涼野京子

顔 全編

私はずっとママの不倫を疑っている―。


「さっちゃん、今日の髪型は?編み込み?それとも三つ編み?」

「三つ編みで。ちゃんと崩れないようにスプレーもしてよね」

「分かってるって。それより早くご飯食べちゃいなさい」

ママは毎朝髪を結ってくれる。幼稚園の頃から高校生になった今でも。ママは手先が器用で長い私の髪を結うのが趣味になっている。パパはいるけどここ二年は二週間に一度週末に帰ってくるだけだ。単身赴任をしていて、ほぼ二人暮らしのような感じ。女だけだと何かと気が楽だ。女同士で秘密の話をしたり、最近気になるカフェにも行ける。でも私はママにも言えない秘密がある。 

 ママは金曜日の晩に、いつも友達とご飯を食べに行く。栗色の髪を巻いて、赤い紅を引く。ちなみにママはアメリカ人のハーフなので栗色は地毛なのだ。この巻髪に顔を背けて私は知らないふりをする。行ってらっしゃーいと見送る。私は疑うことをやめられない。学校の昼休みについに検索してしまった。

不倫調査 相場

 六万円〜か。会社によって高いところは十万円以上もした。一番安くても六万以上はしそうだ。バイトもしていない高校生にはなかなかの高値だ。何かバイトをしてお金を貯めようかとも考えたが、そんなことをしている暇があったらもうとっくにしてる。でもお金が必要だ。確かお年玉で貯めたお金があったはずだ。どこにしまったか考えているうちに放課後を迎えた。放課後はテニス部の活動があるので、すぐに家へと帰ることはできない。本当は今すぐに帰りたい。

 さっき、授業の終わりの挨拶をしている時に思い出したのだ。勉強机の引き出しの茶封筒があったはずだ。その中にへそくりみたくお金を貯めてあったのだ。

 最後にお年玉をもらったのは四年前で中学生だった。パパの方のおばあちゃんがさっちゃんはいつもかわいいね。来てくれてありがとうと言いながら手渡してくれた三万円。それっきり会わずにおばあちゃんは去年亡くなった。ママはおばあちゃんのことをあまり好きじゃなかったのか、パパだけお葬式に行った。私も行きたいと懇願したけれど、ママは頑なに連れていくのを許さなかった。あの三万円を封筒にしまったまま使わなかったはずだ。あぁ早く探したい。昼休みが終わり、午後の授業が始まる。急いで携帯の電源を落とし、教室へ向かった。

 教室に戻ると、次の授業の先生が来ていた。日本史の先生はいつも仏頂面で何を考えているのか分からない。そのせいか不人気らしい。でも私はこの先生が好きだ。他の先生みたいにむやみやたらに絡んでこないし、干渉もしてこない。一度、友達のことで相談したこともあるくらいだ。この先生なら話してもいいかもしれないと思った。ママのことを一人で抱えきれなくなったら。そう思いながら過ごす内にこの日最後の授業が終わっていた。

 テニス部の練習はとてもハードだ。二キロある学校の敷地周りをランニングしてから通常の練習が始まる。陸上部じゃないんだからこんなに走らなくてもいいのではないかと入部したての頃は嫌々やっていたが、今は違う。頭の中がすっきりして気持ちが和らぐのだ。この時間が割と好きなことをチームメイトに話すと、小百合って変わってるよね。普通テニスしてる時が一番でしょと突っ込まれるのだが、それでもこの時間が一番好きだった。今日も走り終わって通常の練習が始まった。私が前衛なのでボレー練習に力が入る。スッと私の右側をボールがすり抜けた。

「小百合、あんた今日あんまり集中してないでしょ」

「そんなことないよ」

「いつもならこの程度のボールしっかり押さえるのに、よそみしてない?」

「してないってば。しつこいよ」

喧嘩腰な雅にたてつくと後がない。この後もめに揉め、部活は中止になった。顧問からこっぴどく叱られたが、雅は私の顔を見ることなく帰っていった。

不倫調査 相場

この文字が忘れられない。親友が何か隠している―。


 不倫調査 相場

この文字が忘れられない。親友が何か隠している―。


 ベランダで小百合といつものように話しているけど今日の小百合はどこか元気がない。ベランダ(うちの学校は団地を改築したので教室の外にベランダの造りがそのまま残ってている)行こうよと呼び掛けた時も顔が曇ったように見えた。

