2章-凄惨
01-死穢ヴァンパイア
ビョオォーーー、と鳴き声。
陽の届かない谷底から思わず空を見上げるも、どうも風が哭いた音のようで、特段奇妙な鳴き声を上げそうな生物の気配はない。
ただただ、苔むした青臭い匂いと、静かに川が流れる音がするだけだ。
夏だというのに虫の声一つないのは、相変わらず。
どこか無機質な自然と言うべき、違和感を感じる空気だ。
音に同じ反応をしていたヒマリ姉と目が合う。
振り返った姉のピンクブロンドの髪が、微かな日光を反射しキラキラと輝く。
そのまま照れ隠しのようににへっ、と笑ってみせるその姿は、天使の似姿なのだと言われても信じられるぐらい。
フェミニンな白いドレス姿も、その可憐さを助長していた。
なんとなく微笑み返すと、どうも気分が良くなったようで、ヒマリ姉はスキップを始めてみせた。
続け、隣を歩いている妹のミドリに視線をやる。
こちらは音に無関心そうに、淡々と歩いているようだった。
ショートカットの、こちらもピンクブロンドの髪が、歩くたびにサラサラと揺れてゆく。
少し眠そうにしつつも、警戒を緩ませずに僕と索敵系の役割を分担している。
日常では少しぼんやりとした表情を見せるミドリは、けれど戦場では引き締まった鋭い表情を見せる事が多い。
普段のぼんやりとした表情は当然可愛らしいが、こうして引き締まった表情も素敵で、愛でてやりたくなる。
オーバーサイズのブルゾンと、その裾から出る生足というスタイルも、彼女の愛らしさを増している。
その衝動を押し殺しながら、僕は視線で数秒愛でるにとどめ、意識を現実に戻した。
二人とともに、僕は双子山に来ていた。
皇都から北西方面、山脈地帯の一角。
標高1000mを超える山は峰を二つ持ち、東岳から西岳まで連なる長い尾根が広がっている。
山頂近くは苔と低木と岩肌がまばらになっており、尾根のすぐそば、切り立った崖はゴツゴツとした岩肌の成分が多くなる。
そして急な崖を下っていくと、はるか底、広大な川が流れる谷底に辿り着く。
川幅は広く浅く、谷底の横幅は20m近くあるだろうか。
曲がりくねりどこまでも続くようなその谷こそが、僕らの目的地だった。
「いやぁ、ピクニックみたいな感じでいいねぇ。何時かの沼は酷かったからなぁ」
「んー。ちょっと日差しが足りないけど、まぁ。気分はキャンプ」
「子供の頃、行ったね。なんか僕は、やたらアマガエルを探していたような記憶があるな……」
と言って視線を辺りにやるも、ここにはカエルはおろか、魚も虫も居ない。
その理由を知りたければ、とりあえずここに来てみるのが手っ取り早いだろう。
死の気配。
圧倒的位階から放たれる威圧が、多くの命に対し死の想起をさせている。
それでも鈍感だったり直感を信じられない生き物はソレに近づいていたのだろうが、餌にされてしまいもう居なくなってしまったのだろう。
だからこそヤツは飢えを満たすために人里に出て、僕らが討伐にやってくることになった訳だが。
と、そんな雑談を時折交えながら、谷を進んで暫く。
チリ、と僕の索敵結界に反応。
「目標発見……報告よりでかいな、全長30m近くある。走ってきてる、僕が防御する」
「ユキちゃんお任せ~、今日は予定通り、私がミドルね」
「りょ、隙あれば攻撃は狙ってみるよ」
二人の言葉を耳にしつつ、僕はかざした手から、糸を発生させる。
固有術式"運命の糸"。
青白く光るそれを、空間を支点に編み込み糸網を設置。
直径10mはあろうかという広大な防護網を、全力を込めて空間上に設置された疑似支点で支える。
遅れ視界に、曲がり角を超えてきたその威容が映った。
それは、動く小山だった。
石灰色をした巨大な岩の塊が、凄まじい速度で突っ込んでくる。
それはカーブを超えて一気に加速、時速100km近い速度に到達。
全長約30m、推定30トン以上の高速移動体と化す。
「GURYUUUUUU!」
それは、白岩竜と呼ばれる竜の咆哮だった。
飛行能力を持たない竜の中でも最大級の、特殊な能力は持たない頑健さと質量特化の竜。
シンプルながら恐るべき力が襲い来るのに、僕は腹に力を入れる。
ドパァン、と轟音。
僕の作り出した糸網は、伸び切りながらもどうにか、白岩竜の突進を留めることに成功していた。
己の突進が止められたことに驚いたのだろう、岩竜がその緑色の目を見開いた。
