ナイトメア非英雄譚

アルパカ度数38%

1章-残酷

01-暖中の凍み


 プゥーゥン、と臭う。

鉄。酸。鼻孔と喉を刺す、無数の針のような。腐り粘ついた脂。

そんな形容が似合う、死臭に満ちた場だった。

岩と石まみれで土色は足元の半分以下となっており、垣間見える緑はひざ下程度の背の低い植物がチラホラと。

ところどころに背の高い岩があり、更にうっすらと霧がかかっていて視界は狭い。

風はなく、酷い臭いとぬめりすら感じる湿度が、ただただあたりを漂っている。


「噂より酷いなぁ。臭いとれるかな、二式装備でも良かったかも?」

「竜種相手に二式装備は、姉さんでもキツイでしょ……。あー、早く終わらないかなぁ」

「小型動物の気配も減ってきた。目標も近いし、あと少しだから我慢しよう、ね?」


 左右の疲れ果てた声に、僕は"糸"の索敵への集中を切らさないままに答えた。

実際、姉の二式装備は環境適応系の祝福をいくらかオミットしている。

死の沼などとも呼ばれるこの衾沼は、常に薄い毒気が充満している。

マスク系の装備でも無効化できる程度だが、前衛の視界や肺活量を考えると、対毒祝福系の装備を持ちだすのが望ましい。

少なくとも、純前衛である姉と、前~中衛である僕はそうだろう。


 ちらりと、左右に視線をやる。


 僕の一つ上の姉、ヒマリ。

ピンクブロンドのロングヘアに、祝福を織り込んだ布製の白を基調としたドレスと、同じく布製のロンググローブ。

長身で豊満な肉体は、幼さを残す顔立ちや表情とアンバランスで、どこか童話のお姫様を思い出させる出で立ちだ。

到底、戦場に向かう姿とは思えない。


 僕の一つ年下の妹、ミドリ。

ショートヘアのピンクブロンド、特殊繊維のビッグサイズのブルゾン。

小柄なその背に長大なアナトミカ製の長銃杖を背負っており、こちらは辛うじて血と鉄の臭いを感じさせるが、問題はブルゾンから直接生足が出ているように見える格好だ。

実際はホットパンツを中に履いているらしいが、やはり街中のほうが似合いそうな見目である。


 二人とももう少し動きやすく肌の露出が少ない恰好にしてほしいのだが、固有術式でそれを助長してる僕には何とも言えない。

 内心のため息を抑えつつ、二人の表情を見やる。

 瞳は疲れを見せず前を見ており、言葉と裏腹に体力が残っているのを確認。

 最後に監督者のいる背後に意識をやり、彼の無事を確認した、その瞬間だった。


「っ、来る! 前方右30度、距離50!」


 取り決め通り散会するのに一瞬遅れ、僕らの居た場所がはじけ飛んだ。

 "竜の鼻息"。

 竜族が用いる、汎用の空気砲である。


「GURYUUUUUU!」


 待ち伏せからの奇襲に失敗したことを悟った竜は、咆哮とともに姿を現した。

 灰色の鱗に緑色の瞳を爛々と光らせたソレは、体長10メートルはあろうかという巨大な爬虫類だった。

 家屋が丸ごと動いているかのようなサイズ感に、思わず顔を引きつらせる。


「三つ角でこの体長……五百歳級の"黒岩竜"か! "竜の吐息"は酸系と推定、ブレスの防御は僕が担う!」

「オッケー、ミドリがオフェンス、私は前で引き付けるよ!」


 叫ぶと、ヒマリ姉は髪をなびかせながら、突進する。

 姉は女性としては背の高い方だが、それでもどう見ても重量として100キロ未満なのは見れとれる。

 対する竜は、100トン近い威容。

 千倍近い重量差に立ち向かうそれは、画としてはどうみても無謀そのものなのだろう。

 あざ笑うように眺めだす竜に、しかし姉は一切躊躇せずに腰だめに拳を構えた。

 光が、その拳に集う。


「お姉ちゃんパァーンチッ!」


 "よろずの殴打"。ヒマリ姉の持つ固有術式が、竜の巨体を揺るがす。

 無防備に殴打を受けた竜の右前足が、へし折れるどころか破裂し、赤血と白い骨片とがはじけ飛ぶ。

 悲鳴とともに竜の尾が動くも、すでにその場には僕の"糸"が張り巡らされていた。

 そこら中の岩を滑車として張っていた糸が、だ。

 故に竜の尾は初速のうちに予想外の重さにひっかかり、姉を排除するどころか、体のバランスを崩してしまう。

 右肩から地面に伏した竜は、同時に正面遠距離に集まる紋章光に気づいたようだった。


「シュート、行く!」


 ミドリの腰だめに構えた長銃杖の先から、高熱の光線が放たれる。

"陽光の湖"の持ち主であるミドリは、複数の上位属性の適正者で、光と熱は得意そのものだ。

咄嗟にだろう、竜の瞳が輝き空間の歪曲を生み出すが、あまりにも小規模。

辛うじて頭蓋は被害を免れるも、左前足から後ろの腿あたりを熱線が焼き切る。

竜の絶叫。

遅れて、血と脂肪が焼ける臭いが、あたりの悪臭と入り混じる。

四肢のうち三つの自由を失った竜はすぐさま怒りとともに口腔に息を吸い込み始めた。

緑色の光が竜の口先に紋章光を作り、魔の圧力を辺りに響かせる。