 次の授業が嫌だとか部活しんどいだとか他愛もない話をしていてもいつもの小百合ではなかった。先に教室に戻っててと言われた時、小百合の手にある画面には不吉な文字が浮かんでいた。不倫調査⁉どういうことなの。平静を装い自席でスマホをいじるふりをする。小百合は何か悩んでいるのに誰にも相談できずにいるんだと悟った。

 不倫という言葉から小百合の母親のことだとすぐに気づいた。小百合の母親はいい意味で母親らしくない、女の人だ。他の母親には感じない何かを感じる。色香ともいうべき女の私でもその雰囲気に惑わされそうになる。何より他の母親より若い。父親は単身赴任で長く家を空けている。一緒に暮らしている母親の方が疑わしい。私は小百合の母親をただ綺麗な人という目では見ることができなくなった。

  雅を怒らせてしまった。いつもなら一緒に帰るのに。あの子は一度怒ったら許してくれるまで時間がかかる。以前も体調が悪くて無理して部活に出た時、集中してんの⁉とブチぎれられた。あの子の好きなソーダ味のアイスで何とか許してもらえたが、もうこんなもので釣るなんてずるいと、釘を刺された。

 明日はとりあえず部活には行かずに近所の探偵事務所に行くことにしていた。家に帰ると案の定ママはいなくて、また携帯画面を開けた。

 専業主婦のママだけど昔から色々外に意識が向いている人だった。お花やお茶を習っていていつも家はいい匂いの花の香りで包まれている。今日は木曜日、お茶のお稽古だからあと少しで帰ってくる。

 その前に相談予約を入れておかなければならない。最寄り駅から徒歩五分の所に老舗の探偵事務所があることを休み時間のうちに調べていた。ホームページには

 創業五〇年 浮気・不倫・人探しなんでもどうぞ‼

の文字が浮かんでいた。予約リンクに飛んで


8月26日(金) 17時~


に予約した。本当はもうちょっと早い時間が良かったけれど他の時間は予約でいっぱいだった。どうやら今時探偵を頼るのは珍しくないらしい。

「ただいまー、さっちゃんいるー?」

「ママ、お帰りー」

階段を下りながらママの元へ向かうとママは笑顔で今日、お寿司食べにいこっかと言ってきた。たまにこんな日がある。

 ママは料理が得意じゃなくて毎日作るのはしんどいみたいだ。ママの料理の腕前の悪さは幼稚園の頃に気づいた。

 クラスのガキ大将にお前の弁当まずそうと悪口を言われ、先生は怒ってくれた。でもそのあとに人には得意不得意があるから気にしなくていいのよ。小百合ちゃんのママはいつも可愛い髪形にしてくれるじゃない?と慰めなのか、けなしているのか分からない言葉をかけられたのを今でも覚えている。あれは遠回しにあなたのママは料理が下手だと教えてくれていたのだ。私はこの一件でママの料理はおいしくないのだと悟った。でも、ママを傷つけたくなくてまずいとは言ったことはない。ただ何も言わなくても近所のママ友に頼んで弁当を作ってもらうようになっていたので先生に言われたのだと思う。小学校に上がってからは給食になったのでママは憑き物がとれたように安堵していた。

「冷房きつくない?」

車でお寿司屋さんに向かう道中さりげないママの優しさに罪悪感を覚えつつ、今日はまぐろをたくさん食べたいな、ママはサーモンかな。なんともない微笑ましい親子の会話を続けた。

「おはよー」

この挨拶も何かを隠しているように聞こえる。

「おはよー。今日一限、数学じゃん。だるいね」

「うん、私ワークやってないや」

「また?仕方ないな。ほら写しなよ」

「有紗、いつもありがとね」

「いいの。私にできることはこれくらいだから」

「ん?どうした?」

「何でもない、早く先生が来ちゃう」

 小百合は今日何かを決行する。昨日調べていたあの事を聞こうと私は決心していた。大体の予想はついていたが、あの子が困っている時は私が助けないと。でも、学校じゃ聞けない。誰に聞かれるか分からない。盗み聞きなんてされたら大変だ、と自分のことは棚に上げて慎重に動くことにした。

家に行くのはマズいし、どこかに呼び出すにも時間も見られてしまうかもしれない。私は何度目かの逡巡で裏門前で待ち伏せすることにした。

 小百合は学校の東側にある門から帰る。家が山の手だから、民家の少ない地域なのでいつも部活終わりは一人だ。そこを狙うことにした。私は帰宅部だし、時間もある。何時間でも待とうと意気込んでいると、また明日と声をかけられて小百合は行ってしまった。

