丸の内もへじの影
第2話
今日僕は丸の内もへじに行く。
相手は台湾の出版社の人間だ。
大蛸の鉄板焼きを頼むつもりだ。
雨上がりの丸の内は湿気を帯びた夜風が吹き、街灯が濡れた地面を鈍く照らしていた。歩道を歩く人々の足音が妙に響いてくる。僕は早足で歩きながら、なぜこんなにも足元が重いのか考えていた。まるで、自分がこの場所に「来てはいけない」と警告されているような感覚だった。
「もへじ」に入ると、奥の席で相手が待っていた。黒いスーツを着た、どこか冷たい目をした男。彼は僕に気づくと静かに頷いた。
「遅れてすみません。」
「いや、ちょうど来たところだ。」
声は落ち着いているが、何かが「違う」と感じた。彼の微笑みはどこかぎこちなく、温かさを感じさせなかった。それでも、話を進めるしかない。
「さっそくですが……」
僕が切り出すと、男は手を上げて僕の言葉を制した。
「その前に、大蛸の鉄板焼きを頼んでくれませんか?」
その言葉に、背筋が凍るような寒気を覚えた。僕はまだ注文について何も口にしていない。それなのに、彼はそれを知っている――どうして?
「ええ、もちろん。」僕は表情を取り繕い、店員を呼んだ。
注文が済むと、彼は静かに話を始めた。彼は僕の書いた原稿について語り出し、どこか奇妙なほど詳しく内容を把握していた。僕が書きかけの部分や、まだ他人に見せていない裏設定までも。
「なぜそれを知っているんですか?」
僕の質問に、彼は薄く笑った。
「あなたのことをよく知っているからですよ。」
それ以上、何も言わなかった。次第に、店内の空気が妙に重く感じられてくる。周囲の会話や食器の音が次第に遠のき、鉄板から立ち上る熱気さえも薄れていく。
運ばれてきた大蛸の鉄板焼きの匂いは、どこか腐臭のようなものを含んでいた。僕はそれに手をつけず、ただ男の顔を見つめた。彼は僕に視線を向けながら、一言だけ言った。
「食べないのですか?」
その声には、不自然な低さが混じっていた。まるで、何か別の存在が言葉を紡いでいるかのような感覚。僕はついに耐えられず、問いかけた。
「あなた……本当は誰なんです?」
彼はゆっくりと顔を歪めるように微笑んだ。その目は先ほどとは異なり、どこか暗闇そのもののような深さを持っていた。
「私は、あなたが消したものだ。」
「……何を言っている?」
「あなたが書き上げて、そして破棄した原稿の中にいた存在だよ。」
言葉を理解するより早く、視界が揺れる。気づけば、店内の光が奇妙に薄暗くなり、他の客や店員の姿が次々と消えていく。
「ここは……?」
「あなたの想像の中の場所。『もへじ』という店も、私も、すべてあなたが生み出したものだ。」
彼は椅子から立ち上がり、ゆっくりと僕に歩み寄る。僕は動けなかった。まるで身体そのものが何かに縛られているような感覚だった。
「もう一度、私を物語の中に戻してくれ。」
「そんなこと、できるはずが――」
その瞬間、彼の手が僕の額に触れる。視界が真っ暗になり、耳元で囁く声が聞こえた。
「Have a nice day」
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