"竜の吐息"の前動作。


「下がって!」


 叫ぶが早いか、前に出る僕と姉とで位置関係が逆転する。

次の瞬間、竜の口腔から恐るべき量の緑色の液体が吐き出された。

それは、数十トンはあろうかという恐るべき量の竜酸だった。

竜酸は硫酸の数万倍以上の強さを持ち、飛沫だけで人間など消しゴムで消しこむように溶かせるほどとされる。

こちらの絶命を確信したのだろう、口を開けたまま目だけで笑って見せる竜に、しかし僕は動じない。


 両手を繰る。

"運命の糸"。

概念上の存在であり、物理的な現象の多くに影響を受けないそれは、すでに"竜の吐息"を囲むように巨大な布を編み込んでいた。

青白い輝きとともに、生まれた布が、大量の竜酸を防ぎきる。

数十トンという質量と、それを吹き出す恐るべき風量に耐えきって見せる。


「ここで……もっかいパァーンチッ!」


 続き、ヒマリ姉が叫びつつ虚空を殴打。

汎用術式の紋章光、遅れて凄まじい衝撃波が広がり、糸布へとたたきつけられる。

ヒマリ姉の力は"よろずの殴打"。

汎用術式の衝撃波越しに、竜酸だけを選択して殴打さえ可能な、万能の固有なのだ。

結果、一度運動エネルギーを殺されたすべての竜酸が反転し、竜自身へと激突。

ジュッ、という短い音。

遅れて、断続的なシュワシュワと泡がはじける音が残る。


「ミドリ」

「ん」


 後ろ手にハンドサイン、糸布の結界を解除すると同時、ミドリの生成した大量の中和水がまき散らされた。

濁流のように流れる水が引いたころには、そこにはもはや、先ほどの岩場は残っていなかった。

それは、漆黒の沼だった。

竜酸に含まれる竜の元素と呼ばれる未知の元素は、恐るべき強酸性を示すものの、中和することで安定化し、黒い金属系元素となる。

そこに大量の水を叩きこまれたため、地盤の土と黒い金属が混ざり、黒い長大な沼となって僕らの前に現れたのだ。

その中心あたり、浅瀬となる部分にわずかに赤黒いものが残っている。

成人男性の一抱えほどもあり、血と鉄の臭いをまき散らすそれの、その中心あたりには、ギョロギョロと動く緑色の瞳があった。


「バックアップする」

「じゃお姉ちゃんは待機かな」

「……分かった」


 一瞬、ミドリとの役割の交換を思うも、歯を食いしばってそれを止めた。

安全性はミドリの遠距離攻撃でのトドメが上だが、素材をより多く残すという観点では、僕がトドメを刺す方が有利と言える。

とはいえ、微差といえば微差。

そのうえで譲られるのは、どうしても手柄を譲るために思えてしまうが、口にしたところで仕方がない。

僕は、この中で最弱なのだから。


 右手を突き出す。

その先、青白く光る"運命の糸"が現れ、編み込まれてゆく。

編み込まれ現れたのは、全長1メートル程度の、青白く光る糸剣であった。

続け左手を差し出し、糸剣の柄を延長、完成した長大な柄を両手で握る形に。

次いで糸剣を構えると、切っ先が延長、拡大。

刀身だけで約2メートルに到達する、長大な糸槍が完成する。


「Gu、Ru……」


 もはやどこに声帯が残っているかも分からない、赤黒い肉塊に向き合った。

瞼を無くし閉じることすらできなくなった瞳と、目が合う。

同時、瞳の位置から脳の位置を推定。

慎重に近づき、体重をかけて糸槍を差し込んだ。

進み、脳と思わしき感触を得て、万力とともに糸槍を捩じる。

ドッ、と傷跡から血が勢い無く零れだし、肉塊が痙攣、緑の瞳が2,3回動き回ったのち、動きを止めた。

糸槍を抜いて数歩下がり、数秒。

完全に竜が命を落とした事を確認し、糸槍を解除した。

遺志を無くした瞳だけが、じっと僕を見つめている。

そこに、パチパチと拍手の音。


「流石ですね。全員十代の少人数で、英雄級パーティーというだけはあります」

「福重さん……」


 近づいてきたのは、オールバックのスーツ姿の大柄な男。

僕らの監督者として同行していた、福重さんだった。


「成竜相手に接敵から撃破まで5分とかからず、さらに素材の貴重性が低い"黒岩竜"と確認するや否や、ブレスを撃たせて竜の元素を回収する方針を選択、実行。

 傷らしい傷も受けていませんし、流石としか言いようがありませんね」

「汚れ一つない福重さんには見劣りしますよ……」

「忍者ってヤバイねー。靴にも汚れすらついてないじゃん……」

「うわ怖……ホラーを感じる……」


 総ツッコミを食らって苦笑いする彼もまた、英雄級と呼ばれる冒険者の一人。

位階は姉や妹より低いはずだが、それを感じさせない底知れない実力の持ち主だ。

忍者を他称されるほどの神出鬼没さと戦闘能力で、多くの冒険者に畏怖と尊敬を抱かれている。

かく言う僕は畏怖の方を感じることが多く、正直に言って少し苦手な相手だ。

そんな彼は咳払いを一つすると、す、と僕にまっすぐに視線をやる。