 あれ?あの子制服だった。しまった。今日は部活に行かないんだ。先生に怒られないくらいのスピードで廊下を駆け抜ける。やっと追いついたと思ったら小百合は正門近くにいた。

「小百合―。相変わらず早いね」

「有紗?なんでここに・・。」

「ちょっと話があるからついてきて」

「は?ちょっと有紗、腕痛い」

「ごめん」

パッと握っていた腕を話す。少し赤くなった痕がある。

「何なの?突然」

「いいから」

再び掴んで強引に公園に連れてきた。今度は優しく手を握りながら、隣で文句を言い続ける小百合をどうにか宥めながら。

「小百合、なんか悩んでるでしょ」

右眉がぴくりと動く。やはり図星のようだ。

「有紗に何も話すことはないから」

再び私の手からするりと抜ける。

「待って、今度は私が助けるから」

公園から出ようとする小百合に向かって叫ぶとくるりと向きを変えた。

「そんなこと、もうとっくに忘れてると思ってた」

「そんなわけないじゃない、だってあなたは恩人だから」

小百合とは小学生からの付き合いだ。私が小三の時、小百合の学校に転校してきた。当時、天然パーマがひどかった私はいじめっ子の格好の的だった。その時助けてくれたのが小百合だ。私の目見なさいよ、薄緑でしょ。その子と同じでみんなとは違うの。なのになんでその子だけいじめるのと叱ってくれたのだ。そこから小百合と私は仲良くなり、高校まで同じ学校に進学した。本当はもっと上の高校を勧められたけど小百合と離れたくなかった。

「小百合、お願いだから話して。あなたはお母さんの不倫を疑っているんでしょ」

また右眉がピクリと動いた。

 

 「有紗、あのね・・・」

私は事の詳細をすべて話した。時折口に手をあてて驚き、そして肩にそっと手を置きながら話を聞いてくれた。

「それで?今からその探偵事務所に行くんでしょ?私も行く」

「有紗は関係ない。これは私の問題でしょ。それに高校生二人でなんて目立つよ」

「それなら私にいい考えがある」

有紗はまた私の手を握って公園から連れ出した。

「真理ちゃんの洋服を借りれば少しは大人っぽく見えると思う」

そういって有紗は次々と洋服をあてがった。

 早く入ってと促されてやってきたのは有紗の家だった。この子の両親は共に弁護士でお金持ちなので初めて来たときはその家の大きさに驚いた。有紗はそんなことどうってことないなんて顔をしていたが、私にとっては大したことだった。

 有紗には四つ上のお姉さんがいてそれが“真理ちゃん”だ。真理ちゃんはそれはそれは美人で優しく、小さい時何度か遊び相手になってもらった。今は大学生で忙しいらしく、家には誰にもいないこが多いらしい。そこで有紗は真理ちゃんの部屋に忍び込み、クローゼットを開けた。私でも知っているブランドのバッグや洋服たちで埋め尽くされていた。多分、勝手に着ても真理ちゃんは怒らないからとその中から厳選した洋服を二人で着た。

 今から探偵事務所に行くというのにファッションショーにでも行くのかという服装だったが子どもに見られるよりはいいじゃないと有紗の言うことを聞くことにした。こんな恰好ならメイクもしたらどうかと提案すると有紗はすぐに乗ってきて、不器用な私の代わりにメイクもしてくれた。三面鏡の前にいる女性はまるでどこかのキャリアウーマンだ。

これなら学校の人に見られても心配ないと約束の17時が迫る中、有紗と共に駅前へと向かった。

 そこは雑居ビルの二階にあった。目立った看板はなく、誰にも見つかりたくないような雰囲気だ。扉には“南探偵事務所”とだけ書いてある古ぼけた木製の扉だ。

 有紗は本当にここで合ってるの?帰ろうよとあまりの不気味さにたじろいでいたが私にはその選択肢はなかった。ノックして予約していた浅川ですがと声をかけるとどうぞと色っぽい声が返ってきた。失礼しまーすと扉を開けると、白髭を蓄えたおじいさんと若い女性が立っていた。

「あのー、なぜこんな目の前に突っ立ておられるのでしょうか?」

「あら、失礼。目が悪くて」

眼鏡をかけているのに度が合っていないのだろうか。ひっきりなしにこちらの顔に降り注ぐ視線がやけにしつこく感じる。おじいさんの方も眠っているような細い目でこちらをじんまりみていた。

「お困りのようですね。失礼しました。私は依頼人を選ぶ主義でして、本当に困っている人だけを助けるつもりでこの仕事をやってきました。なので依頼を断ってあることないことを言われることもあるのであなたたちは口コミをご覧になってないですね」

