シラフと火の国
@GalqinAliya
第1話
今日、旧暦十二月二十三日。モンゴル人にとって、とても大事な日だ。その日、みんな年に一度の火の祭りを行うからだ。家の中で、父が燃え上がる火に祭り品を慎重にささげてから拝んだ。母とシラフの兄弟たちがその後ろに拝むのだった。
「来て拝んで」と父が玄関に立つシラフに言った。
シラフは立ったまま炉の中の火と夕空を交代に見て「誰に頼めばいいかな」と思った。これについて母に何度も聞いたが、確かな答えを得なかった。父がもっと答えるはずない。そんなことを聞くより宿題をしてと言うだろう。兄と姉たちに聞けばきっと笑われるだろう。そう考えて、シラフは軽いため息を付いて「子牛のことを構うのは、天か、火の神か」と口ごもった。それから「まあ、万が一のため、両方に頼もう」と決心し、火に拝んでから、星のまばたく薄暗い空にも願った。彼は目を閉じて「子牛の病を治してくれれば、そのお返しに…」と言いかけて、途中で詰まった。シラフは手を合わせたまま、思いを巡らせた。「もし助けてくれれば、その恩返しに何をするか」
突然、風を引いて何かが彼の隣を通った気がして、シラフは目を開けた。
「ア…」彼は思わず叫んだ。
目に入ったのは、家の庭じゃなくて、まぶしい金色だった。彼はびっくりして何度もまばたいた。良く見れば、目のくらむほど金色の街が果てしなく続くのだった。広い街沿いに赤い色の家々が立ち並び、その窓から金色の明かりがかすんで、緩やかに起伏する波のように遠くまで広がる。街の両側から数えきれない細い道が外へ分かれ、木の枝のように伸びる。
「これ…これは…」とシラフはどういうことか訳を分からずに立ちすくんでいると、彼が立っていた丘に幻のように人々が次々と現れた。彼らは祭りにでも参加するかのように、さまざまな形の赤い服に身を包み、互いに挨拶を交わし、二三人で楽しいそうに話しながら、丘を下り、にぎやかな街に向かうのだった。
「ここ…ここはどこ?」シラフはおずおずとしながら、横を通るお年寄りに聞いた。
「まさか…君…君は人間か」長い赤い服を着て、短い白ひげをしたキビキビしたお年寄りがジョルを見て驚きの声を上げた。シラフは変な質問にためらっていると、お年寄りは「家に帰りな。ここは君の来るところではあるまい」と厳し気に言い、人の流れに入っていった。
「人間かって、どういうことか」シラフは口ごもった。
「あら!君、新しい浪人か」という不気味なかすれた声が、虫のもがきのように耳に入ってきた。シラフの地肌が立ち、慌てて見返った。ボロボロな黒いマフラーを頭に巻いた痩せこけた小柄な老婆が、彼の背後から近付いてきた。彼女の顔がマフラーに埋もれてはっきりと見えないが、いくつかのぼろ歯が、黒くて長く延び出て、ぞっとさせた。
「何だと?」シラフが訳を分からなかった。
「私に付いてこい。家に帰してやるから」と老婆はもっと近寄ってきて、ささやいた。それと同時に、彼女の口から細長い煙のようなようなものが、蛇のようにうねり出てきて、シラフに近付くのが、金色の明かりと重なって見えた。
シラフが、思わず後ずさりした。
「私のところに、君ような浪人、いや子供はいっぱいいるぞ」と老婆はシラフの腕からつかんだ。彼女の手が、カエル肌のように冷たく、指がハシのように長かった。シラフの体が芯まで冷えていき、彼女の手から逃れようともがいた。だが、変なことに、体が粉で作ったように力が入らなくて、思ったまま動けなかった。やがて、神経がまひされ、意識までがぼやけてきたのだ。
ちょうどその時だった。突然冷たい風が通りかけて、シラフを老婆の手からもぎ取り、走り出した。誰かに引っ張られているに違いない。
「速く…速く走って」とシラフを引っ張る手の主人があえぎながら言い、彼を連れて混雑する広い街に逃げ込んだ。彼らは、往来する人の流れを縫うようにしばらく走ってから、細い道へ入る街角に隠れた。