「シッ!」
「GYA!?」
そこにすかさず、ヒマリ姉の"よろずの殴打"による遠距離攻撃が突き刺さる。
目の前の空気を塊として定義して殴ったことによる、即席の空気砲である。
怯んだ竜に、遅れミドリが放った熱線が突き刺さった。
約5000度という超熱量が閉じ込められた光は、しかしその岩肌に緑色の術式光を宿らせるだけで、然したる損害は与えられない。
「硬っ! 思ったより、反術式結界が硬い!」
「……なら、僕が行くか」
「え、ユキちゃん!?」
反術式結界の発動にはある程度の距離が必要であり、それを近接戦闘であれば素通りできる。
ヒマリ姉の悲鳴を尻目に、僕は糸網の結界を解除。
僅かに浮いていた岩竜の巨体が、地面へと落ちる。
バランスを崩しながら、どうにか姿勢を正そうとする岩竜へ向け、僕は駆けた。
絶叫と共に、岩竜が爪を振るう。
が、空中に置いていた糸罠に引っかかり、十分な勢いを出せないままに静止。
バランスを崩した肉体でたたらを踏む岩竜の間近に到達し、跳躍した。
近接の間合い、時間が圧縮されてゆく。
岩竜の目が僕を捉える。
直後、口を大きく開けて噛みつき。
僕は空中に新たに作った糸足場を蹴って回避し、そのまま掌をかざした。
青白い糸が、その場で編まれてゆく。
全長1m程度、両刃の厚みのある刀身、豪奢な装飾の刻まれた鍔。
偽物の聖剣。
糸剣が手元に形作られ、僕はそれを掴むとすぐに、たどり着いた岩竜の鱗の合間に突き刺す。
そのまま僕は、深く突き刺した糸剣の刀身を、解いた。
「GYAAA!!!」
絶叫と共に体を振り回されるが、残る片手で竜の岩肌を掴み、振り落とされないよう追加の糸で僕自身を竜に括り付ける。
無数の糸が竜の血肉をかき分けながら、中の肉を破壊しながら奥へと突き進む。
脂肪を、筋肉を、血管をかき分け、暫くして首元へと到達。
「AAAAAAA!!!」
僕がその首を引きちぎろうとするその間際、咆哮とともに竜はひざを折り、背中から崖へと飛び上がった。
僕を崖に叩きつけて殺そうという腹積もりだろう。
だが僕は、回避も防御もせず、淡々と竜の首を断とうと、なるべく多くの糸をそこに辿り着かせることに集中したままだった。
何故ならば。
「させないよ!」
僕には、頼りになる姉妹がついているからだ。
ヒマリ姉が、その全力の拳を崖に突き立てる。
崖は"ステージの壁"のように定義され、拳は"壁越しの物を殴打する"と定義された。
故にその殴打は、壁越しに竜を殴りつける衝撃と化す。
凄絶な魔力が生み出した疑似質量が、その体躯をはるかに超えた運動量を生み出す。
超質量から生み出さされた凄絶な拳が、竜の無防備な背を打った。
悲鳴を、竜は上げる事すらできなかった。
何故ならその時すでに、僕の糸剣から放たれた糸は、竜の首を切断していたからだ。
空中を、首だけになった竜の頭がくるくると回転している。
その生首と、目が合った。
信じられないものを見る視線。
その驚愕を最後に、数回転するうちにその意思は薄れ、ドスンと地面に落ちる頃には完全に消えていた。
遅れ、首から下が川へと落下。
浅いながらも広いその川の水を、高く巻き上げる。
「……よし、上手くいったか」
僕は独り言ちた。
竜の首の切断に、僕は熱量系の術式を応用し、首を焼き切るように叩き切った。
そのおかげで、竜の血をあたりにまき散らす事なく、その体内に保持したまま殺害することに成功したのだ。
竜の血は、資源となる。
強力な魔物なので努力目標でしかないが、なるべくその血を損なわないように殺す事が、高度な冒険者には求められる。
今回の白岩竜で言えば、岩鱗、血肉、骨、脳髄と使いどころが無数にある。
逆に白岩竜は完全に物理特化で竜の吐息などは使わないため、竜の吐息を打たせての他の素材回収と言った要素はほとんどない。
こうしてなるべく致命傷のみで倒すのが望ましい相手だ。
意識して速攻で決めたのだが、上手くいって良かった、と安堵のため息が出る。
「ミドリ、冷凍保存、お願い……」
と。
ミドリの方に視線をやると、その全身がびしょ濡れになっていた。
どうやら先の、竜の首から下が巻き上げた水を、モロにかぶってしまったらしい。
それは隣のヒマリ姉も同じで、崖越しに竜を殴ってすぐにミドリの護衛ポジションに戻っていたので、一緒に水を被ってしまったようで。