 図星だった。正確には私だけ図星だった。検索をかけて画面の一番上に出てきたので相談予約をしたのだ。有紗は行く途中にここ口コミやばいよと言っていたのをほんの数分前の出来事だったのに忘れていた。

「あのー、入って良いですか」

「あら、これまた失礼どうぞお友達もご一緒に奥の談話室へ」

 奥に隠れていた有紗のことは見えていたのかと不思議に思ったが、二人で扉を抜け、奥へはいるとそこは資料が乱雑に置かれた木製の机と古い革の二人掛けのソファがあるだけのこじんまりとした部屋だった。有紗は待っている途中も帰ろうよと促してきたが、無視した。もう覚悟は決まっている。ただ探偵らしき人が見当たらないことだけが気がかりだった。

 いい香りのするティーカップが三つ運ばれてきた。さっきのおじいさんもやってきて私たちと向かい合って座る形になった。

「よくぞ来てくれました。見たところあなた方、本当はもっと若いですよね。こんな格好をしているけど何か事情でも?」

「学校の誰かに見られたら困るので」

本当に探偵業をしている人なのかと疑わしくなるくらい勘の悪いお爺さんだなと思った。

「自己紹介が遅れました。私はこの事務所の所長の南です。そしてこちらが秘書の榊さんです」

私たちも同様に挨拶し、早速相談を始めた。その間うーんと何度も唸るおじいさんを鬱陶しかったが、無料だしと割り切った。

「それで、あの南さんはまさか探偵ではないですよね」

「ほっ、ほっ、ほっ、もちろんですよ。私はもうとっくに引退しております。今ぜひ紹介したい探偵はではらっておりま・・」

話を遮って悪いが、一番大事なことを聞き忘れていた。

「いや、いいんです。その前にお金はどれくらいかかるのでしょうか。金額次第では申し訳ないですけど、払えません」

「事情は承知しておるので、こういうのはどうでしょう。探偵の助手になるというのは」

私たちは目を見合わせた。

「わたしたち二人がですか」

「えぇ、探偵の仕事を手伝ってくれたらお代は無料にして差し上げます。ただし条件があります」

「条件?」

「はい、探偵の言うことは絶対です。これは何が何でも守ってもらいます」

「要するに言うことを聞けってことですよね?」

「そうです。探偵の仕事は何せ協力が必要です。ひとりでは到底依頼人の希望は叶えられません」

 有紗は私のために何でもする覚悟が決まったらしい。さっきまでの怖気づいた少女とは別人のようになっていた。一方で私はというと、“言うことは絶対”という言葉に引っ掛かりを覚え、急に怖くなってきた。いかがわしい店に入らされたり、無茶なことを頼まれたりしないか気になって仕方がない。

「あのー、常識の範囲内ですよね?変なコトやらされたりしないですか」

「それはあなたのお母様次第です。それによって我々探偵の行動も変わりますから」

 上手くかわされたが、手伝うだけでおそらく十万はくだらない調査をタダでやってくれるというのだから、私たちは了承することにした。あとは探偵のことが気になったが、今日はもう戻ってこないから、後日ここの喫茶店で待ってるといいと言われ雑なメモ書きだけを貰って事務所を後にした。

 「ねぇ、どうする?絶対あの人だよ」

有紗は私の耳元で周りに聞こえないように話しかけてくる。

「だろうね。だって指定された席にいるんだもの」

平気な声で言ったが、ばれていないだろうか。

 例の喫茶店で待ち合わせの日、私たちより先に探偵がいた。

 その見た目は探偵という言葉には似合わないぼさぼさ頭でひげをはやした何とも冴えない男だった。有名なイギリスの探偵を想像していた私たちは裏切られた気分だった。所詮はリアル。フィクションのような探偵は存在しないのだという事実を突きつけられた。

「あのー、探偵事務所の方ですか」

「あぁ、依頼してきたのがこんなガキとはねぇ」

嫌な人だ。こっちはわざわざ会いに来たというのに。

「悪かったですね。何なら所長さんに言って担当を変えてもらっても構わないんですよ」

「ふん、あの偏屈じじぃは融通利かないぜ。まぁ悪いようにはしねえから、俺にしときな」

無愛想だが、腕に自信があるのか分からないがあまりに自信満々だったので私は彼に頼むことにした。

 「それで、依頼内容はもうご存じですよね。私は何をすればいいですか?」

「とりあえず、今日のところは解散だ。明日またここに来い。待ちに待った金曜日だろ?」

にやりとニヒルに笑った顔に腹が立ったが一応仕事はやってくれそうだ。

 そう、明日は金曜日。ママが不倫しているであろう日。

 有紗にも協力して貰わねば。そう思い、有紗の顔を見るとやる気に満ち溢れていた。またさっきまでとは違う顔だ。この子は気持ちの変動が激しい。さっきまでビビっていたのに少し時間が経てば、ファーストペンギンのように勇敢な顔つきになる。もう行こうよと声をかけると手を握ってきた。

