャ!」


「ぐあっ!!」


 ──私がようやく目を開けると、そこは自宅のベッドの上。そして、そこに居たのは二匹のへんてこな動物──メタルカイコとネコむかで──だった。


「先生、おはようございます」


「ああ、おはよう」


「今日は朝九時から予約が入ってるんだから、寝坊しちゃダメだニャ!」


「ああ、分かってるよ。ふわあ……」


さっきまで、どんな夢を見ていたんだっけか。私は、ぼんやりと揺らぐ記憶を忘れて、はっきりしていく現実へと目を向けた。


窓の外、緑豊かな平原の上に広がるのは、すがすがしいほどの青空。


「2042年、6月4日。芥(アクタ)らくしあは今日も快晴か……」


彼の名はスキマカゼ・フルヒト。現代の『蟲医』である。


(つづく)

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