「試験監督者、福重国久。試験対象者二階堂ユキオ。

 竜銀級への昇格試験を終了します。

 結果は事務局へ帰還後、追っての通達となります。

 帰り道も怪我無きよう、ご安全に」







 古いカーペットは、その奥底まで埃が詰まっている。

靴裏で叩かれると無限とも思えるほどに埃を出し続け、留まるところを知らない。

風にあたるとなんとなくかび臭く、空調の整備が行き届いていないのが分かった。

灰色の床、灰色の壁、灰色の貯度品。

気が滅入るような光景の、いつものギルドだ。

正式名称は、覚えていない。

確か国土安全保障庁の傘下だったような気がするが、ギルド以外の名で呼ぶものがいないので、正式な職員でも記憶しているものは少ないだろう。


「お疲れ様でした。では、正式に審査に入らせていただきます」


 銀縁眼鏡をクイッと上げ、課長が浅く頭を下げた。

会釈で返すと、キビキビとした動作でロビーから廊下へと去ってゆく。

付き添っていた福重さんは、苦笑らしきものを残し、課長の後に続いて行った。

年かさの試験官である彼が去ってゆくと、なんとなく空気が軽くなったような気がする。

その証拠を見せるように、ヒマリ姉はふわ、と小さくあくびを漏らして見せた。

半歩前に、僕とミドリを前に見渡すようにする。


「んー、どうする? 約1時間かぁ。カフェでも行く?」

「ここのカフェって、確か1階の? コーラが不味いカフェは初めて行ったけど、もう一回試してみるのかい?」

「芸術的だったね……食べ物に芸術性を求めない方がいいって、教えてくれるぐらいに」


 あー、と目をさまよわせるヒマリ姉に、皮肉とともに遠い目をするミドリ。

それに、と僕は一歩、二人から離れた。


「試験審査中は、一応質疑があれば答えねばならない。

 即応する必要まではないけど、施設から大きく離れるのは心象的にあまりよろしくないよ。

 ここのカフェは距離的には大丈夫だろうけどさ……」


 我ら冒険者の最上級である竜銀級への昇格試験は、滅多に行われることはない。

試験管には現役ないし元竜銀級がつくこともあり、試験1つですさまじいコストがかかる。

ここ皇都の中央ギルドでも、年に1~2回程度の開催なのだという。

よって昇格試験の合否は、幹部会議に挙げられるのが通例だ。

事前に根回しされ合否の方針と基準ぐらいは決まっているだろうが、それでも質疑に呼び出されたときに待たせて、彼らの機嫌を損ねるのも良くないだろう。

なんとなく機嫌悪そうにする二人に、笑みを作り、携帯端末を見せる。


「だからほら、ここ。この前見つけて、フルーツタルトが美味しそうだなぁ、って思ったカフェなんだ。

 二人で行ってきて、ここのタルトを食べてみたらどうかな?

 美味しかったら、ぜひ僕の分のお土産も買ってきてほしい」

「ほへ~、洋ナシのタルト……いや、ブルーベリーも良いかも……」


 早速メニューに悩み始めた姉の方は問題ないだろう。

難しい顔をしている妹に、へらっ、となるべく悩みのなさそうに見える――と僕は信じている――笑顔を見せた。

はぁ、と小さくため息。

桃色のショートヘアを揺らし、肩をすくめて見せる。

小柄でオーバーサイズのアウターを好むミドリがすると、どうにもミスマッチな仕草だった。


「しょうがないな、兄さんは。しかし独りで大丈夫?

 ここはかなり殺風景だけど、超絶美少女妹の私が近くに居なくても目の潤いは足りる?

 ミドリウム欠乏症になったりしない?」

「たった今、たっぷりもらったよ。

 湿度超過で、僕の目はもうグニョグニョだ。

 虐められて泣きださないように、暫く乾燥させてやってくれ」

「私の愛情込めた軽口に、なんてこった。

 謝罪と賠償を要求する。具体的に言うと、ハグ」


 と、そこでトン、と衝撃。

見ればヒマリ姉が、両手で僕とミドリとを抱きしめていた。

どうしたことかと二人で視線をやると、にへら、とゆるみ切った笑み。

先ほどの僕の作り笑顔とは、比べ物にないぐらい明るいもの。


「ハグったよ~。これが伝説のお姉ちゃんハグだ~」

「うおお、割り込み賠償に伝説が使われている。

 姉さん私の事好きすぎか?」

「当然大好きだよ? もちろんユキちゃんも!」


 えへへへへ、と弾むような声とともに、ギュ、とハグの力が強くなる。

ヒマリ姉は、僕よりも少し背が高い。170センチを少し超えたぐらいだっただろうか。

僕とミドリの二人など、簡単にその両手で抱きしめてしまえる。

フワフワとした桃色のロングヘアに、ひざ下のスカート、柔和な雰囲気と豊満な体を持った姉は、女性らしさというものをふんだんに詰め込んた塊のような人だ。

そんなフェミニンな姉に妹と二人抱きしめられていると、なんだか自分が幼くなったようで、肩の力が抜けるような安心と、暗闇でずっと体育座りをしているような不安とで、半々の気分だ。