「きっと、成功するから。絶対真相を突き止めよう」

そう言って私を励ましてくれた。なんて優しい友達をもったのだろう。帰り道はお互い話さなかったけれど絆が深まった気がした。

  金曜日。今日は初調査の日。いつもの朝とは違う心持ちだ。あの後、メールが届いた。

 

調査期間は一週間。報酬の件はじじぃから

 聞いてるから。また明日な

         石井


名前を聞き忘れていたが、石井というのか。私たちの名前も教えておかないと。


 探偵さんへ

 ではまた明日喫茶店で。ちなみに私は小百合で友達が有紗です。よろしく。

              小百合

 

返事はなかったが、見ているはずだ。だって私は依頼人だもの。気合を入れて髪をポニーテールにする。今日はママに結ってもらうのを断った。少しでも甘えたら情が湧いてきて調査に集中できないと思ったからだ。どうしたの?ママ離れ?まぁいいけど。今日はまた遅いからよろしくねとだけ言い残して、私より先に家を出た。

 洗面所の顔を見てどんどんママに似てくる自分に嫌気がさした。どうせならパパに似たかった。離れて暮らすパパを恋しいと思ったことはないが、二人暮らしの中で初めてパパを意識した。パパの顔の記憶が薄れていく。頬をたたいてまた自分の顔を見た。今度はパパに似ていた。

 「小百合、今日の髪型いいね」

「そう?今日は自分で結ったからね」

「なんだそういうことか。いつもより似合ってると思ったわけだ」

複雑だ。ママはいつも綺麗にしてくれるけど、本当は好きじゃなかった。子どもが無邪気に人形と遊ぶ姿と妙に自分がかぶって見える。

 いつもママの顔色を伺いながら生きてきた。だってそうした方がママは喜ぶから。二人になってからはもっとママが喜ぶことをした。でも、今日でこの想いを断ち切る。

「そうでしょ。自分でもそう思う」

「うん、本当に似合ってる。小百合が生まれたって感じ」

「どういう意味?」

「うーん、今までの小百合も小百合だったんだけど、どこか造られモノみたいだった。でも今は小百合が小百合である感じ」

「なんか難しいこというね」

「表現力を褒めてほしいくらいなのに」

頬を膨らませる有紗の手をそっと握る。

“今日は頼むよ”

“うん、分かってる”

握手で言葉を交わすことは実際にはできないけど、二人にしかできない会話が成立した気がした。席に着けよー。先生の声が鳴り響く。     

私たちの試合のゴングが鳴った。

今日は早く喫茶店へ向かう約束をしていた。“学校が終わったら最速で来い、十五時半にはいるからよ”と探偵から連絡があった。放課後の掃除はサボらないと間に合わない。

怒る。ああいう人は確実に怒る。脳内に”人選別センサー”がこの人はダメだと教えてくれている。大抵の大人はあんな話し方をしない。少なくとも私の知っている大人たちはもっと丁寧で優しい話し方だ。でもあの探偵はまるで少年漫画の格闘家のような話し方をしていた。話し方はともかく仕事をきちんとしてくれれば私はそれでよかった。

有紗はというともうあの探偵の文句は言わなくなった。小百合がいいなら、というスタンスではあるが、もう何も言ってこない。

さて、掃除当番はどうしようか。あれ以来気まずい雅には頼めない。話しかけようとしてもそっぽを向かれるに決まっている。

 雅との仲の良いさくらにも聞いたが、あんたのこと相当怒ってるみたいとだけしか言われなかった。まだ怒ってるのかしつこいなと思いながら私も悪いかと少々反省した。誰に頼もうか考えていると隣の席の宮地が目に入った。

