ex02-ヒマリのスーパーお姉ちゃん力




 講義室に入り、ヒマリは後ろ手にドアを閉めた。

コツコツと、ブーツの硬質ゴムがリノリウムを叩く。

ヒマリの纏った威圧がそうさせるのか、ざわついていた講義室内の声が、収まりを見せた。


 教壇に立ち、端末を接続しつつ受講生達にざっと視線をやる。

全22人。

今回の講義は新人向けだが、大きく年齢層は2つに分かれていた。

皇国の冒険者学校は中等部と高等部の両方が存在する。

かつての人魔大戦前は、冒険者学校と言えば高等部であり、満18歳の成人が冒険者として活動し始めるのが通例であった。

しかし人魔大戦により人類が半壊、冒険者の需要が激増した事により、中等部の設立と冒険者の低年齢化が始まる。

10年ほど前は中卒冒険者の方が多くなっていたが、現状だと五分五分という所か。


(ちょっと面倒かな)


 二階堂ヒマリは、現在18歳。

高卒冒険者だと同年齢か、留年者だと年上ということになる。

年功序列を持ちだす輩はどこにでもおり、ヒマリの肌感覚だと、講義を真面目に聞かないのはむしろ年上に多い。

内心の辟易を顔に見せぬままに、腕時計に視線を。


「さて、時間になったようなので、講義を始める。

 近接徒手格闘1、講師は私、二階堂ヒマリ。

 冒険者学校卒の新人向けを想定した内容となる。

 期間は二か月、全8回の予定だ。

 今回は講義30分、その後10分の休憩と移動、80分の実技訓練の予定だ」


 硬い口調に、一部の受講生が驚きの顔を見せる。

メディアで見せる柔らかい口調は、ここでは出さない。

長期の講師ならば、相談のしやすさを含めて柔らかい態度を見せるのも悪くない。

しかし短期講師かつ近距離戦闘講義では、それをする利点が少ないというのがヒマリの考えだ。


「第一回は、対魔物戦に置ける徒手格闘の役割と基本、というテーマになる」


 繋いだ端末から、背後の大型液晶に画面を転送する。

資料の表示を確認し、ヒマリは受講生に向け口を開いた。


「さて、いきなりだが……。

 基本的に徒手格闘は、メインウェポンとして使うには向いていない。

 間合いが狭すぎるうえに、重さがなく、また攻撃時の反動が大きいからだ」


 基本的に、魔物は物理的な構造として人間より強力な場合が多い。

人間より体重で劣る小型の魔物であっても、彼らの爪や牙は、素手の人間に比べ殺傷能力で優れている事が殆どだ。

より強力な武器を持つ小柄な相手に対し優位に振舞うためには、原則としては相手の間合いの外からの攻撃ということになる。


 また、大型の魔物相手であれば、今度は武器の重量が欲しくなる。

相手の重量が大きければ大きいほど、肉が多ければ多いほど、重い物で無ければ傷つけるのが難しい。

重要な血管や臓器を狙うなどの方法で回避可能だが、魔物の形状によってはそれらが難しい場合もある。


 そして、基本的に武器より徒手の方が、自身の肉体で受けねばならない攻撃の反動が大きい。

グローブや手甲による保護がある程度衝撃を和らげるが、それでも武器を使ったほうが体の消耗が少ない。

短期的には長時間戦闘に耐えられ、長期的には冒険者としての活動時間の長さに影響する。


「それでもなお徒手格闘の講義が存在する理由は、大きく分けて二つ。

 いわゆるサブウェポンとしての需要が非常に大きい事。

 一定レベルまでの学習コストが低い事だ」


 サブウェポンとしての利用については、武器紛失時や、大型の武器の間合いの内側に踏み込まれた時、またはメインウェポンを持ち込めない場所での利用を見込んでいる。

よく使われるサブウェポンは短刀や短杖だが、これらも武器紛失のリスクはあるし、ドレスコードによっては装備不可となる場所も存在する。

また、対人の要素も混じってしまうが、出くわした犯罪者を過剰防衛とならないよう抑えるには格闘の心得がやりやすい。