それは、いいのだが。
「うぅう、めっちゃ張り付いてる……」
ヒマリ姉は、ワンピースタイプの白いドレスを戦装束として着ている。
水に濡れたそれは、ヒマリ姉の豊満な体に張り付き、その体の線を浮き上がらせていた。
インナーは戦闘向けのピッタリとした特注品をピッタリと着ているはずなので、下着が浮き上がるような事はない。
ないのだが、そのボディラインが浮き上がってしまうだけでも、妙に艶めかしく見えてしまう。
「うー、ちょっとジメジメするから、開けて乾かさないと……」
ミドリは、ブカブカのブルゾンを1枚しか着ていないように見える恰好だ。
ブルゾン自体に防水機能もあるため、頭から水を被った所で、見目としては元々露出している部分が濡れたぐらいの違いしかなかった。
ただ、それがブルゾンの前を開けて、インナーを見せるとなれば別だ。
ミドリのインナーは、上半身のみのピッタリとした黒インナー。
ブルゾンの中に直接着ており、1枚開けるだけで上半身のラインが明らかになってしまう。
下半身は意味があるのかというぐらい短いホットパンツのみで、その華奢な体の線が思いっきり見えてしまった。
思わず、視線が二人を揺れ動いてしまう。
そんな僕が我に返って視線を逸らそうとするより早く、目ざとく気づいたミドリが、ニヤリと微笑んだ。
「……兄さん、眼福? どっちの方が好み?」
「え!? あ、ちょ、待って見ないで!?」
ミドリの言葉で僕の視線に気づいたのか、ヒマリ姉は屈みこんで体を隠した。
チロリと舌で自らの唇を舐めるミドリも、恥じらって体を隠そうとするヒマリ姉も、どちらも魅力的過ぎて困る。
僕は深く呼吸をし、なんとか視線を逸らしてみせた。
「ミドリ、いいから早く乾かしなさい。夏だからって、風邪ひくよ。
終わったら早めに、竜の冷凍も頼むよ」
「は~い」
「うう、ユキちゃんのえっち……」
姉の恨み言に胸が痛みつつも、同時にどこか、僕は安堵を感じていた。
最近姉妹の距離が近すぎて、二人とも僕に対する恥じらいが消えてしまったのでは、と感じるぐらいだったからだ。
ミドリのほうは何とも言えないが、少なくともヒマリ姉はボディラインを見られて恥じらう程度の感性は残っているらしい。
どう考えてもハグして僕の首に鼻をこすりつけてくるほうが恥ずかしいような気はするのだが、彼女なりの基準というのがあるのだろうか。
そんな風に僕が体ごと視線を逸らしているうちに、ミドリの術式が服を乾かし、続け竜の死体を冷凍し始める。
ここから運搬が大変そうだ、と溜息をつきながら、とりあえず車までの運搬用に糸の吊り下げハンモックを設計し始めた。
流石に推定30トンクラスの竜を、30km以上運ぶのは、心底辛い。
とは言えバンの耐荷重を明らかに超えているので、道中僕が空中の疑似支点を用いた術式で支え続けなければならないのは確定している。
憂鬱な作業に、正直戦闘よりも辛い思いだ。
そんな僕のところに、手持無沙汰になったヒマリ姉がやってきた。
先のやり取りのせいか、少し顔が赤いままで、僕の隣に立つ。
「それにしてもユキちゃん、瞬殺だったね……。超、強くなった」
「……うん」
かつて52だった今の僕の位階は、なんと86。
かつてのナギの位階に迫る、圧倒的力量だ。
真面目に訓練していたのが馬鹿らしくなるほどの上昇だが、事前に制御や汎用術式を多く学んでいたからこそ、上手く運用できると言えなくもないか。
春には三人の中で最弱だった僕が、いつの間にか三人の中で最強になっていた。
ここ十年以上、明確に家族の中で最弱だった僕が、である。
正直座りが悪いというか、未だにしっくりこない。
こうやって僕メインの討伐系依頼を頻繁に受け力を実感させてもらっているが、それでも、まだ。
「……未だに咄嗟に、姉さんやミドリに頼りそうになってしまうな。
二人とも頼りになることは間違いないし、悪いとは言い切れないんだけど」
「……えへ。お姉ちゃん、頼りになるかな?」
「なるよ、とっても」
「……そっか」
両手を動かし、糸の運搬用ハンモックを設計する僕の傍ら、ヒマリ姉はじっと僕を見つめていた。
風になびく髪を抑えながら、じっと、何か輝かしいものを見る眼つきで。
罪悪感に似た、胸を渦巻くものが湧いてくる。
お前がそんな目で見られる事は間違っているのだから、お前がこのヒトを騙しているに違いないのだと、心の中のどこかが囁いてくる。
