第9話 兄として、この約束は絶対に破らないから

 部屋の窓辺に立ち、レインは見慣れた景色を眺めていた。

 アンデルソンの街並み一つ一つに、幼い日々の思い出が刻まれている。


 庭園のあの古い樫の木は、幼い頃の彼が一番登るのを好んだ場所。

 遠くの時計塔は毎日時刻通りに鐘を鳴らし、彼の成長を見守ってきた。


「皮肉だな...」


 レインは小さく呟いた。


「こんなに長く暮らしてきたのに、この街から一度も本当に出たことがなかった」


 幼い頃から、まるで温室で大切に育てられた花のように。


 たまに遠出することがあっても、両親や妹が必ず一緒で、本当の意味での自立を知らないまま育ってきた。


 今、ついに一人で旅立つと決めた時、複雑な感情が胸の中で渦巻いていた。

 これから始まる冒険への高揚感と、未知の道への不安が入り混じる。

 あの謎の声に告げられた通り、外の世界は想像以上に容赦ないものなのだろう。


 物思いに沈んでいた時、突然、ノックの音が響いた。


 コンコンコン——


 静まり返った部屋に、澄んだ音が鮮明に響き渡る。


「誰?」


 レインは我に返り、扉の方へ振り向いた。


「俺だ」


 扉の向こうから聞き慣れた声が——落ち着いた、物腰の柔らかな声が。


「父上?」

 レインは眉を寄せる。意外だった。


 午前中のこの時間、父は当然行政院で政務を執っているはずだ。

 アンデルソンの領主である父は常に多忙で、こんな時間に屋敷に戻ることは滅多になかった。


「少し話がしたいのだが」

 扉越しに父の声が続く。

 これまで聞いたことのない、真剣な響きを帯びていた。


 レインは無意識に、机の上に広げられた地図と用意した荷物に目を向けた。

 鼓動が徐々に早くなっていく。


「はい」

 できるだけ平静を装って返事をする。


「書斎で待っている」


 遠ざかっていく父の足音。


 レインはその場に立ち尽くしたまま、突然の緊張に包まれていた。


 重たい樫の扉を押し開けると、書斎特有のインクと革の香りが漂ってきた。


 ステンドグラスを通した陽の光が、深紅のカーペットの上に色とりどりの影を落としている。


 天井まで届く木製の本棚には、金箔が施された革装丁の古書が所狭しと並んでいた。


 壁には代々のアンダーソン家の肖像画が掛けられ、その一つ一つの眼差しが、この若者を見つめているかのようだった。


 チャールズは象徴的な紅木の机に腰掛けていた。


 机の上には書類と羽根ペンが整然と並び、家の紋章が刻まれた卓上燈が父の表情を柔らかな光で照らし、厳しい面差しに一筋の温かみを添えていた。


「何かございましたか、父上?」


 レインは書斎の中央に立ち、貴族としての佇まいを保とうと努めた。それでも、声には緊張が滲んでいた。


 チャールズが顔を上げ、レインの目をまっすぐ見つめた。


「リリアから聞いた」

 たった一言だが、その声音には確かな安堵と誇りが滲んでいた。


 レインは喉を鳴らし、勇気を振り絞って尋ねる。


「父上は、私を止めるのですか?」


「もちろん止めはしない」


「その決意は、父として本当に誇らしい。ただ、死んでほしくないだけなんだ」

 チャールズの穏やかな表情が消え、一瞬にして真剣な面持ちへと変わった。


「お前はずっと、私が作った温室の中で育ってきた。外の世界がどれだけ危険なのか、本当のことを何も知らない。」


「しかも魔力を持たない一般人で、特別な訓練も受けていない。そんな状態で外に出るのは、死に急ぐようなものだぞ」


 チャールズは言葉を続けた。


 レインは黙って俯いた。


 チャールズの言葉に、体の奥底で目覚めたばかりの力が静かに呼応するのを感じる。

 まるでその力自体が「違う、僕は違うんだ」と主張しているかのように。


 でも、この秘密は誰にも、たとえ父であっても話すわけにはいかなかった。


 まだその時じゃない。


「やはり父上は、私を止めるおつもりなのですね」


 レインの声には挫折感が滲んでいた。


 あの不思議な力を手に入れたとはいえ、父の疑念の前では——。

 それに、未知の世界への漠然とした不安も重なった。


「死に行くようなものだと言っているのに、それでも行くというのか?」


 チャールズの声が書斎に響き渡る。まるで試されているかのような重みを持って。


 レインは顔を上げた。瞳の中の迷いが、確かな決意に変わっていく。

 でも....

 拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいるのも気にならない。


「妹との約束です。兄として、この約束は絶対に破れません」


 小さな声だったが、一言一言が意志に満ちていた。


 パンパンパン——


 静まり返った書斎に、鮮やかな拍手が響き渡った。

 緊張感が一気に溶けていく。


 父の表情が、誇らしげな笑みへと変わる。


「よくぞ言ってくれた。さすがは私の息子だ。まさか、お前たち兄妹がここまで深い絆で結ばれていたとはな」

 父は満足げに頷いた。


「もちろん、止めたりはしない」


 チャールズは重厚な赤木の椅子から立ち上がり、書棚の前までゆっくりと歩み寄った。


「だが、息子を無謀な死地に向かわせるつもりはない。出発の前に、万全の準備が必要だ」


 チャールズは振り返り、レインを見つめた。


「ついて来い」


 父の手が、古びた書物の背に軽く触れた。

 すると、カチリという小さな歯車の音と共に、大きな書棚がゆっくりと内側へと動き始める。


 その奥には、誰も知らない隠し扉が姿を現した。

 階段は闇の中へと続き、その先は深い暗がりに溶けていく。

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