よし、こいつに頼もう。

「あの、宮地。今日の掃除代わってくんないかな」

「なんで、僕が」

細い目がさらに細くなって表情が分かりにくくなった。

「頼める人いないの」

「今日が僕早く帰ってやりたいことがあったのに」

「頼むから」

「それじゃあ今度の日曜日僕の昆虫採集に付き合ってよ」

「はぁ~?なんで私が」

「そういうことだよ。浅川さん」

言い返された。あんな陰気な奴に。下に見ていると悟られたのか恥ずかしくなる。

 でも昆虫採集だけは絶対に嫌だった。私は虫が大の苦手だ。特にあのつやつやと黒光りしている昆虫の王様は、昔おじいちゃんが育てていて自慢げに見せてきた光景が忘れられない。意味もなく空中を刈る二本の刃は私の心をざわつかせた。

 でも、他に頼める人はいない。掃除はみんな嫌いだし、何しろ必要最低限の交友関係しか築いていない。隣の席の男子に頼むのが精一杯だった。

「分かった。行くよそのかわり再来週の日曜でも構わない?」

探偵の調査が終わるのは一週間後の金曜日。せめてもの譲歩だ。

「ありがとう。いつも一人だから集められる数に限りがあって。本当助かるよ」

クラスメイトの喜ぶ顔をみると今さら後悔する。

 あぁーまずい。虫なんて触れやしないのに。

 ザワリ。

 喫茶店に着くとやはりもういた。妙に心が落ち着かないのを誤魔化しながらこんにちはと声をかける。

「おー。お勤めご苦労さん」

「労いのお言葉感謝します」

「なんだ、せっかく褒めてやってんのに。学生なんて退屈だろ」

「失礼な。もういいですよ。それより今日はどうするんですか」

口を挟めないでいる有紗を横目に話を進めた。

「まずは、稽古場だ」

「稽古場?確かにママは色々習っているけど今日は何もないはずです」

「いや?今日もあるはずだぜ」

また探偵がニヤリと笑う。私はママに嘘をつかれていたことを悟った。悔しい。この人は知っているのに。家族である私が白井愛なんて。ぶつけようのない怒りが湧水のようにあふれ出てくる。有紗はすっと私の手を握ってくれた。

“落ち着いて。私がいる”

とでも言いたげな目をしながら暖かな花に包まれた気持ちになる。

「それで?今日は何の稽古ですか?」

「案外冷静だねぇ。偉い偉い。今日は料理だ」

「料理?ママは料理が苦手で上達したと思ったことは・・・」

「そんなはずはねぇ。もう二年は通っているらしい。よっぽどセンスがねえんだよ。お前がそう感じてるってことはよ」

 料理教室なんて意外だった。とっくに料理は諦めたものだと思っていた。成果はないみたいだけど私のことを考えてくれていたなんてちょっと嬉しかった。

「お前、自分の母親の通っている稽古も知らないなんて本当に仲は良好なのか」

「失礼な。仲は良いですよ。世間の母娘が子どもの反抗期でその関係を拗らせてるみたいな、あんなことうちでは起こりませんから」

「じゃあなんで?」

 稽古場へ向かいながら私とママの仲に探りを入れてくる。ママのことをあまり知らないなんて思われたくなかった。私とママは仲はいいけれど深い話はしない。お互いに干渉しない。だから喧嘩もしない。普通の母娘ではないことは昔から薄々気づいていた。

「お互いプライバシーがあるんです。節度を持った関係を築いてるんですよ」

 声が震えそうになる。私が言うことが本当なら今していることはそれに反する。入ってはいけない領域に足を踏み入れようとしているのだから。

「ま、そのくらいがいいのかもな」

ここだと指さしながら探偵は私に共感してくれたみたいだ。この人やっぱり優しいのかも。なんて思いながら指さす方向を見た。

 そこは、喫茶店から歩いて二〇分ほどの閑静な住宅街にあった。一見普通の家だが、郵便受けを支えている木の支柱に、

 

佐藤料理教室


と木彫りのプレートがうち込まれていた。

 「そろそろ出てくるところだ」

そっと息を呑む。ママは一人で出てくるのかそれとも男と出てくるのか。私だけじゃなくて隣にいる有紗も緊張しているようだった。

「出てきたぜ」

私たち二人は顔を見合わせる。ママはやはり不倫していた。

  男の人と出てきた。それもにこにこしながら。手は繋いでいないけれど肩がすぐ引っ付いちゃうくらい親密な距離で歩いて出てきた。しかもその顔は知っている顔だった。有紗も同じだった。開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。有紗は口をあんぐりさせたまま何も喋らない。