僕はそれを黙殺し、静かにただ淡々と設計作業に邁進するのであった。
*
双子山から皇都のギルドまでは、100km以上。
流石にその間30トン以上の重量を吊り下げ続けるのは現実的ではなく、30km少し先の地方のギルド支部の解体場が目的地だった。
そもそもバンまで戻るのに1時間程度。
曲がりくねった山道を行く都合上、安全運転で1時間程度。
休憩をはさみつつ、都合2時間以上の吊り下げで消耗した僕は、どうにか解体場で竜を受け渡すと、帰り道はバンの後部座席を倒し横になっていた。
流石に寝入るほど快適ではないものの、それで皇都に戻るころにはある程度回復できていた。
「いやぁ、流石は次代の英雄殿。あれほどの巨大な白岩竜を、それも素材をほとんど損なう事な確保するとは、あっぱれですなぁ」
とおべっかを使うのは、見覚えのあるスーツ姿の重役だ。
沢屋敷常務、確か竜銀級合格の時にも応対した、中年の男だ。
ふくよかな体を高級スーツに包み、革靴はピカピカに磨かれ、腕時計は品の良い濃さのゴールド。
絵に描いたような高級役員に、苦笑しながら、ひざの上の姉さんを撫でてやる。
ギルドのロビー、報告作業を終えての、確認待ち時間。
ミドリは隣で携帯端末を弄っており、反対側の姉さんはボーっとしていたのだが、途中から眠そうに首をこくりこくりとし始めた。
遠出の場合、年齢的に運転免許を持てるのが姉さんだけで、早起きからの運転を強いられる。
そのうえ車も、当人の可愛くないよ~という怨嗟の声を浴びながら、扱いやすさや積載量の関係で無骨なバンを使っているので、疲れもひとしおだろう。
そんな姉さんに膝を貸してやっている途中、通りがかった沢屋敷に話しかけられたのである。
「公式に、僕は先の事件に関わってはいませんよ」
「えぇ。ユキオ殿が"次代の英雄"と呼ばれ始めた公式な背景は不明です。
しかしながら、その風評に恥じない実績を残しているのであれば、ユキオ殿を"次代の英雄"をお呼びするのも、なんら問題はないかと」
「これは、上手い人ですね。そのように言っていただけるのであれば、素直にその賛辞を受け取らせていだきますとも」
いかにも社会的立ち位置が高いと全身で主張する人からの、敬称付きの絶賛。
これで調子に乗らないほど、僕は人間ができていない。
心の中で鼻高々になりそうになるのをどうにか引き締め、微笑み返して見せる。
やれやれ、僕を調子に乗せて何をやらせたいのやら。
視線と視線が交錯する。
沢屋敷の視線は柔らかい琥珀色の光を宿しており、その裏の意図はうかがい知れない。
彼は僕の所属する冒険者ギルドの上役だが、それは味方であることを意味する訳ではない。
とは言え、その瞳の奥の意図を探れば、それは灰色の相手を敵対させてしまうことになりかねない。
僕は無害さのアピールのため、失礼にならない程度に彼から意識を外し、適度な興味を提示する。
と、足音。
こちらに向かうそれが見知った人間の物であることに気づき、そちらに視線をやる。
「あ、ユキオ!」
「……ソウタか」
ズカズカとこちらに近づいてくる城ケ峰ソウタと、ソウタを壁にする立ち位置でついてくる淀水コトコ。
ちらりと彼らを見ると、沢屋敷は「では、後ほど職員から連絡をさせます」と足早に去っていった。
まぁ、デリカシーという言葉と無縁のソウタは、ギルドの重役になんとなく反抗的で、会話したくはないのかもしれない。
そんな事を想っていると、ズカズカと足音を立てて近寄り、ソウタ。
「お、おま、なんてことを!」
「おいソウタ、声がでかい。朝早かったんだ、姉さんはもう少し寝かせてやってくれ」
「え、あ、すまん……じゃなくて、なんでお前が膝枕を……」
「そりゃ眠そうにしてる姉さんの隣に居たからだろ……」
こちらを指さすソウタに、溜息。
ポン、と姉さんの頭を軽く撫でてやると、ん、と声が返ってくる。
見れば、姉さんの青い瞳と目が合った。
「大丈夫、起きるよ。報告の確認まで、もうそんなにかからないだろうし」
「そっか。ごめんね、コイツ五月蠅くて」
「え、あ、はい、ごめんなさい……寝起きのヒマリさん、可愛いなぁ」
ソウタの言葉の後半は小声だったが、聞き取れた。
何度言っても姉さんを下の名前で呼んでくるのに、当人でもないのにイラついてしまう。