 しばらく姉のしたいままにさせてやっていたが、ここはギルドの上階ロビーだ。

さして通行量は多くないが、3人で固まっているのはシンプルに邪魔だろう。

ポンポンと腕を叩いてやると、ヒマリ姉はじっと僕の眼を見つめてくる。

思わず息を止め、すぐにそれを悟られぬようゆっくりと吐き出す。


「やっぱり一緒に居ない? お姉ちゃんはちょっとぐらいイマイチな紅茶でも大丈夫だよ?」


 ふむ、とミドリと視線を交わす。

うなずき合い、視線を姉に戻す。


「塩辛くて鼻に刺激が来るようなコーラはちょっと……」

「泥水みたいでなんかジャリっとするコーヒーはちょっと……」

「うう、二人が仲の良さを見せつけてくる……。お姉ちゃん負けたよ……」


 がっくりと肩を落とす姉を、ミドリが手をつないで連れ出してゆく。

苦笑交じりにそれを見届けてから、さて、と僕もギルドの案内図の前に立つ。

複数の待合室はあるが、基本的にそれぞれの窓口に合ったものばかりだ。

結局行くことになるのか、と階段を降り、1階のカフェへと向かう。


 カフェと言っても、あくまで公共施設の併設である。

洒落たというより廃れた雰囲気で、心なしか電灯の明るさも控えめだ。

広く席数こそ多いが、調度品もリノリウム張りの床も、なんとなく黄ばんでいる。

昔ながらの食券機に現金を入れ、少し悩んで、ミルクを選択。

ボーっとしている店員に渡し、窓際の席を確保。

暫くして出てきたミルクに口をつける。


「……甘い……」


 思わず、目がうつろになる。

甘いというか、甘ったるい。

ハチミツや粘度の高いシロップを思わせるべた付いた甘さで、砂糖と人工甘味料の悪いところを合わせたような味だ。

分類としては加工乳となるのだろう。

牛乳自体の味はほとんどせず、なんとなく後味に生臭さが感じられるのが、辛うじて牛乳らしいところなのだろうか? 無論、悪いところということになるが。

これをミルクと呼ぶのは詐欺ではないかと、念のため用意しておいた水で口の中を洗い流す。

もはやインテリアと化したミルク入りグラスを、テーブルの邪魔にならない辺りに置いておく。

結露が天板を汚すが、さすがにそれを気にする気力はなくなっていた。


 溜息。

取り出した携帯端末でも弄りながら時間をつぶそうとして、ふと声が耳についた。


「~から、これで5年となります。社会を大きく変えた聖剣の勇者による協力について、改めて考えてみましょう」


 振り返って見れば、数か所に設置してあるテレビジョンから流れる特集番組の音声だ。

流れてくる音声を聞き流しながら、僕は5年前のことを思い出す。

聖剣の勇者による魔王打倒が成し遂げられたのが、20年前。

それから15年の後、政府による打診を受け、勇者は聖剣のレプリカ作成を快諾。

全国にあるギルドに聖剣のレプリカが設置される運びとなった。


 そも、聖剣の勇者とは何か。

"勇者の聖剣"と呼ばれる固有術式を後天的に得た存在であり、人類存続のための英雄である。

"勇者の聖剣"はいわゆる器物型の固有術式であり、僕の"運命の糸"がそうであるように、聖剣を生成し用いる事ができる異能だ。

聖剣は単純に武装として非常に強力であるであるが、その真価と呼べる聖剣の覚醒状態は、人類の存続を妨げる存在に対してのみ用いることができる。

千年以上前から人類の歴史にたびたび登場する聖剣は、今はここ皇国の勇者のもとにある。


「聖剣は、人類存続のためにその真価を発揮できます。では、一体どのように人類存続の妨げとなる相手を感知しているのでしょうか」

「それはいわゆる"運命"を見ているのだ、とされています。思想や能力ではなく、未来にどのような行いをしうるか、という"運命"を見ているのです」

「なるほど。それで聖剣のレプリカは、その拒絶度により人類存続の妨げとなる度合い、言い換えると人類存続の貢献度を測ることができる訳なんですね」


 勇者は聖剣をほぼ無数に作り出すことはできるが、その作られた聖剣は本来の担い手である勇者以外にマトモに振るうことはできない。

しかしその性質と言うべきものを利用することはでき、"貢献度"と呼ばれるものの測定が成されている。

聖剣のレプリカに勇者以外が触れると、光があふれる。

それは虹のスペクトルのような色で現れ、勇者が握れば薄っすら白く輝く光――測定した場合、紫外線に相当――が顕現。

より勇者に近い、人類存続への貢献度が高いものほど、短い波長の光が現れる。

つまり紫、紺、青、緑、黄、橙、赤、そして赤外線の混ざった黒い靄――単に赤外と称される――の順で人類への貢献度が落ちてゆく。

一般市民と呼ばれる人々は多くの場合黄であり、重罪を犯したものやその運命を持つとされる者が橙、重罪を複数犯すようなものに赤。

赤外はかつて処刑待ちの魔族が出した色で、人類にそれを所持するものは未だいないとされる。

聖剣が本領を発揮するのは、この赤外相手である。


 貢献度は、ギルドを通して政府が管理するものであり、一般企業や社会に向けて公開されるようなことは原則ない。

計測は12歳以上の国民全員に向けて行われ、5年間で全国民の貢献度計測は完了している。

一部の人間は毎年計測を行っており、現状最大で1段階の貢献度変貌が観測されているため、今後は定期計測を予定しているらしい。


「現状、"貢献度"をもとにした対応は何もされていない、というのが公式発表となっています」

「あくまで国の機関内のみでの情報となっており、一般の企業などには知らされていないということですね」

「はい。一部では差別の温床となる、などと言った反対意見も出ているようですが、現状ではあくまでリストアップまでとなります。

 国内の貢献度分布や、年齢、職業別の"貢献度"を調べるのが目的ということになっていますね」


 報道はこのように言っているが、しかし実際のところは、橙や赤の貢献度持ちには何らかの監視がついていると専らの噂だ。

また、いわゆる公務員となる際の合格基準にも影響しており、また冒険者の上位試験合否にも影響を与えていると聞く。


 あまり大っぴらに自分の色を開示するものではないので、自らの貢献度を明らかにする人は少ない。