「何とか逃げ切ったな」と手の主人が道路の入口をのぞき込んでから呟き、マフラーを下ろし顔を出した。十二三歳の男の子だった。シラフよりは体が高く、色のあせた布袋を斜めに肩にかけていた。「君は新しい浪人だろう。あんな者には近付くな。危ないぞ」と大人っぽく言ってから、手で汗のかいた額を拭いて「僕はホルチという。君の名前は?」と聞いた。
「シラフというけど」シラフが口ごもった。彼は周囲を見回してから顔を青ざめさせて「一体、ここはどこ?」と尋ねた。先まで走ったせいか、あるいは突然のことで恐れたか。彼の足の力が抜けて、心臓が口から出そうだった。
「どこに来たか知らないの」とホルチは、シラフをてっぺんから足元まで細かく見てから言った。「ここは火の国だよ」
「え?火の国?それって何なの」シラフは呆気に取られた。一体どんなことになっているか。どこに来てしまったか。まるで悪夢にうなされているようだった。シラフのぼうぜんとした顔を見て、ホルチは言葉を続けた。「火の国というのは、火の祭りを行うところだぞ。毎年、旧暦の二十三日から三日間、火の神々が各地からここで集まって、火の祭りを行うのさ。この際に、どうしてか分からないけど、たまに、人間も連れ込まれてしまうんだ。君も、僕もそうだ」とシラフに近付いてきて嗅いだ。それから「人間の匂がまだひどいな。君は来たばかりだろう」と言った。シラフは無言で頷いた。
「先のようなものには近付くな。永遠の浪人になってしまうぞ」とホルチは心配げに教えた。
「浪人?それって何?」シラフは震えた声で聞いた。
「火の国に入り込んだ人間のことを浪人と呼ぶんだ」と言ってから、ホルチは自分を指さして「ちなみに、僕は去年の浪人」と冗談ぽく言った。彼はここに慣れたらしく、恐れた様子はない。
「僕、家に帰りたい。どうすればいいの」シラフは期待に満ちた顔で尋ねた。彼は一刻もここにいたくなかった。
「もしそんな簡単に帰られるなら、こんな多くの人がここに閉じ込められるか」ホルチは街にあふれる人々を見回した。彼はシラフの顔が泣かんばかりになるのを察知して、急いで話を変えて「だけど、今度の火祭りが終えるまで必ず帰ってやるぞ」と言った。
「僕はもう帰られないの」シラフの声が掠れた。
「まあ、帰られるけど、条件があるの」ホルチは真剣な顔をした。
「どんな条件?」シラフは慌てて聞いた。
「どうやってここに来たか、覚えているの。その道で折り返せば…」ホルチはシラフを真っすぐに見つめた。シラフは頭を振った。彼は、風がふっと吹いたこと以外、何も覚えていなかった。
「だと…」ホルチは少し考え込んでから「帰る乗り物はあるか」と再びシラフを見た。
「乗り物?それはまだ何なの」シラフはもっと戸惑った。
「何でもいいよ。君を火の国から家まで運べるものであれば」とホルチは言った。
「そんなものがないよ。だけど、どうしても家に帰りたい。両親が心配していると思うから」シラフは涙声で言った。
「そうか。分かった」ホルチは、シラフの肩に手を置いて「これからどんなことがあろうと、この思いだけを忘れるな。それだけしっかりと持っていれば、きっと家に帰られるから」と真剣に言った。シラフが、ホルチを見上げると、彼の瞳がたくましく光っていた。ホルチは、シラフをやさしく見て「僕たち一緒に家に帰ろう」とほほ笑んだ。
「では、うちのところに行こう」ホルチは歩き出した。シラフはにぎやかで金色に輝く街を見回した。彼はホルチに付いていくしかなかった。夢か、現実か、分からないこのところ、彼以外に頼れる人はなかった。
「これを付けて」ホルチは布袋から色の落ちたマフラーを取り出し、シラフに渡した。それから「ちゃんと付いてこいよ」と速足で進んだ。街の中が、幻のようにかすみ、大勢の人々が波のように往来する。シラフの目がくらみ、人の流れにのみ込まれそうに感じ、ホルチのすぐ後ろに付いて小走りした。