思わず眉を顰めるが、僕よりも姉さんの方が遥かに不機嫌そうで居るのに、こちらは黙ったままだ。
先に怒るべき権利のある姉さんが黙っているのに、僕が激発する訳にもいかないだろう。
怒りを飲み込み、小さな溜息をつく。
そんな僕に、長椅子の裏側に回り込みつつ、小声でコトコ。
「おい、ユキオ。お前、位階はいくつになったんだ?」
「……86」
「86ぅ!?」
ソウタの叫び声に、あたりがざわついた。
ほどほどに人影のあるロビー、職員や冒険者の他に部外者の姿も見える。
これはバレたな、と深くため息をついた。
位階に関する情報は通常、そこまで深く隠ぺいしない。
自らの位階を知らしめるということは、ある種個人事業主でもある冒険者の売り出しにもつながるし、ギルドを通さない個別の依頼を受ける場合にも有利になる。
言わば営業活動の一種であるし、積極的に公開する機運が高い事は確か。
とはいえ、"自由の剣事件"に関わったという噂のある僕が、その前後で位階が大きく上がったと言えば、それは噂が正しいと証明しているようなものである。
「……ソウタ、あんまり他人の個人情報を、公共の場で大声で……」
「い、いやだって、え!? ……いや、そんなすぐ分かる嘘、お前はつかねーし……でも驚くのはしょうがなくね!?」
「人の会話に聞き耳立てて、勝手に驚いて、しかも驚くついでに人の秘密をバラさなきゃな……」
「サイテーだね」
「カスじゃん」
「ソウタは割とクズだから……」
姉妹だけでなく、一応味方のはずのコトコからも攻撃され、ソウタはその場に膝をついた。
誰も擁護しないあたり、こいつの人徳というものがうかがい知れるだろう。
数秒ぷるぷると震えていたソウタだが、立ち上がると、グッと握りこぶしを作って叫ぶ。
「さ、先を越していい気になりやがって……!
次は俺が大事件の犯人をぶっ殺して、追い付いてやるからな!」
「……は?」
凍り付いた。
負の感情を抱いたというよりも、何を言われたのかが理解できなかった。
そのまま大きく呼吸、意識を落ち着かせて、それでようやく何を言われたのか、咀嚼し飲み込む。
ソウタは、僕がナギを殺して強くなったことを、羨んでいる。
……いや、ソウタはその場におらず、僕とナギの関係性は緘口令が敷かれたのだから、僕が誰かを殺した、としか知らないはずだ。
僕が、誰かを殺して、強くなった。
そしてソウタは、それを羨んでいる。
それ自体は別におかしなことではないし、僕が怒るような事ではないはずだ。
だから、僕は、落ち着くべきだ。
「え、あれ、俺なんか不味いこと言った?」
目の前で狼狽するソウタに、僕はゆっくりと呼吸することを意識する。
腹腔の底から黒く重いものが沸き上がってくるのを、感じた。
臓腑を焼き尽くすような炎を、想像の中で、踏みつぶす。
握りしめた両手は、いつの間にか、爪が掌に食い込み血を流していた。
「ソウタ、君なんてこと!」
「姉さん、いいんだ」
激高して立ち上がったヒマリ姉を、手で制する。
視線が合うが、僕は首を左右に振る。
姉さんは唇を噛みしめ、視線を下げ、苛立ちを抑えながら腰を下ろしてくれた。
それから困惑するソウタに視線を合わせ、僕は口を開く。
「ソウタ、何でもない。何でもないんだ。
ただ、その、ちょっと色々とね。今日の所はこれで、別れてくれるかな」
「ユキオ、お前……なんて、顔してるんだ」
まるで、幽霊でも見かけたような、青ざめた顔だった。
いつも快活で明るい顔をしたソウタがそんな顔をするなんて、と思わず目を瞬いた。
咄嗟に手を顔にやるが、特段何かある訳でもなく、僕自身のいつもの顔だ。
携帯端末を取り出し、内カメラを起動すると、いつも以上に陰気な、死体のような顔が出てきた。
あぁ、と独り言ちる。
「こりゃ、まぁ、酷い顔だな……」
まるで"僕は被害者です"とでも書いてあるかのような、醜い面だ。
どれだけ図太ければこんな顔を浮かべられるのやら、と僕は自分自身にあきれ果ててしまった。
肩を竦めながら視線を戻すと、コトコに連れられる形で、ソウタは離れていた。
こちらをチラチラと見るコトコと目が合い、頭を下げられる。
「……すまん」
「謝る事じゃあないさ」
コトコは一瞬目を細めるも、僕らに背を向けた。
急ぎの用事ではなかったのか、二人はギルドから出ていく進路を重そうな足取りで歩いていった。
