第36話 時の狭間で咲く花

 吉法師羊太郎は、机の前でしばらく『中沢琴』のページをめくっていた。その物語は、タイムトラベルと戦争をテーマにした壮大なスケールで展開されており、彼の心をつかんで離さなかった。鷹山トシキという作家は、その鋭い筆致で歴史の重みを感じさせ、登場人物たちの葛藤を深く掘り下げていた。


 吉法師は、その一ページ一ページに自分の心を奪われながらも、同時にある感情が胸を締め付けていた。 「この物語が俺よりも上を行っている」 彼はそのことに、悔しさと嫉妬を感じていた。


 バルボッサ出版社での過去がよみがえった。あの頃、吉法師と鷹山は同じ出版社でライバル関係にあった。お互いが時に切磋琢磨し、時に競い合う中で、鷹山はその文学的才能で周囲を圧倒していた。一方、吉法師はその地道な努力でファンを増やし、じわじわと名を広めていた。


 だが、最終的に鷹山は業界内での評価を確立し、作家としての地位を不動のものにした。それに対して、吉法師はなかなか一歩前に踏み出せずにいた。そのことが、彼の心に深い屈辱として残っていた。


 そして今、鷹山の作品『中沢琴』が再び彼の前に現れた。吉法師はその作品を読んでいるうちに、胸の中で何かがこみ上げてきた。「こんな作品を書くヤツに、俺が負けるわけがない」


 その時、突然、部屋の扉が勢いよく開いた。


「おい、吉法師、まだ読んでいるのか?」声をかけてきたのは、彼の旧友であり、かつてバルボッサ出版社の編集者だった霧島亮介だった。


「お前、またあの鷹山トシキの本読んでるのか? そろそろ自分の作品に集中したほうがいいんじゃないか?」霧島の顔には、少しばかりの挑発的な笑みが浮かんでいた。


 吉法師は、霧島の言葉に反応せず、ただ黙ってページを閉じた。彼の目は、どこか鋭くなり、怒りを含んでいるようにも見えた。


「この本、ちょっとだけな。お前がそんなに読みふけってるのを見ると、思わず心配になるんだよ。バルボッサの元ライバルだからって、鷹山の作品を気にしすぎだろう」霧島は肩をすくめる。


「ふん、そうかもしれないな。でもな、俺はもうすぐあいつを超えるんだ。俺の新作が、必ず世間を驚かせてやる」吉法師の目に火花が散る。


 霧島はややあきれ顔で笑った。「それがどうだってんだよ。あいつの名前を気にするより、お前が本気で戦うべきは、ただ一つだろう。自分の作品に全力を注げよ」


 その言葉に吉法師は心の中で反発した。霧島は、常に現実的で冷静な男だ。しかし今、吉法師の胸には熱い闘志が燃え上がっていた。彼は、あの鷹山に勝ちたかった。もう一度、文学界の頂点に立ちたかった。


「今度は、ただの小説家なんかじゃない。俺は、物語そのものを変えてやる」吉法師は、心の中で誓った。


 その瞬間、目の前で一筋の閃光が走ったような気がした。



---


次の日、吉法師はある決断を下す。


 彼の新作は、ただの歴史小説ではない。過去の歴史を舞台にしつつ、物語の中でタイムトラベルを描き、その世界の運命を根底から変えるという、かつてないアプローチを取ることに決めた。


 だが、それは同時に危険な挑戦でもあった。鷹山の『中沢琴』のような作品に勝つためには、ただの技術や内容では足りない。物語が読者の心を打ち、震わせるような、衝撃的な展開が必要だった。


「俺の勝負は、もう始まっている」吉法師は筆を取り、手を動かし始めた。


 その頃、鷹山は自宅で穏やかな時間を過ごしていた。だが、彼の心の中では何かがひっかかっていた。吉法師の名前が、彼の脳裏にちらつく。


「吉法師羊太郎…あいつが本気になった時、俺も本気を出さなきゃならない」鷹山は思った。


 それから数ヶ月後、二人はそれぞれの新作を発表し、文学界を揺るがす激しいバトルが繰り広げられることとなる。それぞれの作品は、読者の心を掴み、批評家たちの熱い議論を巻き起こした。