そういった意味では、器物生成系の固有持ちでも取得する意味はある。


 取得コストの低さというのは、徒手の特徴というより、各格闘術の流派の特徴と言った方が良いか。

多くの武術は、ある程度武器格闘と徒手格闘の動きを共通化させている。

いわゆる正拳突きも、武器を腰から打ち出す動きを基本とし、それを素手で行うか武器で行うかでアレンジした結果できた動きが元になる。

つまり、武器術を学んだものであれば、徒手武術を学ぶ学習コストは比較的低い。


「この講義の講習条件に、武器術の経験があったのはそのためだ。

 つまり、ある程度の武器術を出来る事が前提の講義になる、ということだな」


 言いつつ、ヒマリは視線を逸らしたり気まずそうにした講習生の顔を覚えておく。

武器術の経験について、該当授業の単位を取得でも可としていたが、単位ギリギリで合格した者達は毎年何人か居るそうだ。

内心の溜息をおくびにも出さず、気を取り直しヒマリは資料を次のページへと切り替えた。


「さて、今回練習するのは、徒手での刃の受け流しだ。

 魔物の鋭い牙や爪を受けながすための基本だな。

 まずは机上座学、それを追って実技で体験してもらう流れだ。

 では……」




*




「以上で、本日の講義を終える。

 次回は一週間後、今回の復習もするので、きちんと練習しておくこと。

 では解散」


 ありがとうございました、と挨拶が返ってくるのを背に、ヒマリは運動場から更衣室へと進む。

講義中あまりやる気のなかった連中だろうか、背後の声は一部、力ないものだった。

内心溜息をつきつつ、ヒマリは更衣室で汗を拭い軽く埃を落とすと、そのままロビーへ。

移動する前に、と自販機でスポーツ飲料を買った所に、声がかかる。


「こんにちは、先輩。講習を終えた所ですか?」

「うん。3人とも、訓練かな?」

「はい、最近仕事漬けで基礎がちょっとなぁ~って感じだったので」


 朗らかに言う後輩に、ヒマリは口元を緩めた。

ヒマリの一つ下の銀級冒険者、ハルカとその仲間、カズミとフミである。

昨年から請け負ったヒマリの初回講習受講者であり、冒険者学校での後輩でもある。

3人とも朗らかで前向きな気持ちの良い後輩だったが、見れば明らかにフミが沈み込んだ顔をしており、カズミはそれを心配そうにチラチラと見つめている。

数秒思案、スケジュールに余裕があることを確認し、ヒマリは口を開いた。


「少し時間はある? 久しぶりになるし、最近の3人の話も聞きたいな。お茶でもしない?」


 ギルド併設のカフェは避け、近場の喫茶店。

木を多用した店内、広い席に柔らかい音楽、紅茶の爽やかで柑橘の混じった香り。

少し曇った大きなガラスが、昼時の光を柔らかに採光し、店内を照らしている。

ヒマリがユキオを連れている時に見つけた、お気に入りの店。

そこの4人席に腰かけ、暖かい紅茶を口に、ヒマリは後輩たちの様子を聞いていた。


 "自由の剣"事件。

そう呼ばれるようになった長谷部ナギによるテロ行為は、その爪痕を深く残した。

直接の死者は150万人近くという、人魔大戦以降最悪の死者数。

表向きは"自由の剣"の残党によるものであり、有志の協力冒険者による解決とされている。

しかしマスコミは映像を流した少女たった一人が犯人であり、かつ四死天級の実力者であることを報道していた。

そしてそれを打破したのが、勇者の息子であることも。


「その、弟さんには、本当に感謝しています。

 あの日私たちは政庁の避難誘導に協力していて、最悪斬首結界がこちらに向かえば、そのまま殺されてしまう可能性があって……。

 つまり、命の恩人なので」

「……公式な発表がない以上、私から言えるのは、なぜかその感謝は伝わる、ってぐらいだけど」