それを尻目に携帯端末を仕舞うと、ロビーのアナウンスで僕らが呼びされる。
ヒマリ姉とミドリ、二人に目配せし、僕はゆっくりと立ち上がった。
どれほど憂鬱になったところで、やらなければならない事はいくらでもある。
僕はこれから清算を受け取りに行かねばならなかったし、その後は繊維研で下野間さんとの約束だってあった。
重い足を、カツカツとリノリウムの床板に突き立てて歩いて行った。
*
空調の音が、低く唸る。
ラップトップのキーボードを叩いていた下野間景義は、ノックの音を聞き、視線をドアにやった。
長年酷使されたオフィスチェアが、ギギギと油の切れた音を響かせる。
会議室のドアが開き、二人が連れ立って現れた。
「失礼します」
「……失礼します、下野間さん」
先導する少女は、下野間の見知った金髪蒼眼の娘だった。
夏らしい、白い半袖ブラウスにシンプルな青いスカートを合わせた、少し背伸びした格好。
その後ろから現れたのは、二階堂ユキオだ。
灰色の髪にグレーのミリタリーシャツ、細身のジーンズという普段より少し薄着の恰好で、気のせいか、灰色の髪の色素が幾分薄くなっている気がする。
何時もにも増して憂鬱そうなその黒い瞳に、僅かながら、安堵の色が垣間見えた。
見知った下野間と出会えたからなのだろうと考えると、どうにもいじらしく思えてしまう。
「いらっしゃい、ユキオ。さて、兎に角かけてくれ。ほら、チセもな」
「え? はい」
少女は下野間の隣に腰かけた。
それを見て戸惑いながら、ユキオは下野間が手を差し出した通り、少女の対面、下野間の斜め前に腰かける。
重そうなブーツが床を叩く音が、毛足の短い灰色の絨毯に、吸い込まれていった。
下野間が視線をやるのに頷き、少女が緊張気味にユキオに視線を合わせた。
「初めまして。下野間チセと言います。お父さんが、いつもお世話になっています。中学三年生で、今は夏休みで、お父さんの研究所でアルバイトしている所です」
「……こちらこそ、初めまして。二階堂ユキオです。下野間さん……彼の娘さんなんですね。こちらこそ、いつもお世話になってます」
型にはまった挨拶を交わす二人に、下野間はクスリと微笑んだ。
「ユキオ。ウチの娘だが、この前の"自由の剣"事件で、ちょうど避難ギリギリの所で足を怪我して留まっていてな。
あとちょっと例の斬首結界が動いていれば、危ない所だったんだ。
お前さんが公式には何もしていない事は知っての上だが、その上でその、何となくだが、娘が礼を言いたくなったみたいでな」
「その、ユキオさん、ありがとうございます!」
視線を向けると、チセは目を輝かせながら、ユキオの顔をじっと見つめていた。
チセは下野間の妻の容姿を色濃く受け継ぎ、金髪蒼眼と連合国風の見目をしている。
白い肌を興奮で赤くしながら、じっと男の顔を見つめるその姿は、父親としてはなるべく目をそらしたくなる光景だ。
だから会わせたくなかったんだよ、と内心ぼやきつつ、下野間はユキオに視線をやる。
ユキオは、ある意味予想通りの暗い表情をしている。
ここの所、"自由の剣"の解決後のユキオは、ずっと今にも死にそうな表情をしていた。
下野間もなるべく声をかけてやっており、プライベートでも時間を作って何気ない話ぐらいはしてやった。
しかしその程度ではユキオの心は晴れ切らないようで、下野間も歯がゆい思いをしていた。
結局のところ、下野間はユキオに対し踏み込み、親身になりきる事はできなかった。
仕事の取引相手である以上、下手に踏み込みすぎて反感を買う事を考えると、中々手が出なかった。
下野間は阿畑中繊維研の部長という立場にあるが、別段それは安泰という訳ではない。
ユキオの"運命の糸"を用いた研究は多くの利益を生み出し、それが下野間の地位を安定させているが、逆説、ユキオとの関係が切れれば大きな失態となることも確か。
上の娘が自立せず、下の娘が学生である以上、下野間は賭けに出る事はしたくなかった。
故に対立しても会わせなくする事ができ、下野間とユキオの関係を壊す可能性の低い、娘をユキオのフォローに回す形を考えたのだ。
(すまんな……)
誰に謝っているのかも分からず、下野間は内心独り言ちた。
視線の先、チセは興奮しながらユキオに向け、早口に話し続けている。
「はい! この前寄った喫茶店のケーキなんですけど、とても美味しくて!