 だが、どちらが勝つかはまだわからない。



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 吉法師と鷹山。彼らの戦いは、ただの文学の勝負ではない。互いにとって、自己を超えるための戦いであり、歴史に名を刻むための戦いであった。


 琴が1950年のロンドンで目を覚ました後、彼女の心には深い迷いと葛藤が渦巻いていた。歴史を変えるために、彼女は数々の危険を乗り越えてきたが、その度に新たな問題が生じ、次第にその重責が彼女を押しつぶしそうになっていた。歴史を改変することが本当に「正しい」のか、その答えは未だ見つからなかった。


だが、その一方で、琴は運命に引き寄せられるように、ロンドンの街で偶然出会った人物――篠原――と激しい恋に落ちることになる。篠原は日本から来た青年で、戦後復興のためにイギリスに渡り、技術者として潜水艦の開発にも携わっていた。琴が潜水艦の計画に関与するために接触を試みたその矢先、篠原と出会い、互いに強く引かれ合うことになった。


篠原は冷静で理知的な人物だったが、琴の瞳の奥に見え隠れする痛みと、過去の出来事への深い悔恨に気づき、次第に彼女の心の内を知るようになる。彼は琴の抱える重責や、過去を変えようとするその使命感を理解し、彼女が向き合うべき問題の大きさに対して深く共感するようになる。


ある晩、篠原と共にロンドンの静かな公園を散歩している時、琴は自分の心の中で抑えていた感情を抑えきれなくなった。篠原が彼女の手を取った瞬間、その温もりに触れた琴は、今までの孤独を感じさせるすべての悩みや不安が一瞬で溶けていくのを感じた。


「琴……」篠原の声が柔らかく、そして真摯だった。「君は、未来を背負っている。でも、その中で、今ここにいる私たちの時間も大切にしなくてはならないんじゃないか?」


琴は一瞬言葉を失った。未来を変えるために過去を変え続けること、それが彼女の使命であり、運命だった。しかし、篠原の言葉が胸に響く。彼との時間――それは、歴史を動かすこととは無関係に、ただ「今」を生きることの大切さを教えてくれているようだった。


その夜、琴は篠原に自分のすべてを打ち明けた。自分がどれほど過去と未来を引き裂くような決断をし続け、どれだけ自分を犠牲にしてきたのか、そしてその結果として何度も命を危険に晒し、何度も自分が間違っているのではないかと悩んだことを――。篠原は黙って聞き、時折彼女を見つめながら、手を握りしめた。


「琴、君の痛みを理解することはできないかもしれない。でも、君が抱えているその重荷を、私が一緒に分け合えたらと思う」と篠原は静かに言った。


 その言葉に琴は涙をこぼし、篠原にしがみついた。自分がどれだけ孤独だったのか、そしてどれだけ愛を渇望していたのか、初めて彼女は理解した。篠原の腕の中で、時空を超えた使命感を超えて、彼女はただ一人の人間として、愛を感じることができたのだ。


 だが、二人の関係は、平穏無事では済まなかった。琴が関わる潜水艦の計画や、その影響を受けた過酸化水素の爆発事故により、イギリス海軍内でも危機的な状況が続き、ついには琴の存在が秘密裏に追われることになる。篠原はそのことを知り、彼女を守るために奔走するが、琴はその度に彼の身を危険にさらすことに心を痛めていた。


 ある日、琴は篠原に再び別れを告げる決断を下す。彼女が歴史を変えるためには、彼を巻き込むわけにはいかないからだ。しかし、篠原は彼女の覚悟を理解しつつも、彼女に言った。


「どんなに歴史が変わろうと、私は君の側にいる。君の選んだ道を共に歩むことができなくても、君がどんな結果を迎えても、私はずっと君を想い続ける」


 その言葉が琴の心に強く刻まれた。愛する人との別れがこんなにも苦しいものであるとは――彼女はその時、初めて痛感した。自分が歴史を変えるために選んだ道がどんな結果をもたらしても、篠原との関係は彼女の中で決して消えないものになるだろうと。


 琴は再び自らの使命に立ち返る。彼女が背負うべき未来、それは篠原との愛があるからこそ、意味を持つのだと思いながら。





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