僕の身近な人間で色を知る相手だと、ヒマリ姉とミドリは紫で、福重さんは紺。ミーシャは青だったか。

姉妹は世界でもトップクラスの英雄級冒険者で、福重さんは20年前に勇者とともに戦った古強者であり真正の英雄。

そして、僕は。


「あー疲れた……何飲む?」

「ここで紅茶以外飲むやつ居ないだろ……」


 人の声。

遅れて気づいた足音に、僕は椅子を反転。

窓の外を見つめ、新しく来た客に背を向ける。

恐らく、ここの職員。

3人連れで来た彼らが左側の席を取るのを見て、そっと左側の髪の毛を弄るふりで、手で顔を隠す。

何時からだろう、外に出て、見知らぬ誰かに顔を見られるのが、嫌になったのは。


 窓に反射する僕の顔は、何時もながら陰気なものだ。

灰色の髪を、眉から耳までのラインあたりまで伸ばしたマッシュヘア。

瞳は黒く、常に薄っすらと隈がある。

ヒマリ姉は中性的と、ミドリは素でゴス系と評するが、正直どちらも僕と意見が合わない。

中性的と評するには目の隈と濁った眼が合わず、ゴス系というには顔の作りが丸く幼すぎる。

ただただ陰気な顔という自己評価が、一番合っている気がする。


 陰気な自分の顔と睨めっこしながら、髪を弄るふりをし続ける事数分。

端末の通知。

気づけば1時間近く経っていたと気付く。

重い腰を上げ、ほとんど減っていないミルクと、反比例するように減った水を片付ける途中、小声を耳が拾った。


「あれ、確か"赤"の……」

「あぁ、そういや竜銀級の試験やってたんだっけ……」

「合格させていいの? 七光りじゃん……」

「シッ、聞こえたらどうするんだよ……」


 僕は聞こえないふりで、足早にその場を去る。

"赤"。

半ば犯罪者予備軍であるかのように呼ばれるその貢献度の色。

本来隠匿されるはずの僕のその色は、いくらかの事情で広く知られている。

気分が沈み込んでいくのを無視して、靴裏で床を蹴りつけるのに専念した。


 なるべく何も考えないように努めながら、階段を上って4階へ。

呼び出されたロビーで先の課長と合流し、応接間に入る。


「初めまして、二階堂さん。私、この度の試験の責任者でございまして……」

「こちらこそ初めまして。この度はお世話になっております」


 ニコニコと、乾いた笑顔の交換。

早速ですが、とスーツ姿の重役が、応接間のテーブルにある箱の、ふたを開ける。

青紫色のビロード張りのクッションに収められた、竜銀製のカードがきらめいた。


「二階堂さん、おめでとうございます。竜銀級の試験、合格となります」

「……ありがとうございます」


 頭を下げながら、そっと両手でカードを手に取る。

試験名にもなっている竜銀は、ちょうど僕らが回収してきた竜の元素を用いた、銀ベースの合金だ。

冒険者証の機能の一つとして、触れた僕に反応し、カードが書き換わり僕の情報が書き込まれてゆく。

名前に生年月日と性別といった基本情報について、冒険者の強さの目安と呼ばれる"位階"が刻み込まれた。

位階:52。

冒険者の最上級位階である竜銀級の目安は位階50以上とされ、そういった意味では不自然な数字ではない。

だが。


「いやぁ、今回素材について気を使っていただいたのが、特に素晴らしかったですよ。

 いわゆる竜の元素は、皇国内でもまだまだ不足していますからね。

 黒岩竜の生体素材も悪くはないんですが、竜の元素に比べるとさすがに見劣りしますからね。

 持ち帰っていただいたサンプルをもとに、回収隊を組んで……いやぁ、忙しくなりますなぁ」


 上機嫌な重役に、なんとか笑顔を作って応対する。

確かに竜の元素は国内でもかなり不足しており重要度の高い素材だが、同時に今回のように竜酸を中和して沼にした形だと、回収が難しい。

生体素材であれば単に移動用のバンに積めば問題ないが、数十トンはあろうかという液体を持ち帰るのは僕らでは不可能だ。

専門の回収チームと護衛が組まれることになり、雇用が大きく発生するが、収入になるまでに費用と時間がかかるのは間違いない。

純正に褒められているのか、無理に褒めているのか判断がつかず、曖昧な笑みを浮かべるほかなかった。


「それに黒岩竜の位階は想定55前後。

 同行した仲間が強力だったとはいえ、短時間で素材を確保しつつ処理できるとは。

 改めて優秀な方が新しい竜銀級と認められて、我々も心強く感じますよ」


 僕の位階52に対し、ヒマリ姉が77、ミドリが75。

竜のような大型魔物の討伐は原則5人組を想定し考えられているので、位階55x5人で討伐するのが望ましいとされる相手だ。

故に明らかに位階の低い僕は、客観的に見て足手まといで、下駄を履かせて合格したように見えるに違いない。

胸の奥の、柔らかい所を抉られたような心地を、内心でだけ歯噛みして抑える。

可能な限りの、満面の笑み。


「こちらこそ、やっと念願の竜銀級に到達できてとても嬉しいです。

 幼いころから目指し続けていた目標なので、達成感に溢れています」


 作り物の笑みのまま、そっと手のひらを胸に置く。

とにかくギルドの判断を立てるという意志は伝わったのか、ニコリ、と重役が微笑みうなずいて見せた。


「では、改めて……新たな英雄の門出に、祝福を」




*




「ただいま~」

「ただいま」

「ただま~」


 順に輪唱しつつ、靴を脱いで揃えていく。

溜息をつきながら、脱ぎ捨てられた姉妹の靴をそろえて自室に。

荷物を置いて軽く身支度を整えリビングに戻ると、ちょうどミーシャが煎餅を口にしていた。


「おひゃえりなしゃい、ユキしゃん」

「食べ終わってからでいいよ……」


 緑茶をすする姉貴分のメイドに軽く手を振り、自分でキッチンへ、少し悩んでオレンジジュースを選択。

氷たっぷりのジュースを手に、ソファに腰を下ろす。

カラカラと鳴る氷の音を聞きながら、結露し始めたグラスをサイドテーブルに置いた。

溜息とともに、ヘッドレストに首を置き、全身の体重をソファにゆだねた。


「……試験、どうでした?」

「合格。この通りね」


 ダイニングチェアから半身に振り替えるミーシャに、ポケットから取り出したケース入りの冒険者証をかざしてやる。

パチパチと始まる拍手に、預けていた体重を戻して前傾に。