「ありがとうございます」


 隣に座ったハルカが、頭を下げる。

率直な感謝は心地よく感じるし、その対象が愛する弟だというのは、尚更に良い。

ヒマリは目を細めると、リハビリ中の弟に意識を割く。


 覚醒と言うべき位階の上昇を見せたユキオの力は、一度位階70程度で止まった。

しかし決着後意識を取り戻したユキオの力は、術式の出力がやや不安定になっていた。

これは、高位の冒険者から大量の輸血をした人間にはたまにある症例なのだという。

症例が少なく詳細は不明だが、基本的には暫く術式を行使していれば、安定してゆくものなのだとか。

よって暫くは出力が安定するまで安全な範囲で術式を訓練し、安定後に冒険者として復帰する形となるだろう。


 頭を切り替え、溜息。

宙に視線を泳がせながら、つぶやく。


「流石に、この死者数は……ちょっと、初めてだからね」

「えぇ。冒険者になって、知り合いが死ぬのには慣れてきましたが……。今回ばかりは、スケールが違いすぎました」


 ヒマリの同期で同じく2年以上冒険者を続けているのは、5割。

怪我を含めた引退が4割、死者が1割程度。

それがこの事件が起きるまでの割合で、それなりに知り合いが死ぬことには慣れ始めていた。

この事件で、ヒマリの同期は2割が死んだ。

つまるところ、生存冒険者4割、引退3割、死者3割になったという事。

それは人の死に慣れ始めていたヒマリをして、衝撃を受けるほどの死者数であった。


「フミちゃんの、その、お父さんも……」

「幸いと言って良いか、私たちの家族は他に亡くなった人は居ませんでしたが……」


 俯くフミに、残る三人の視線が集まる。


「お父さんは、引退冒険者なんですけど……。

 当日、昔馴染みからって事で護衛の依頼を受けていて。

 それで皇都の菊花に居て、それで……」

「……そっか。それは、辛かったね」


 現役冒険者であれば死の覚悟ぐらいはできていただろうが、引退者となるとそうは行かないだろう。

だから、と慮ることはできるが、父を亡くした感情を、ヒマリはそれ以上想像できない。

ヒマリにとって、父親は冷たい関係で結ばれた相手に過ぎない。

だから父親を亡くして沈み込む後輩に、親身になって寄り添う事はできない。


 こんな時ヒマリが考えるのは、弟ならどうしていただろうか、という事だ。

大切な相手が悲しんでいて、自分はその悲しみを分かち合う事ができなくて、それでも何かしたくて。

そんな時弟なら、ユキオなら、あの人ならば何をするか。

自分よりも小さな、けれど絶対に折れないであろうその背中は。


 ヒマリは、一口紅茶を嚥下した。

カップを置き、組んだ指を膝の上に置く。

背筋を伸ばし、小さく呼吸した。


「頑張ったね、フミちゃん」

「……え?」


 フミが、視線を上げた。

沈んだブラウンの瞳が、ヒマリの目と合う。


「とても辛い事があって……、それでも今、フミちゃんは立ち上がって歩こうとしている。

 仲間と共に歩むため、必死で歯を食いしばって、足を動かしている。

 だから、偉い。

 とっても、偉い」

「……それ、は。でも、だって」


 フミの瞳が、潤み始める。

ヒマリは、視線を揺らがせず、真っ直ぐにフミを見つめたままにする。


「私は……同じような事があって、同じように立ち上がれるか、自分でも分からない。

 私にできるかどうか分からないような事を、実践できているフミちゃんの事……尊敬するよ」

「ちが、でも、私……」

「もちろん……少しは、無理をしているんだと思う。

 でも、それ込みで、私はフミちゃんのことを尊敬しているよ。

 自分だけのためじゃあない。

 仲間のために、傷を負っても無理をできることを」

「あ……」


 ポロリと、フミの目尻から涙がこぼれた。