「おまえ、あの男知ってるのか?」

「うん」

「誰だ」

「友達のお父さん」

「友達?」

「そうか。でも決定的な証拠ではないからな」

「へ?あんな距離で歩いてたのに?」

「もし証拠が欲しいなら不貞行為だろ?」

ホテルか。ホテルに行く写真を撮ることができればママに事実を問い詰めることができる。

「じゃあ、尾行を続けよう」

「今日は無理だ。準備不足」

「は?準備不足?後六日間しかないんだよ」

 ついタメ口で怒ってしまった。だめだ目上の人はどんな人でも敬語を使いなさいとパパから言われてたのに。

「ごめんなさい。つい怒ってしまって」

「いいけどよ。今さら。俺も悪かった」

 ほら探偵さんはやっぱり優しいでしょ。誰に話しかけるわけでもないがポツリとつぶやいた。

「お前金曜日だけだと思ってるのか」

「はい。だって金曜日は絶対ご飯は別々ですから」

「他の曜日は?」

「まぁ、一緒に食べてますかね」

「いや違うな」

「違う?」

「昼はお前学校で食べてるだろ」

そうか。お昼ご飯はママは一人。私はいないからいくらでもチャンスはある。

「それじゃ月曜日からまた」

「昼だから俺一人で十分だ。もう今日のことで分かっただろうけど探偵は神経を使う。ガキには無理だ。友達の女の子?有紗?亜咲?まぁどっちでもいいけどお前ももういいよ」

「はい分かりましたってなるわけないでしょ。子ども扱いしないでください」

「子どもだ。お前たちは」

曇りなき眼―前髪の下から覗く眼光が鋭すぎて飲み込まれそうになった。もうこの人の言うことを聞くしかない。直感に頼ることにした。

「じゃあお任せします。どうかお願いします」

 深くお辞儀する。有紗も横で同じ角度でお礼をした。いいから恥ずかしいからお前らと探偵さんは照れ臭く笑った。

 初めて素の顔を見た。探偵の裏の顔。真の顔を目撃した。

  あれから五日後、またいつも喫茶店に来ていた。有紗も一緒だ。また真理ちゃんの服を借りたのは秘密だ。真理ちゃん、ごめんと心の中で謝罪する。

 この前も公園の公衆トイレで着替えてから喫茶店へ向かっていた。有紗が学校で喫茶店も人目に付くからまた借りてきたといたずらそうに貸してきたのだ。探偵さんはまた先に着いていてまたその恰好かと陰鬱な顔をして私たちを捉えたようだ。

「お前ら懲りねえな。制服でも別に誰も見ちゃいない。みんな自分のことしか興味ねえんだからよ」

「念のためですよ」

有紗が珍しく口を挟んだ。いつも私ばかり喋っていたのに。

「それで?何か分かりましたか」

「おうよ。これ見てみろ」

 おびただしい量の写真と調査報告書がぶっきらぼうに投げ出された。やっぱり優しいのか意地悪なのか分からない。

 それよりも、写真一つ一つにうつっているママの顔がどれも違う女に見えた。

「やはり同じ男だな。あの日見た男と」

「そうですね」

「そうですねってやけにあっさりしてんな」

「だって知ってますから」

「知ってる?」

「はい。この男の人私も有紗も知ってるんです」

「お前らなんでこの前・・・」

「探偵さんは男の人の正体が分かってるんでしょ」

「まあな。探偵は不倫相手のことも調べるのが仕事だ。あたりめえだ。でも最初から調べる必要なんてあったのか?」

「だってパパに教えないとだから。パパに信じてもらうために」

「お前のパパはお前のこと信用してないんだな」

 パパはここ最近帰ってくる頻度が減っている。前は二週間に一度だったのに、一ヶ月に一度になった。だから私のことなんてもういらないと思っているかもしれない。だから関心を引きたいのだ。昔から私のことに興味がある素振りがまるでない。事務的な対応ばかりでおおとかああとか言わない。パパは子どもが好きじゃない。だから私のことも信じてない。

「探偵さん、パパは単身赴任だから信用している・していないの問題じゃないの。証拠を見せないと訴える時も困るでしょ」

「子どものお前がそこまでしなくちゃいけないことなのか」

「子どもじゃない。もう大人だから。できることは自分でやらないと」

「まぁ家庭のことに首を突っ込むのは性分じゃねえから好きにしろ」

 有紗の手を引いて喫茶店から飛び出した。

 もうこれで終わるんだ。

パパはここ最近帰ってくる頻度が減っている。だから私のことなんてもういらないと思っているかもしれない。だから関心を引きたいのだ。昔から私のことに興味があるそぶりがまるでない。事務的な対応。パパは子どもが好きじゃない。だから私のことも信じてない。