ペコリと会釈して見せると、ニコリと微笑んでくれた。

ボブカットに揃えられた銀髪が、ふわりと揺れる。

細められた瞼の隙間から、赤く輝く瞳の光が漏れた。


 ミーシャは、僕が物心ついたころから家に住んでいる、僕の四つ年上の女性だ。

登記上は家族ではなく、父の事はおじさん呼びだ。

ここ4年ほどはメイド服に身を包み、二階堂家のメイドを自称し始めた。

恰好から入るタイプなのか、フレンチメイド服を好み、ニーハイソックスを常用している。

どう見ても家事に向いていない恰好なのだが、不思議と家事万能で、あっさりとこなしてしまうのだ。

元々父子家庭で家事まで手が回らず、家政婦を雇っていたが、このところは僕らは彼女の世話になっている。


「ユキさん、おめでとう。ついに目標の一つが叶いましたね!」

「ありがとう。少し、肩の荷が下りたよ」


 と、微笑みかけたつもりなのだが、む、とミーシャは顔をしかめて見せた。

立ち上がってこちらに来ると、目の前で膝立ちに。

両手を差し出し、ペタンと僕の両頬を挟んだ。


「ミーシャさん?」

「えい」


 そのまま両手で肉を中央に寄せられ、僕の唇が縦に開く。

タコの口みたいになったと言えば、分かりやすいか。

直前まで煎餅を食べていた手だからか、なんとなく唇の端のあたりにべた付いた醤油の味を感じた。

なんだこれ、と胡乱な目つきで見やると、ふふんと自慢げに微笑んでくる。


「ピヨピヨグチの刑です。お祝い事なのになんだか儚い顔をしているので、刑罰です、刑罰」

「しょれはむじゃんなけいばつじゃな……」

「何言っているか分かんないので無効でーす、抗議なし」


 非道な事を言いつつ、ぐにぐにと強弱をつけて僕の顔を弄ぶミーシャ。

暫くして飽きたのか、僕の顔を手放し立ち上がり、そして自らの両手の、その人差し指をペロリと舐めた。

僕の唇を直前まで抑えていた、その指をだ。

思わず息をのんでその桜色の口唇を、目で追ってしまう。

すると気づいたのか、今一度赤い舌がその唇を、ペロリと舐める。

気づけば彼女は、その赤い瞳でじっと僕を見つめていた。

距離は、近い。

手を伸ばせば届きそうな距離でソファから見上げる僕を、ミーシャは微笑みながら、じっと見つめている。


 ふと、鍵音。遅れて、玄関の開く音。


「父さんかな?」

「おや、ではキチンとしないと」


 とミーシャは振り返り、湯呑と煎餅をキッチンに片付けはじめた。

心臓が高鳴り、ついた溜息が妙に熱く感じる。

遅れて、澱のようにたまる重い何かを、腹の奥に感じた。

妙に体を起こすのが億劫だが、今一度のため息で、どうにか体の中の倦怠感を吐き出す。


「ただいま」

「……おかえりなさい」


 リビングに現れた父が短く告げた。

喪服のような黒いスーツと白いシャツ。

190cmほどある長身に、分厚い胸板の、戦車のような巨体。

顔立ちは掘り深く、髭が伸びるのが早い体質だからだろう、朝剃った筈の髭がすでにポツポツと伸びている。

黒髪は長く伸ばされ、低い位置で纏められている。


 二階堂龍門。

今代の聖剣の勇者。

僕を"赤"と判定した聖剣の、その担い手。

僕の、焦れた、父さん。

偉大なる英雄は、近づくと、じっと僕を見つめながら告げる。


「どう、だった?」


 何時からか、父さんが僕にかける言葉は、腫れ物に触れるようになった。

それは5年前、僕が"赤"の判定を受けた時よりも、前からだったような気はする。

曖昧な記憶を閉じ込めたまま、僕はそっと、ポケットから冒険者証を差し出す。


「合格、しました」

「おめでとう。……よく、頑張った」

「あ……」


 ぽん、と大きな掌が、僕の頭の上に置かれた。

遠慮がちにそっと動き、撫でられる。

自分でわかるぐらいに、頬が熱を帯びた。


 事あるごとに、父さんは僕を褒めてくれる。

明るく輝くような姉のヒマリとも、マイペースで何事も器用にこなすミドリとも、同じぐらいに。

一番弱くて、一番駄目な僕のことも、変わりなく。

貢献度"赤"、いつかこの英雄に殺されるかもしれないような輩なのに。

それが嬉しい反面、身もだえするほど恥ずかしく、苦しい。

せめて嬉し恥ずかし程度に見えるよう、視線を外したまま、噛みしめそうになる歯の力を緩める。

と、そこに大声。


「あー、父さんずるーい! ユキちゃんを撫でるのは私の役だよ!?」


 見れば風呂上りのヒマリ姉が、半袖スウェットにハーフパンツの部屋着姿で叫んでいた。

ズンズンと進んでくると、避けた父さんから僕の目前を奪取。

膝立ちに、両手を広げ、少ししっとりとした頭を差し出してきた。


「ん!」

「ん、って?」

「ん!」


 言語を忘れたらしい姉に、そっと手を差し出し、頭を撫でてやる。

乾かした後だろうが、それでもまだすこししっとりとした髪の毛を、乱さぬようになでつける。

ピンクブロンドのそれは、灯りを反射し見事に天使の輪を作っていた。


「僕を撫でるんじゃなかったっけ? なんか逆になってるけど」

「やっぱ辞めた! ユキちゃんにいっぱい褒めてもらうことにする!」


 言うが早いか、ヒマリ姉はそのまま前傾。

広げた手を僕の首に回し、体重をかけて僕の上にのしかかってくる。

思わずそのまま抱きしめ返してしまった僕の肩に、鼻を擦りつけてきた。

風呂上りも相まって、暖かく、しっとりとした肉が、僕に吸い付いてきた。

柔らかな頬が僕の頬とふれあい、豊満な胸が僕の胸板に挟まれ形を変える。

シャンプーの華やかな匂いと、ほんのりミルクのような匂いとが、僕の鼻をついた。

僅かな痛みに、眉を顰める。


「姉さん?」

「はやくお姉ちゃんを褒めるのだ~。なでなでしながら褒めて!」


 僕は助けを求めて視線をさまよわせるが、ミーシャは台所に引っ込んでおり、父さんは視線を逸らして携帯端末を弄り始めた。

仕方なしに、泳いでいた手を姉の後頭部辺りに着地させ、そっと撫で始める。


「今日は、朝早くから頑張って偉いよ。4時起きなんてどう考えても眠いだろうに、運転してくれてありがとう。それを見せずに元気一杯でいたのも凄い偉い。現地での戦いも、いつも勇敢に前に出てくれてありがとう。いつも姉さんには勇気をもらってるよ。それに……」