街の両側に赤い色の古代風の建物が何重にそびえ、その窓から金色の灯光が眩しく光り、にぎやかで湧きかえっていた。窓々から人々の食べたり飲んだりする喚き声、歌ったり躍ったりする騒ぎ声、商売をする叫び声が混雑して聞こえてくる。シラフは、これまでこんな立派で、美しい街を見たことがなかった。歩いていると、地面が時に膨らみ、時にへこみ、その上の建物がふらふらと動いているように感じた。見上げると、そびえ立つ高い建物が雲に差し込み、先が霧に覆われていた。
だが、ホルチは、これらのすばらしい景色に一目をくれずに、マフラーを鼻の上まで巻いたまま、まるで逃げるようにひたすら前に進んだ。しばらく行っていると、シラフは街の異変に気付いた。なんと店の看板が「火の国一のおいしい魂の料理」とか、「愛で作った酒バー」とか、「魂を引く美の店」とかというのだ。また、道路沿いに「健康で宝石を買おう」、「君の愛はいくらか」、「人格の値段が新記録を作った」と言った立札や広告があちらこちらに見える。人々がその間を平気で行ったり来たりして、商売をしてにぎわう。店内に金、銀やさまざまな宝石が山のように積まれて、眩しく彩る。人々は、銀の鏡の前に立って、店員に何かを計らせてもらい、体から彩りの煙のようなものを取られてから、箱いっぱいの宝石をもらうのだった。
「これ…これはどういうことか。父母の愛を買えるなんて…」シラフは、ホルチに追い付き、道端の立札を指さした。その上に「父母の愛をいくらで売れば、損をしないか」と書いてあった。
「ここはこんなところだよ。人間世界で、われわれが牛と羊や小麦などを売って家計を立てるんだけど、ここでは愛、仁義、人格、健康や魂まで売って生きるんだ。ちなみに、君のような来たばかりの者が、僕のような古い者よりも高く付くんだぞ。彼らにつかまれていきたくなかったら、あれこれをじろじろと見ずに、早く付いて来い」とホルチは顔を強ばらせて言った。
「本当に?そんなバガな」シラフは口ごもり、ホルチの背中を見た。彼らが、大きな扉のある店の玄関をかけ過ぎたところ、油っぽくて長い髪の毛をした大男が、いきなりシラフの腕をつかんだ。
「坊や、わしに付いてこい。宝石を思いのままあげるぜ」とかすれた声で言いながら、飢えたようにシラフを匂った。彼の血気のない顔が冷たくほほ笑み、大きなマントを広げ、シラフを取り囲もうとした。ちょうどその時、ホルチがポケットから手のひら大の鏡を出して、男の顔を照らした。
「ア…」という悲鳴を上げ、大男は入れ墨を入れた手で、顔を覆い、後ずさりした。その隙間に、ホルチはシラフを引っ張って、全力で走り出した。広い街から右に入り込んだ狭い道路に入り、しばらく進んだところ、さらに細くて黒い路地に入った。そこは、灯がなかった。道は凸凹で、ホルチに引っ張られて走りながら、シラフは何度か転びそうになった。薄暗い路地の両側に、崩れ落ちそうな家々が並んでいるのが見えた。
「僕だ。僕だ」ホルチは小さい木の扉の前に立ち、大急ぎに叩いた。
「ホルチか」という低い声が聞こえ、扉が中へ開いた。シラフはホルチに倣って体を屈め、家に入った。扉を開けたのは、小柄でやせ型の中年男だった。隣に、栄養不良だと思わせる頭の大きな痩せこけた八九歳の男の子が立っていた。
「どうした?」と中年男は家の外を用心深く見回してから扉を閉めて、不安そうに聞いた。
「先ジガの魂を奪おうとした魂の狩り人に出くわした」とホルチは青ざめた顔で言った。それを聞いた男の子は弱く呻いた。
「彼らに居場所をばれると危ないぞ。新しい浪人は入ってくる度に、そいつらはあっちこっちにうろつくからな」中年男は不安そうに言ってから、シラフに見て 「この子は?」と尋ねた。