「探偵さん、パパは単身赴任だから信用している・していないの問題じゃないの。証拠を見せないと訴える時も困るでしょ」

「子どものお前がそこまでしなくちゃいけないことなのか」

「子どもじゃない。もう大人だから。できることは自分でやらないと」

「まぁ家庭のことに首を突っ込むのは性分じゃねえから好きにしろ」

有紗の手を引いて喫茶店から飛び出した。

 もうこれで終わるんだ。

 父さんはここ最近怪しい。教師のくせにやけに洒落た服を着て出勤するようになった。それに昼休みは学校を抜け出しているらしい。教師にはもってのほかだ。他の先生は絶対あの人女と会ってるよと囁かれている。最悪だ。あの子の父親は不倫していると後ろ指をさされている気がする。でも小百合だけは味方だ。なのに喧嘩をふっかけてしまった。

 ここ一週間なんだか有紗とこそこそしているし授業が終わると急いで帰る。部活は体調不良ということで休んでいるらしいがそれは嘘だと思う。

 雅、今日も頑張ろうと声をかけてくれていたのが遠い昔のことのようだ。私も意固地になって謝らないし、謝るタイミングを逃してしまっている。でも私が悪いんだ。

 あの日、ちょうど父さんから呼び出しをくらった。最近たるんでるんじゃないのかと偉そうに今さら父親面をしてきたからイライラしていた。小百合にキツくあたってしまった。顧問でもある父さんにこっぴどく叱られたのは小百合も知らない。父さんは私より小百合を贔屓している。小百合には優しく指導し、授業中は簡単な問題ばかり当てる。なぜそんなに小百合ばかり気にかけているのかずっと悩みの種だったがそんなことはどうでもよかった。  でも小百合は相変わらず私のことも気にしてないみたいだ。

 「おーい雅、雅ってば」

遠くで声がする。あー今部活中だったのか。小百合と笑いながら練習している。幸せだ。私にとっての幸せはこれだ。もう一度小百合の声がする。今度は近くで。そばに小百合がいる。

「雅、起きてってば。話があるのに」   

夢か。今のは夢なのか。目を擦っていると小百合の顔がぼやけて見えた。

「雅、いい加減にしてよ。もう部活始まってるよ」

意識がはっきりしてくる。これは現実か。

「小百合!?なんでここに。それに有紗も」

「もうずっと起こしてたんだよ」

「ごめん。眠くってさ」

喧嘩したまま口を聞かなかったのに普通に喋れるもんだなと嬉しくなる。

「雅、ごめん」

「小百合、ごめん」

同時に頭を下げてぶつけた。有紗はケラケラ笑っている。二人とも何やってんのと楽し気に腹を抱えて笑っている。

 でも数分後に笑顔はなくなった。

 “あんたのパパ、小百合のママと不倫してるんだから”

  二人なんて大嫌い。もうこの秘密ばらしちゃおう。

 

先生がいなくなった。それにクラスメイト二人も。

 なんて心地いいんだろう。自分で作り上げた楽園。先生は不倫がバレて田舎の山奥の学校に飛ばされた。その子どもは母親に連れられて東京へ行ったらしい。まぁ、母親の実家が金持ちらしく暮らしに困らないのが腹立つけど。もうどうだっていい。だってもういないんだから。

 一番はあの子だ。一番嫌いだった。あんなのは偽善者なんだ。悦に入って自分を勇者かなんかだと思っている。結局パパに喋ったらしくママは逃げるように家を出たらしい。今は離婚協議中だそうだ。当初の目的を果たせてよかったじゃないともういないあの子に励ましの言葉をかける。でも先生には悪いことしたな。ついでだもん。邪魔な二人をいなくさせるための。

それにしても叔父さんの演技、下手すぎて笑いをこらえるのに必死だった。あの子の横でずっと黙っていたのはそのせい。最後に一言だけ喋れたけどね。もう終わったことだから。別にどうでもいい。

「みんな席についてー。今日は転校生が来ましたよ」

三年のクラス担任はやけに甲高い声だ。鼻につくけど勝手に自滅していくタイプなので放っておこう。

 新学期に転校生か。新しい季節には新しい人がやってくるシステムでもあるのかと鬱陶しく思う。邪魔者はいないからそんなことはどうでもいい。

「みなさんこんにちは。半年間他所に行っていたのだけれどまた戻ってきました」

宮地がニヤリとこちらを見て嗤う。私の世界にまた嫌な顔が増えた。 終



  

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涼野京子 @Ive_suzun9

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