隣に座るカズミが、そっとハンカチを差し出す。


「そして……もし無理が限界に近付いたら、必ず誰かに相談して。

 ハルカもカズミも、そしてもちろん私も、フミちゃんを支える事を苦になんて思わない。

 立派な尊敬できる後輩を、少しでも支えられるなら……それは、とても嬉しい事なんだ」

「は、い……」


 カズミが、そっとフミの事を抱きしめた。

それに呼応するように、フミが静かに嗚咽を漏らし始める。

隣に視線をやると、涙ぐみながらそれを見ていたハルカが、す、と頭を下げた。

微笑んでそれを受け取りつつ、少しばかりの照れくささを、紅茶で流し込む。

昼下がりの陽光が、静かにヒマリの体を照らす。

暖かに降り注ぐそれが、自分の行いを肯定してくれるもののように思え、ヒマリは少し安堵した。




*




 深く、息を吐く。

ヒマリは震えながら、開いた掌を、ユキオの掌に、重ねた。

そっと、彼の指と指の間に、指を置く。

ゆっくりと、その隙間を味わうような速度で、指を折り畳んだ。

ユキオの手の、指と指との付け根に、ヒマリの指が擦りつけられる。


「う……」


 背を、甘い痺れが走る。

息が詰まり、吐き出す空気が妙に熱く感じる。

以前ナギがしたと言っていた、恋人繋ぎ。

名称故に、姉として弟とする事はないのだと思っていたそれは、想像を超えた体験だった。


「……姉さん?」


 ユキオが、少し見上げる形でヒマリの顔を覗き込む。

視線が合う。

ユキオの顔は少し赤味を帯びており、恥ずかし気に、そしてそれをひた隠しにしながらヒマリを気遣っていた。

思わず、その蠱惑そのものの表情に、見惚れてしまう。

数秒、肩で息をしながら見つめていたヒマリだが、どうにか我に返り口を開いた。


「あ、う、い、行こうユキちゃん。

 久しぶりにで、デート、だから……」


 言ってから、ヒマリは自分で言った言葉に心臓が張り裂けそうになった。

以前はもっと何のこともなく、デートという単語を言えていた。

休暇で出掛ける際、ユキオが共にいれば、仮にミドリを含めた三人であってもその単語を使っていた。

なのに今日、どうしてかこんなにも、胸が高鳴る。


「そうだね、姉さん。のんびりしようか」


 喋るユキオの、その唇の蠢きを、ヒマリは視線で追ってしまっていた。

あの事件から、もともとある方だったユキオの色気が、更に増したように思える。

何処か仄暗い影があるそれを抱きしめ、癒したい、そして自分に夢中にさせたいと、強烈に吸引してくる何かがある。


(どうしよう、私の弟がえっちすぎる)


 そんな言葉を浮かべながら、ヒマリは手をつなぐ力を、少し強くする。

緊張で掻いた汗が、ユキオの汗と混じり、掌同士の中で一つになる。

二人の液体が、閉じ合う掌の中で、静かな水音を立てながら蠢き合い、開く掌の間で薄く糸を引いた。


(ユキちゃんがドスケベすぎる……)


 口に出したら、ミドリよろしくチョップを食らいそうな台詞。

それと共にユキオの体温を味わっているうちに、生返事ばかりのまま、ヒマリは電車に乗り、繁華街に辿り着いていた。

人通りの多い交差点を超え、目的の保存食ショップへ辿り着こうとする所で、ユキオが未知の脇に逸れてから足を止める。

ヒマリも釣られて足を止め、火照った顔をユキオに見せた。


「姉さん、本当に大丈夫? さっきからずっと生返事ばかりだけど……」

「だ、大丈夫だよ? お姉ちゃんだもん、負けないよ?」


 何にと言われれば、ユキちゃんのえっちさに、と答える所だろうか。

視線を揺らしながら言うヒマリに、眉を顰め、ユキオが空いた手を伸ばす。

そっと、ヒマリの額にユキオの手が置かれた。

あ、う、と、意味を持たない言葉がヒマリの口から洩れる。


「ん……熱はないか。もしかして寝不足だったりする?

