第13話 バウバウさん
不思議な光景だと思う。
築100年近い、歴史だけが自慢のボロ家の和室で、制服を着たブロンドヘアの美少女がニコニコしながら俺の稽古を見学している。
まるで海外旅行客を受け入れている観光地のような状況かもしれない。話題のインバウンドだね。
正直誰かと組手をしているわけではなく、ただ体術のフォームを固めているだけなのだが、天王寺さんはよほど興味があるらしい。時々身を乗り出すような体勢になって俺の稽古を興味深そうに眺めていた。
30分ほど体を動かしてようやく一息つく頃には、俺の頭から大粒の汗が流れ落ち、それが頬をつたい、そのまま道着にポタポタ落ちてしみこんでいく。
ゴールデンウィーク明けとはいえもう朝はそれなりに暑くなり始めていて、これから更に暑くなると思うと気分は少し沈みそうにもなるものだが、俺の稽古を見た天王寺さんが称賛の拍手を送ってくれた分まだそこまで気分が沈まずに済んだ。
「葉太郎くん!カッコ良かった!」
なんてことのないただの型みたいな稽古をここまで褒められると、嬉しさと同時に気恥ずかしさも生まれてくる。まあ、美少女が目を輝かせて拍手を送ってくれることについては全然悪い気がしない。
汗を道着の裾で強引に拭っていると、天王寺さんは人差し指を顎にあて、なにやら思い出したように呟いた。
「そういえばさっきちょっと話に出てきたけど、この家にはワンちゃんがいるの?」
「あれ?昨日会ってなかったか?…ああ、そういえば昨日は午後廊下に出てこなかったな。どうせ自分の部屋で寝てたんだろ。人間様がゴールデンウィーク終わったっていうのにのんびり延長戦楽しみやがって…」
「いいなぁ!私、ワンちゃん大好きなんだ!お友達になりたいなぁ!」
「そんないいもんじゃないぞ。反抗するし、呼んでもない時に来るし、必要な時に来ねえし…。そろそろ香月が散歩から帰ってくるんじゃねえかな」
そう俺が言い終わるかどうかのところで、廊下の奥から玄関の扉の開く音がする。随分とタイミング良く帰ってくるものだ。
「バウバウ!」
元気のいい声が廊下に響き渡ると同時に、廊下の床を支える木がきしむ音がした刹那、道場に真っ白な毛並みの犬が走って入ってきた。
犬は汗をぬぐっていた俺の周りを一周すると、後ろ脚だけで立って前脚を俺の膝につけてエサの催促をし始める。
その目はまるで「俺が帰ってきたんだからメシをよこせ」と言わんばかりだ。人間様がまだメシを食っていないのに要求するなんて、随分偉くなったなお前も。
「かんわいいぃぃぃ!ワンちゃん!こっちおいで!」
天王寺さんが正座した体を少し浮かせて両腕を広げると、体長60cmあまりの日本犬は天王寺さんの存在に気付いたか、そのまま天王寺さんの胸に飛び込んでいった。おい、うらやましいぞお前。
「ねえねえ、あなたお名前は?」
「バウ!バウ!」
「バウバウさんだそうです」
「バウバウさんっていうの?あなた変わったお名前ね!」
「ほらヨウ、桜にウソ教えないの。おはよ、桜。よく眠れた?」
俺が天王寺さんに適当に犬の名前を教えていたところに、散歩のパートナーである香月が額の汗をタオルでぬぐいながら道場に入ってきた。スタイルのいい体型に白のトレーニングウェアが良く似合う。
「香月ちゃんおはよ!うん、よく眠れたよ!」
「そう、なら良かった。隣の誰かさんのイビキで寝れないんじゃないかって心配してたの」
「俺は誰かさんの薬草をゴリゴリ潰すような音より静かに寝ている自信がありますがね」
「今度そのゴリゴリ潰した薬草、ヨウの飲んでるお茶に毒草と一緒に入れておくから」
「爽やかなティータイムをありがとうよ」
そうして朝からまた言い合いが始まりそうな俺たち2人を、天王寺さんは苦笑いを浮かべて見守っていた。時々犬に耳の近くをなめられてくすぐったそうにしている姿がまたかわいい。
「そういえば紹介してなかったわね。桜、この子は影丸。犬種は日本土着の
「バカゲマルか、バカゲのワンで覚えてくれ」