この後ご一緒しませんか? 学生なもので、このぐらいしかお礼ができないのですが……。
美味しい物を食べれば、幸せに、笑顔になれます。
ユキオさんに、笑顔になってほしいです。
どうでしょう、何故かどうしてもお礼をしたい私を助けると思って、ご一緒していただけませんか?」
ちらりと視線をやるユキオに、下野間は頷いてやった。
少し困惑気味ながら、ユキオはチセに、大きく頷いて見せる。
「うん。折角だし、ご一緒させてもらおうかな」
「やったぁ!」
万歳して喜ぶチセに、下野間は苦笑しながら頬杖を突き、二人を眺めた。
チセは、明るく天真爛漫な振舞で、ユキオへの好意を全開にして話しかける。
ユキオは戸惑いつつも好意を受け入れ、疲れ果ててた顔を柔らかくし、どこか眩しいモノをみるような目でチセを見つめている。
下野間が予想していた通り、二人の相性は良い。
誰かを自然に引っ張っていける行動力のあるチセは、どこか留まりがちなユキオにとって相性の良い相手だろう。
一方で、誰かの隣に立ち、その誰かが躓いた時に支えるのが得意そうに見えるユキオは、チセにとっても相性の良い相手だ。
少なくとも、友人として仲良くなれる相手であることは間違いないだろう。
(友人を超えた関係は認めん、と言いたいが……)
二階堂一家は全員優れた美貌を持っており、ユキオもその例外ではない。
男らしいというよりは中性的で、まつ毛は長く、肌はどこか妖しさを感じる白さ。
陰のある引き込まれるような表情が多く、その人格を知らなければ、下野間としてはいけ好かない顔の男と評していただろう。
下野間としても彼に世話を焼いてしまうのに、その美貌が関わらないと言えばウソになるか。
同性とは言え美しい少年が、自分を慕い尊敬する目で見てくるのに、どうしても甘く接してしまう。
これが二つしか違わない年下の娘からどのように見えるかは、論じるまでもあるまい。
しかし、その二人の相性の良さを察したうえでわざわざ引き合わせたのは、下野間自身なのである。
とすれば、その関係性が発展するのを否定するのは、少し傲慢が過ぎるだろう。
なるようになるしかないか、と下野間は内心溜息をつく。
(ユキオのシスコン度にドン引きしてくれないかね……)
我ながら最低の事を考えているなと思いつつも、下野間は会話を弾ませる二人をぼんやりと眺めているのであった。
*
カクン、と頭が落ちそうになり、一気に意識が覚醒する。
家のリビング、照明は暖色に切り替えられているので、夜か。
そうだ、出会った下野間さんの娘チセとは結構話が弾んで――なんと勇者物語のファンだった!――少し予定の時間から遅れて帰宅し、姉妹にそれを見とがめられてくっつかれて。
くっつき虫と化した二人を宥めつつ、夕食を取って……それから。
ぼんやりと辺りを見回すと、テレビを見ながら煎茶を飲んでいるパジャマ姿のミーシャと視線が合った。
「おや、起きましたかユキさん。もう遅い時間ですし、あと少ししたら部屋に連れていく予定でしたが」
「ああ……おはよ……」
「おそよう、ユキさん」
ショボショボする目を瞬き、あれ、と視線を辺りにやる。
それを見越していたのか、溜息混じりに、ミーシャ。
「二人は暫くくっついていましたが、もう寝ましたよ。明日も仕事ですしね」
「ああ、なるほど……。なら僕も、そろそろ寝ないとね」
「なら寝る前にホットミルクでも入れましょうか?」
「そうだね、お願いするよ」
欠伸交じりに言いつつ、僕はダイニングチェアへと移動した。
ソファに比べ硬い座面に意識を戻しつつ、携帯端末に触れると、チャットアプリの通知がある。
開くとチセから数件チャットが来ていた。
返信を書いているうちにミーシャが入れ終えたホットミルクを持ってきてくれたので、礼を言いつつ受け取る。
と、そこで目ざとくミーシャ。
「あれ、また女の子に手を出したんですか」
「人聞きの悪い……取引先のお世話になった人の娘さんだよ」
「どれどれ……」
と、ミーシャが、僕に背中から覆いかぶさった。
人肌の温度、遅れシャンプーのミルクっぽい香り。
柔らかい体が背中に、そして携帯端末を持つ手を、ミーシャの手が覆った。
銀色のキラキラと輝く髪が、すぐそばをフワフワと揺れる。
震え、思わず息をのむ。
「……うわぁ。普通にお茶してるじゃないですか。割とメロメロですね。食べようと思えば、パクッと行けちゃうぐらいでは?」
「そんなこと、ないだろ。今日初対面だし、友達になれたらな、ぐらいだよ」
「へぇー……」
と、ミーシャが視線を僕の顔に移した。
息がかかりそうなぐらい、近い距離。
初恋の人が、薄着で、密着して、性の話をしながら。
ペロリと赤い舌が、その唇を舐める。
てらりと輝く口唇に、視線が吸い寄せられる。
「ユキさん、誘惑されても負けちゃだめですよ?