 必須の保存食の買い出しと装備点検は僕が行くとして、姉さんは一端帰って休む?」

「や、休まない! い、一緒!」

「うん、分かった。今の姉さんを一人で帰すのは、ちょっと不安だしね。でも無理せず、眠かったり疲れたら言ってよ?」


 そう言って微笑むユキオに、今日何度目か、ヒマリは見惚れた。

心配そうに、しかしヒマリの事を確かな愛情をもって見つめる、その表情を見て……。


 ――なんで、ナギちゃんはユキちゃんを捨てたんだろう。


 不意に、そんな考えがヒマリの頭をもたげた。

ユキオは、明らかにナギを求めていた。

あのままナギが龍門の保護を受け入れれば、ユキオと正式に恋人になることも、その先も展望として十分にあり得ただろう。

無論ヒマリとしては死ぬ気で抵抗しただろうが、あの日喫茶店で見たユキオとナギの関係は、その抵抗の成功見込みが薄いとさえ思えるほどだ。

つまるところ、ナギはユキオとテロの二択で後者を取ってユキオを捨て、更にユキオが対峙するならその手で殺そうとすらしてみせたのだ。


 理解できない、というのがヒマリの率直な感想だった。

正直、ヒマリはユキオとそれ以外の二択を求められた場合、ほとんどの場合はユキオを取るだろう。

ミドリだけは選択肢に上がった際に苦しむことになり、ギリギリまで両取りできる方策を探すだろうが、それでも最後にはユキオを取ってしまう予感がある。

それほどの価値のある男性を取らず、ナギがテロを取る意味が、分からない。

コトコの水鏡越しにナギの主張は聞いたが、理解はできなかった。

その深い絶望と怒り、悲しみは伝わってきたが、全体的にむき出しの感情そのもので、理屈ではない何かだったから。


 そして尚理解ができないのは、そのナギにユキオが、どこか共感を見せた事。

未だにユキオが、どこかナギを求める影がある事だった。


 二人で居る時、ユキオは常にヒマリの事を見てくれる。

それがミドリが入って三人でも、ミーシャが入って四人でも、その場に居る人の事を蔑ろにするような事はしない。

けれど時々、話の途切れた隙間、遠くを見てとても切なくなる表情をしている時がある。

ヒマリにとって理解のできないナギに共感し、求める表情を。


「私にも、理解、できるかな」

「……姉さん?」


 ヒマリは、それの理解できない部分を、ユキオに分かち合ってほしかった。

自分に明かし、その秘密をさらけ出し、ヒマリに触れさせてほしかった。

それがユキオの心の柔らかい部分に触れてしまう事柄なのだと、分かっていた。

しかしそれが許されると、ヒマリはどこかで確信すらしていた。


 ヒマリは、不意に空いた手で、ユキオの頬を掴んだ。

訝し気にするユキオの、その唇が、ヒマリの視線をくぎ付けにする。


(ナギちゃんとは、キス、したのかな?)


 額や頬へのキスは、もしかしたらしたかもしれない。

けれど唇同士のキスは、そしてその先はどうだろうか。

ヒマリは、ユキオと唇を重ねる自分を想像した。

想像の美しさ、羨ましさ、そして今そうなっていないことに、憤りが湧いてくる。

その怒りが理不尽なものだと理解できていながらも、それでもその後押しを避ける気にはなれない。


 ヒマリは未だ、自らがユキオに向ける感情がどういった物なのか、理解しきれていない。

ただの姉が弟に向ける感情を逸脱していることは分かってきたが、しかし具体的にどういったものなのだと聞かれると判断に悩む。

それが男女が異性に向ける物なのかもしれないし、それ以外の何かなのかもしれない。

ヒマリはユキオに口付ける自分を想像はできたが、それより先に進む自分は、今一想像の範疇外にあった。


(「貴方のユキオに対する言葉が、子供が父親や母親に向けるようなものに、少し似ていた」)