「新しい浪人なの。シラフという。先、丘の上で黒い巫女につかまれて行くところを助け出して、連れてきたの」ホルチは目を伏せて、申し訳なさそうに口ごもった。
「そうか」中年男は深いため息を付いた。
「おじ、ごめんなさい。食べ物も、寝る所もないことを知っていながら、連れてきて。だけど、来たばかりで何も知らずにすべてを取られてしまうと、永遠にここで閉じ込まれてしまうだろう…去年、おじが僕を助けてくれなかったら、今どうなっているか」とホルチは微かに震えた声で言った。
「謝ることじゃない。よくやった。ただ、ぼくたちの都合が悪いだけ」と中年男は苦く笑い、ホルチの肩をやさしく叩いた。
「人が多いと、寝る時寒くないから」横に立って、シラフを興味深く見ていた男の子が、ホルチを見上げて、抜けた前歯の間から舌を覗かせて、無邪気に言った。
「ジガの言うとおりだ。もう寒くならないよ」とホルチは、ジガの頭を撫でて可愛がった声で言い、シラフに紹介した。
「これはジガ、八歳。それはアギ、十歳」と明るく言った。
シラフは驚いた。もう一人がいるとは…。目の前の男の子はジガに違いない。だけど、アギというのはどこにいるか。彼は、小さい家の中を見回した。油灯のぼんやりとした光が、一握りの所だけを照らし、家の壁は闇に呑み込まれていた。突然、東北コーナに積もった暗がりの中で、何かが微かに動いた。その体も顔もはっきりと見えなかった。
「おじ、今日得たもの」とホルチは、おじに何かを渡してから「もう準備ができたの」と小声で尋ねるのが、もう寝かけたシラフに聞こえた。
「明日の夜も出る必要がある」とおじは呟き返した。「気を付けてよ。昼間出かけたら」彼はしばらく黙ってから話し続けた。「俺も行けたらどんなにいいか。ちょっとでも手助けになると思うから。情けないな。昼間のことを君にやらせばなしで」と軽くため息を付いた。
「おじ、そのなことないよ。もし、おじが僕たちを助けてくれなかったら、どんな目に合っているか考えられない。どうしてでも今度は、一緒に家に帰ろう」とホルチは心を決めた声で言った。
「俺らの中で、シラフと君はかなり完全な状態にいるから、早く帰る準備をして。俺ら三人のために心をかけるな」とおじは呟いた。
「おじ、どういう話か。僕がジガとアギに約束をしたんだ。必ず一緒に家に帰ると。だから、誰も残さないよ。帰るなら、一緒に帰ろう。じゃないと、僕も残るから」とホルチは声を微かに上げた。
「頑固だな」おじは、少し隔たりを置いてから「考えてみて。今の状況から見ると、火の祭りはもうそろそろ終わる。だけど、俺らの揃っていないものがまだいくつかある。だから、行ける人は、早く帰ったほうがいいだろう」と言った。
「いつもこんなことを言って、一緒に帰ると約束したのに。おじたちが行かないと、僕も行けないから。みんなここに来たのは、それぞれの理由があるという。だけど、僕がその理由をまだ見つけていないから、帰る道が知らないよ」とホルチは声を詰まらせた。おじは何も言わなかった。ただ、ホルチの鼻水を引く音が聞こえた。泣いているかのようだった。
「分かった。君の言うとおりにしよう。だけど、条件がある」おじが優しく言った。「君の計画通り頑張ってみる。火祭りの最後日まで全ての準備ができたら、みんな一緒に帰るけど、できなかったら、行ける人は必ず行く」
「明日道を探ってくるから」ホルチは、鼻を詰まらせたまま言った。
「男のくせに、涙がもろいな」とおじは、小声で笑った。
「誰が泣いた?鼻が詰まっただけなのに」ホルチは、意地を張った声で呟いた。
おじの軽く笑う声が暗がりを暖かくするようだった。そんなに経たない内に、ホルチのいびきが聞こえた。おじが寝返りをするのを聞いている内に、シラフも寝てしまった。
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