真っ赤なカエル

まつだつま

真っ赤なカエル

「こんないい加減な資料でどうやって取引先を説得できるんだよ」

 課長の木下は那珂川弘樹から受け取った資料を机に叩きつけた。

「はい」

 弘樹は下を向いて小声で返事した。

「何が『はい』なんだ。こんな誤字脱字だらけの資料でどうやって取引先を説得するのかをきいてるんだ」

 木下が弘樹を睨みつけた。

「えっとですね……」

 弘樹は体が震えはじめ声が出なくなった。

「お前、何も考えてなかったんだろ。準備もいい加減にやりあがって」

 木下が弘樹の胸をついた。

「いえ、ちゃんと準備しました」

 弘樹は下を向いたまま首を横に振った。

「嘘つけ。ちゃんと準備してこれなら、お前の頭の中は空っぽで無能ってことだぞ」

 木下が弘樹の頭をペンペンと叩いた。

「すいません」

 弘樹は頭をさすった。

「そんなだから営業成績はいつまでたっても上がらないんだ。もういいわ」

 課長は吐き捨てるように言って立ち去った。


 何をやっても課長からは認められず、怒られてばかりだ。仕事への意欲は日に日に消えていく。課長の言う通り自分は無能なのかもしれない。このまま生きていても、周りに迷惑をかけて自分も苦しむだけだ。

 弘樹は駅を出て自宅マンションへと帰りかけたが、マンションで一人で過ごす気にもなれず、駅の周りをフラフラと徘徊した。

 知らない間に駅前にはコンビニが出来た。田んぼだったところはアスファルトに変わりコインパーキングが出来た。町は進化し続けるが自分は進化どころか退化している。

 線路沿いの道をトボトボと歩いた。電車が猛スピードで弘樹の横を走る抜ける。

 さっき、あそこに飛び込めば楽になったんだろうなと電車が走り去ったあとの線路を眺めた。マンションに帰っても部屋で一人落ち込むだけだし、明日仕事に行っても怒鳴られるだけだし、このまま消えてしまいたいと思った。

 弘樹は足を止めて次の電車が来るのを待つことにした。しばらくぼんやり立ち尽くしてから腕時計を見た。

「次の電車はそろそろだな。よしっ、死のう」

 弘樹は覚悟を決めた。一歩二歩と線路に向かう。線路の鉄製の柵に手をかけた。

「ねえ、助けて」

 そこで後ろから声がした。

 弘樹は振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 もう一度柵に手をかけた。

「お願い、助けてよ」

 また、声がした。もう一度振り返ってみる。

「ここよ」

 声は足元から聞こえた。

 弘樹が足元を見ると小さい赤い物体が見えた。

 膝を折って屈んでみると、そこには一匹の真っ赤なカエルがいた。

 カエルは大きな目で弘樹をじっと見つめていた。

「今、しゃべったのはお前か」

 弘樹は真っ赤なカエルに話しかけた。

「そう、あたしよ。お願いだから助けて」

 真っ赤なカエルの口が動いた。

 弘樹は首を何度も横に振った。カエルがしゃべるなんてありえない。ついに自分の頭がおかしくなったと思った。

 カエルは這うようにして弘樹の黒い革靴に上った。

「あたし、死にそうなの。だから助けて」

 弘樹の革靴の上で真っ赤なカエルは弘樹を見上げた。

「どうしたんだよ」

 弘樹は革靴の上に乗るカエルにきいた。

「あたし、カエルの子供なの」

「カエルの子供はおたまじゃくしじゃないのか」

「おたまじゃくしは赤ん坊よ。あたしはおたまじゃくしからカエルになったばかりの子供なの。そのおかげで命は助かったんだけど、でも、このままだとあたしも死んでしまうわ」

「どういうことだ」

「あたしはそこにあった田んぼで生まれたの。その田んぼが急にアスファルトでかためられたのよ」

「あそこか」

 弘樹は以前田んぼだったコインパーキングの方を指差した。

「そう。あたしはあそこで生まれて兄弟姉妹と暮らしてたんだけど、急に田んぼが無くなったの。あたしはその時、手足が出てたから陸へ逃げられたんだけど、弟や妹たちはまだおたまじゃくしだったから、あの下に埋められちゃったわ」

「あの下に、お前の弟や妹が埋まってるのか」

 弘樹がきくとカエルはシクシクと泣きはじめた。

「あたしは弟や妹を捨てて逃げ出した卑怯な姉なの。どうしようもない姉なの」

「そんなに自分を責めるなよ。お前が悪いわけじゃないよ。それで、お前は俺に何をしてほしいんだ」

「あたし、逃げ出したのはいいんだけど、食べ物はないし水もなくて死にそうなの。弟や妹を見殺しにして自分だけ生きようとするのは身勝手かなと思ってはいるんだけど、やっぱり死にたくないの。もし、あなたが弟や妹を見殺しにしたあたしを許してくれるのなら、食べ物と水を恵んでほしいの。そしてあたしを大人のカエルになるまで育ててほしいの」

「お前が弟や妹を見殺しにしたとは思わないけど、俺にはお前を育てる余裕はないよ」

 弘樹は仕事をクビになるかもしれないし、今から死のうと思っている。このカエルを育てる余裕は経済的にも精神的にもない。

「あなたがあたしをこのまま放って帰って、明日の朝、ここを通った時にあたしの死体を見たら、あなたはきっと後悔することになるわよ」

「そう言われても俺には余裕がないんだ。俺も死にたいくらいに追い詰められてるんだ」

「わかったわ。じゃあ、このままだとあたしはどうせ死んじゃうし、ここで車に轢かれてあなたより先に死ぬことにするわ。このまま生きてても苦しいだけだし、その方が楽だわ。これで弟と妹の元に行けるわ」

 真っ赤なカエルは弘樹の革靴から降りて、フラフラしながら道路に仰向けに寝そべった。

「おい、待てよ。わかったから早まるな。お前を連れて帰って俺が育てるから、死ぬなんて考えるな」

「ほんとに」

 カエルが寝そべったまま頭を持ち上げた。

「ああ、でも贅沢はできないぞ」

「うん、水と食べ物があれば大丈夫よ」

 カエルは起き上がり、また弘樹の革靴に這いながら上った。

「ところで、カエルって緑色じゃないのか。なんでお前はそんなに赤いんだ」

「体力が落ちて死にかけているの。それで体が赤くなったの。体力が回復したらだんだん黄色くなって、完全に回復したら緑色になるわ。あたしの体が緑色になるまで、あたしを育ててくれる?」

「なんか、ウルトラマンみたいだな。じゃあ、お前を育てるのはお前の体が緑色になるまでの約束だ。緑色になったら黙って俺の前から姿を消してくれ」

「わかったわ。約束する」

 真っ赤なカエルは弘樹の革靴の上から弘樹の顔を見上げた。パチパチさせる大きな瞳から涙が溢れ夕日でキラキラと光っていた。


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