 いつかのナギの言葉が反響する。

仮にヒマリが、目の前のユキオを、年下の弟を、父親のように思っているのだとすれば。


(これってパパ活なのかな? 年下の、弟に対する)


 ご飯はヒマリが奢るので、買っているのはどちらかというとヒマリ側になるが。

そんな風に思いながら、ヒマリがその唇の距離を縮めようとした、その瞬間である。


「先輩、大丈夫ですか!?」

「ふにゃあっ!?」


 後輩の大声に、思わずヒマリは飛び上がった。

慌ててユキオの背に回り、ユキオを盾にする。

ユキオは困り果てながら前後に視線を行き来させ、それから溜息、ハルカに向かい合った。


「あの、姉さんの後輩か何かで?」

「え? ……あ、あぁ。貴方は……ヒマリ先輩の、弟さん? その、匂宮ハルカと申します」

「だって。姉さんの後輩、でいいんだよね?」


 言葉も出せずに頷く仕草を、ユキオの背に顔を擦りつけながら行う。

ユキオの方が背が低いので、中腰になりながらの姿勢で、客観的に見てものすごく格好悪い。

それでも後輩に今の顔を見せたくなくて、全力でヒマリはその姿勢を維持して見せる。


「合ってるそうなので、確認は取れました。

 その、なんでか、今は顔を合わせられないみたいですけど……」

「そうか……。

 その、後ろ姿から先輩かなと思う相手が前を歩いていたのだが、なんだか少し足取りが危なっかしくて。

 で、その先輩と手をつないだ男性が、脇道に逸れて、先輩とその……何かしようとしているように見えて。

 申し訳ない、貴方が先輩に、何か不埒な事をしようとしているのではないかと、見えてしまったんだ」

「あぁ……なるほど。であれば、そう見えてしまっても仕方ないね、謝罪は受け取るよ」


 見られていた。

それも、道を曲がる少し前から。

多分、恋人繋ぎをしながら弟にピッタリ肩を合わせている所を!

というか、不埒な事をしようとしたのはヒマリ自身である。

羞恥に、ヒマリはそのまま縮こまって消えてなくなりたくなった。

顔が深紅に染まり切っているのが、鏡なしで一瞬で分かる。

そんなヒマリを背に、ユキオはハルカへと口を開く。


「実際の所、姉さんの体調が悪そうだったんだ。

 一人で返すには心配だし、必須の買い出しの用事もあるし、どうしようか迷っていたんだけど……。

 どうだろう、時間があれば、少しの間姉さんを見てもらう事はできるかな?

 その間にザッと買い出しだけ済ませちゃって……」

「ダメっ!」


 叫び、ヒマリは両手でユキオの腹部を抱きしめた。

そのまま首だけ、ちょこんとユキオの肩あたりから出す。


「ユキちゃんは、今日一日私とデートなの!

 離れちゃだめ、ずっと一緒に居て!」


 叫び終えて、ヒマリは肩で息をした。

それからハルカに視線を向け、その瞬いている目と目が合う。


「……ユキちゃん? デート? ずっと一緒?」

「う、ううう……。わ、私のクールで格好いいお姉ちゃん像が……」


 呟きながら、ヒマリは再びユキオの背に隠れた。

苦笑しながらユキオは、自らの腹部を抱きしめる、ヒマリの手にポンと触れる。


「分かったよ、それじゃあ行こうか。

 ハルカさんはどうする? 僕らはまず保存食の買い出しからする予定なんだけど」

「……え、あ、はい。同じく保存食の買い出しをしようとしていたので、ご一緒させて貰えると」

「ううう……立ち直るからちょっと待って……」


 困惑するハルカに、懇願しながらヒマリはどうにか、顔の火照りを覚まそうとする。

そんな二人を、苦笑しながらユキオが見守り待っているのであった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る