「ぐへへへへ……。ユキちゃんセラピーが効くぜぇ」


 女の子が出してはいけないような声を出し始める姉に、撫でる右手の反対、左手で背中をポンポンとゆっくり優しくたたき始める。

そうこうして数分、ゴールデンレトリバー感のある姉は、気づけば寝息を立てていた。

ソファに寝かせるかと一瞬思うが、今朝が早かったのも事実。

そっと姉の太ももの下に手を差し入れ、もう片手を姉の背に。

立ち上がる勢いと合わせて、いわゆるお姫様抱っこに移行する。


「父さん、姉さんを部屋に寝かしに行くから、ちょっと手伝……」

「おっと、少し片づけないといけない書類があったのを思い出したなぁー書斎に行かないと」

「ええ……」


 なぜか逃げ出す父に、思わず呆けた声が漏れてしまう。

僕は認識していないのだが、父さんが姉の自室に入ると怒られるとか、そういうのがあるのだろうか。

すると、見計らったかのようなタイミングで台所から戻ってきたミーシャと目が合う。


「おや、そっとしておいたほうが良さそうな……」

「コラコラ、馬鹿言ってないで姉さん寝かすの手伝ってよ」


 肩をすくめながら先導するミーシャがドアを開けてくれるのを追って、二階の姉の自室へ。

薄桃色を基調とした配色の私室の、ベッドに姉を寝かしつける。

僕の首に回された腕は離そうとすると少し力が入ったが、そっと頭をなでてやると、安心したのか外せた。

キチンと掛け布団をかけてやると、電灯を消してミーシャとともに一階に戻る。


「全く、ユキさんはスケベですね……」

「家庭内風評被害はやめてくれない? 割と紳士的言動だったと思うけど?」

「襟元と首の汗と鎖骨がダメです。えっち罪」

「そういう意味? もうちょっと言葉選んでね?」


 見れば姉に抱き着かれ続けた僕の襟元は乱れに乱れている。

家に帰ってなんとなく多めにボタンを開けていたせいか、胸板や鎖骨が見えていた。

姉に抱き着かれ続けていたからだろう、薄っすらと首元には汗が残っている。

まず汗を拭おうとポケットに手を伸ばすが、そういえばハンカチは先ほど、汚れを見て洗濯カゴに投入してしまった。

少し悩むうちに、再度リビングに到着。

ティッシュでも使うかとテーブルに近づいた時である。

ガチャリ、とドアの開く音。


「あ」

「あ?」


 風呂上りなのだろう、こちらも顔を赤らめたミドリがこちらを見ていた。

何時もながら、ビッグサイズのTシャツ1枚しか着ていないように見える恰好。

一応肌着の上にホットパンツは履いているらしいが、パッと見て下に何も履いていないかのような恰好は、心底目に毒だ。

変な声にどうしたのかと首をかしげていると、さらに顔の赤みを強くさせ、視線を足元に、口元を手で隠す。


「困った……兄さんがまさかリビングでティッシュを使用するようなことをしているとは……くんくん」

「コラコラ」


 近づいて軽い力でチョップ。

するとチョップしたその手を掴まれてしまい、そのまま両手で胸元のあたりまで下ろされてしまう。

プクリと頬を膨らませて見せるミドリ。


「ナニをしたとも決定的な邪推はしていないのに、暴力を振るうとは。

 謝罪と賠償を要求する」

「はいはいごめんね」

「はい、適当な謝罪~。罪を重ねる兄さんを許してあげる私、聖人では?