あ、私の誘惑になら負けてみてもいいですけど?」
寝起きでぼんやりしているからか。
疲れているからか、それとも性欲が抑えきれないのか。
ある種の誘いに僕は吸い寄せられそうになって……。
痛みが走る。
フラッシュバック、ナギの顔。
頬にキスをする光景。
最後までマウストゥマウスのキスはしなかった、大好きだった人。
「……あまり、僕をからかわないでくれよ」
どうにか冷静さを取り繕い、僕は苦笑を作って言った。
この人に、かつて僕は振られているのである。
この距離の近さだと、出会った男は皆ミーシャに惚れていてもおかしくないな。
そんな風に思いつつ、間近にあったミーシャの頬を、悪戯につついてやる。
「や、やめてください~突かないで~」
「僕をからかった罰って事で。……ぷにぷにだね、ほっぺ。ある意味誘惑に負けそうだ」
のんびりした悲鳴を上げつつ、ミーシャは僕から距離を取った。
うう、と数秒、僕の顔を指との間で視線を行き来させ、両手で大きくバッテンを作る。
「の、ノーモアほっぺ! それはダメです、ダメダメ禁止!」
「それならミーシャも、僕をからかうの禁止ね」
「それは禁止不可! 私の方がお姉ちゃんなので、ユキさんをいぢめる権利は国家に保証されています!」
「どこの国だよ……」
苦笑しているうちに、ミーシャは少し悩んだ末、おやすみなさい、と告げてリビングを去っていった。
僕もまた、飲み終えたホットミルクを片付けると、自室へと向かう。
歯を磨いて身支度をして、自室の電灯を消して。
暗くなった部屋の中、なんとなく鏡を見て、あぁ、と呟いてしまう。
そのまま僕は鏡に近づき、そこに映る自分を間近に見やる。
僕の左目は、ほんのりと青を帯びていた。
元々黒く、ほとんど瞳孔とその周りの差が分からない眼が、色味を帯びたのだ。
"自由の剣"事件の終息後から、僕の左目に時たまこんな青い物が見られるようになった。
常に青くなっている訳ではなく、戦闘中など魔力を強く発するときに、虹彩が青くなる。
それ以外の時もたまにこんな風に青色が浮かぶにようになっているが、現状その条件は分からない。
青い目をした人は、割と周りに多い。
ヒマリ姉とミドリもそうだし、福重さんも青い目で、今日であったチセも同じく青い瞳。
しかし青い目と言われて一番最初に思い起こすのは……ナギだった。
何故ならこの青い目が発現したのは……タイミング的に、ナギからの輸血を受けてからだったのだから。
あの日、ナギとの決戦の日。
僕は覚醒というべき位階の上昇を起こし、およそ72の位階まで到達した。
それでも絶望的な実力差であり、勝てたのは奇跡といって過言ではなかったのだが……それはともかく。
その後僕は勝利するも死にかけ血が足りず、ミドリの手によりナギの血を輸血され命を長らえた。
歴史的に、強い力を持つ人間の血を輸血すると力が増した、という話はいくつかある。
そのどれもが格下が格上の血によって力を増すという形であり、また身近で信頼しあうような仲である事が殆どだ。
つまるところ僕の位階の上昇はいくつかの前例がある事柄で、珍しいものの、ありえないとは言えないものだ。
とは言え前例における上昇率は、そこまで大きくはない。
対し僕は、覚醒の前後だったからか、その命を絶ったのが外ならぬ僕だったからか。
上昇率は高く、位階86、ナギには劣るものの近しいレベルまで到達していた。
結局のところ、メカニズムが解明されていない以上、僕の目が青くなり位階が上がった理由は、推測しかできない。
その因果関係は誰にも解明できなかったが、僕はこれがナギの血がもたらした力なのだと、信じている。
つまるところ。
僕は恋した人を殺してその血を啜り、力を増して。
その増した力を振り回して、英雄に相応しい力を持っていると社会的に証明しているのだ。
「僕は、本当に……本当に……」
手をかけた愛しい人の血を啜って強くなる、畜生。
そんな僕が、尊敬の目を向けられたりするのに相応しいはずがなく。
強くなったと褒められるのも、助けてくれたと礼を言われるのも、誇らしいというよりは心底辛い。
それでも強い人間が、多くの人の命を救った人間が、多くの尊敬を受けるのは自然な事柄だ。
内実を語る事ができないのであれば、自然な通りに尊敬を受け取り装えなければならない。
不相応な外面を、それでも取り繕わねばならず。
今日も醜い生き様を、僕は晒し続けていた。
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