「ヨウ、あんたより影丸のほうが賢いんだからね。ちゃんと集中してごはんは食べるし、ヨウと違ってトイレの場所だってちゃんと守るわ」
「俺がまるで普段トイレの場所を分かっていないように言いますねえ!俺はこのバカゲと違っ…痛ぇなおい!」
悪口を言われたことを理解したのか、影丸は天王寺さんからサっと離れるとこちらに近づいてきて、そのまま俺の左手を噛んできた。本気ではないのは分かるが、噛まれれば普通に痛い。
香月が影丸を後ろから抱えると、「よしよーし、影丸は悪口言われたことも分かるなんて賢いわねぇ」と言いながら自分の胸元に寄せて首元を撫で始める。
気持ちいいのか影丸はくぅーんと声をあげ、首だけ反転させて香月の鎖骨のあたりをぺろぺろとなめ始めた。お前、女と俺に対する態度の差が激し過ぎるだろ。
すっきりと通った鼻筋に三角形に近い耳、フワフワの毛並みから顔だけ見ればかわいいのだが、普段から香月や母親には懐く割にどうにも俺に対しては反抗的な態度をとることが多い。性別を選んでいるとしか思えない。俺からするとかわいくない。
なお、この犬は姉の紅葉に対してはあまり近づこうとしなかった。たぶん昼間から酒の匂いを漂わせているのが原因なのだろう。
影丸を見つけると姉貴は「カゲちゃぁぁん!」と言いながら追いかけていくが、即座に影丸が自分の部屋、1階道場の向かいにある小さな物置に逃げ込むのがお約束である。
香月の胸の中に抱かれた影丸は、彼女の胸のあたりに顔をうずめてグリグリとやり始める。うらやま…いや、お前犬だからってなんでも許されると思うなよ。
「こいつ、女ばかりに懐きやがって…」
「あら?そんなことはないわよ?蔵之介にも懐いてるじゃない」
「それは蔵之介が自分のごはんを作ってくれるからだろ」
俺がそう言い終わるかどうかのところで、今度は道場の廊下側とは逆、縁側のほうの障子扉が開かれ、頭に白いタオルをまいた大男、蔵之介がエサ箱片手に入ってきた。
「おーすみんな、おはよう、いい朝だな!」
「ああ、朝から飼い犬に手を噛まれて最高の気分だよ…」
「どうせ影丸になんか悪口言ったんだろ?ほれ影丸、朝ごはんだぞー」
図星を突かれた俺を見て苦笑しつつ、香月や天王寺さんと挨拶を交わした蔵之介が、エサがあふれんばかりに入った丸いエサ箱を影丸から1mほど離れたところに置く。
朝の散歩の後でお腹が減っていたのだろう、影丸は嬉しそうに尻尾を振りながらエサ箱の手前にやってきて、蔵之介に何を言われるまでもなく"待て"の体勢を取った。
「うわぁ、影丸ちゃん賢い!我慢できるんだ!」
「へへへ天王寺さん、影丸の賢さはこんなもんじゃないぜ。ほれ影丸、お手」
「バウ!」と答えた影丸は、蔵之介の差しだした左手に、サッと右前脚を差し出し乗せた。続いて蔵之介が右手を差し出すと今度は左前脚を差し出し乗せる。
「わあ!影丸ちゃん本当に賢い!」
「あたぼうよ、蔵之介謹製のメシを毎日食ってるしな!これが食育よ!」
「え、これ全部蔵之介くんが作ったの!?」
「影丸のメシはぜーんぶ俺が作ってる。栄養まで考えたスペシャル定食だ」
食育の使い方をなんだか間違えている気がするが、蔵之介は毎日栄養面を考慮しつつ影丸のエサを作っているのは事実だった。まあ香月なんかに作らせたら影丸はエサを口に入れた瞬間ひっくり返るだろうし、賢明な判断だろう。
なんて頭の中で考えていると、立ち上がっている俺を斜め下から見ている香月の視線に気づいた。何か顔にでもついているのかと思ったが、どうやら違うらしい。香月が突然、右手の手のひらを上にして、俺のほうに差しだした。
条件反射のように俺はついしゃがんで、香月の右手の手のひらに自分の左手を乗せ…
「そう、ヨウもこのくらいはできるんだ」
納得したような表情を浮かべサっと右手を引いた香月は、そのまま後ろにバク転し、脱兎のごとく脱衣所のほうに逃走した。
「香月てめぇ!」と叫んで俺が廊下へ駆け出すと、後ろから天王寺さんと蔵之介の苦笑いする声が聞こえてきた。
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