 ご褒美が必要なのでは?」


 言うが早いか、するりとぼくに抱き着いて見せたミドリ。

小柄なミドリは、中肉中背の僕が包み込んでしまえるぐらいの体躯だ。

小さくて、暖かくて、柔らかいものが、力強く僕に縋りつく。

ほんのりと、シャンプーの柑橘系の香りがする。

そのまま鼻を僕の首筋にすりつけ、む、と不満げにうめいた。


「これは姉さんの匂い。二番煎じは敗北ヒロインモードだからちょっとダメか……美学が足りない」

「よく、僕の体臭と混ざっていて分かるね……」

「愛のなせる業。じゃ、ご褒美はこっち」


 ん、ん、と呟きながら僕を押し出すミドリ。

体重移動で押しやられつつ、助けを求めてミーシャを探すが、とうに居ない。

台所から音が聞こえてくるので、夕飯の仕込み中なのだろう。

ついにはソファまで押しやられて、座らされる。

その僕の膝の上に、ゴロンとミドリが寝ころんだ。

一瞬、息が止まりそうになる。


「ん~、膝枕は良い。世界一カワイイ妹に膝枕することがご褒美になるなんて、素敵だと思わない?」

「……聖人サマに提供されるとは、僕の膝も出世したもんだ。昇進祝いは湿布薬とかにしとこうかな」

「ノー・シップ。天然ものをもうちょっと尊いで。兄さんの膝が臭くなったら私泣く、号泣する」


 苦笑とともに、ひざ上でグリグリと動くミドリの頭を撫でてやる。

髪の流れに逆らわず、ゆっくりと手櫛で整えながら撫ででやること数分。

寝息を立て始めた妹に、ほっと溜息をついた。

そばまで来たミーシャが、飽きれたような声で言う。


「女を寝かしつけるのが上手いですね」

「……なんか人聞き悪い事言うね」

「そうですか? さて、ユキさんはこのまま枕役をします?」

「僕も今日はさすがに眠いよ。夕食までに少し仮眠をとりたいな。

 ミドリも疲れているだろうし、ベッドに連れて行ってやりたいんだけど……」

「ふふふ、お手伝いしましょう。 メイド検定一級が火を噴きますよ」


 火を噴いていいものなのか? それは。

内心首をかしげるも、さておき、と少し屈んで、ミドリの耳に部屋で寝るよう声をかける。

唸り声のような返事だけ返ってきたが、たぶん大丈夫だろう。

そっと頭を抱えたまま膝をずらし、スキマにクッションを入れて手放す。

ソファから降りてしゃがみ、ミドリに背を向け、ちらりとミーシャに視線を。

ミーシャが声をかけると、眠そうに眼をこするミドリが上半身を起こし、そっと僕の背に抱き着いた。

そのままおんぶの形でミドリを背負って二階へ。

今度はミドリの私室に入り、ベッドに寝かしてやる。

ゲーム機にPC、コミック、フィギュアにボードゲーム。

部屋中にモノや色が溢れているのに、不思議なほど雑然とした感覚のない、器用なミドリらしい部屋だ。

額のあたりを撫でつつ、ムニャムニャと呟くミドリに掛け布団をかけてやると、部屋の電灯を消して出てゆく。


「では、私はお料理の仕込みがまだあるので」

「うん、いつもありがとう。悪いけど、僕もちょっとだけ仮眠させてもらうよ」

「じゃあ後でユキさんの寝顔身に行っちゃおうかしら?」

「勘弁してね……。鍵かけとくから」


 あららとぼやくミーシャを尻目に、身をひるがえし歩き出す。

自室に入って、後ろ手に施錠。

一歩、二歩、三歩。

そこで、限界だった。


「――嗚呼」


 深い、溜息。

そのまま倒れこむようにベッドにうつ伏せになる。

視界一面がシーツのまま数秒、ゴロンと転がって仰向けになり、大きく深呼吸。

張り詰めた糸が切れるように体が弛緩していって……、悲しくもないのに、涙が零れ落ちた。

最近、気が緩むとすぐにこうだ。

億劫さに溜息をつきながら、ティッシュを取って零れる涙を吸わせる。


 携帯端末でアラームをセット。

カーテンを閉めて、ベルトを外しズボンを脱ぐ。

ズボンと肌着との間には、金属製のファウルカップが装着されている。

紐を解いてファウルカップを外し、そのまま肌着をひっくり返して脱いだ。

下半身裸のまま、全身鏡の前に立つ。


「……今日も、か」


 露わになった僕の部分は半分勃起していた。

ひっくり返して脱いだ肌着を見ると、股間のあたりが薄っすらと色が濃くなっているのが分かる。

僕は先ほど、勃起していた。

姉に、妹に……血のつながった家族に抱き着かれ、膝枕をして、彼女たちに欲情していたのだ。

スキンシップの多い彼女たちにそれを隠すため、戦場の装備ではなく、日常生活でもファウルカップを付けていないと、勃起を誤魔化せないぐらいに。

僕は、明らかに色情狂そのものだった。


「……ごめんなさい」


 誰に何を謝っているのか、自分でも分からない惨めな謝罪。

口からでた空虚な言葉に反応して、目じりから涙が浮かび始める。

特別に悲しいとも辛いとも感じていないはずなのに、なぜか。


 事実1:僕は色情狂である。

血のつながった家族に欲情するような人間が、真面な性欲と性癖の持ち主とは言い難いだろう。

特に僕は、6年前の事件があったのに、その上でこんな有様なのだ、生まれつきの狂気と言って過言ではないだろう。


 事実2:僕は家族の出来損ないである。

位階52。この数値自体は、確か冒険者全体の数字で見れば上位5%に入る上位の位階である。

しかし姉妹は位階70をとうに超えており、父は位階100を超える本物の勇者。

亡くなった母の事はあまり詳しくないが、父と肩を並べて戦ったという時点でその強さもうかがえる。

努力は続けているのだが、それでも追い付ける気配がしない。


 事実3:僕は犯罪者予備軍である。

"赤"。

複数の重罪を犯し、人類の存続に悪影響を及ぼす、と父さんの力に判定された存在。

人格や能力ではなく"運命"がそうなのだと、世界を救う力に言われた人間。

いずれ高い可能性で、人類を救う聖剣の勇者に、父さんに、敵対して殺される悪役。


「ごめんなさい……」


 子供の頃から、父さんのようになりたかった。

魔王を倒し人類を救った英雄。

たくさんの人々に尊敬された、すごい人。

強く美しく可憐に育った姉妹と僕とに、平等に愛情を注ぐ、人格者。


 けれどこれらの事実を鑑みれば、僕が父さんのようになれるとは思えない。

その事実から目をそらしながら必死で努力して、肩書だけでも最上位の冒険者という同じものと手に入れた。

けれど全く距離は縮まっていないどころか、隔たる距離が明確に見えてしまい、より距離が開いてしまったかのようにさえ感じる。

まっとうに僕の前を駆けてゆく、姉と妹も、それに拍車をかけた。


「ごめんなさい……」


 客観的に見て、僕は恐ろしく幸福な人間のはずだ。

世界一強くて格好良くて優しい父親。

明るく元気で少しだけ繊細で、溌溂とした可愛らしさの塊のような姉。

マイペースだけど気が利いて、そっと寄り添うような優しく可憐な妹。

幻想的な美しさでありながら家庭的で、少し天然なメイド。

皆が皆僕の事を愛してくれているし、それを実感できてもいる。

家は裕福で、竜銀級冒険者への合格年齢17歳は、歴代4位の若さだったか。

これで幸せでない訳がない、という欲張りまくった状況なのに。


「なんで、こんなに、寂しい……?」


 父が褒めてくれるときも。

姉が抱きしめてくれているときも。

妹が構ってくれているときも。

ミーシャが一緒に過ごしてくれるときも。

こんなにも愛されていると実感できる筈の瞬間が、例えようもなく寂しく、辛い。


 この上なく幸せであるはずなのに、この上愛されていると実感するはずなのに、それでも寂しいとだけ感じてしまう。

それはきっと、僕が、二階堂ユキオが生まれつきの欠陥品だからなのだろう。

幸雄――幸せな人生をと付けられたこの名前が、皮肉にしか思えないほどに。



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