第31話 琴の心の揺れ
琴は江戸の裏社会で確固たる地位を築きつつあったが、その一方で、彼女の心には常に孤独が付きまとっていた。武市瑞山との対決、清水五郎との接触、そして数々の戦いの中で彼女は自身の目標を見失わないよう努めていた。しかし、心の奥底では、時折ふとした瞬間に感じる寂しさや、誰かと心を通わせたいという欲求が顔を出すこともあった。
そんな琴にとって、江戸の街で出会う人物の中で、ひときわ気になる男がいた。彼の名は篠原竜之介。篠原は新徴組の隊士であり、琴が裏社会に足を踏み入れる前から何度も顔を合わせていた。彼は一見、真面目で冷静な性格に見えるが、琴の周りでは常に安心感を与えてくれる存在だった。
琴と篠原が初めて言葉を交わしたのは、江戸の街で起きた小さな衝突事件の際だった。琴が目撃したのは、路地裏で起きた盗賊団の乱闘。彼女が近づこうとしたその時、篠原が駆けつけて一気に事態を収拾した。その冷徹で迅速な行動に琴は驚き、同時に感心した。
「助かった」琴は、少し躊躇しながら言った。彼女は普通ならば、こんな風に人に感謝することは少なかった。しかし、篠原の冷静さ、そしてその背中に感じた信念に惹かれたのだ。
篠原はにこりと微笑んだ。「何もしていませんよ。ただの仕事です。あなたこそ、大丈夫でしたか?」
その一言が琴の心を少しだけ柔らかくした。その後も、彼らは何度か偶然に会うことがあり、少しずつお互いに気を使うようになっていった。
琴は篠原と会話を重ねるうちに、次第に彼に対して特別な感情を抱くようになった。篠原は、何も言わずに琴の心の内を察するような気配を持ち、彼女が抱える孤独や戦いの疲れを理解しているように感じられた。
ある日、二人で屋台の前に立ち止まった。琴が手に取った焼き鳥を口に運びながら、ふと篠原に問いかけた。
「あなたは、この街をどう思っている?」
篠原は少し考え込み、「この街には、いろんな顔がある。それはもう、日々変わっていく。でも、僕は、この江戸を守るために生きている。ただ、それだけだよ」
その言葉に琴は胸が締め付けられるような気がした。篠原の真摯な態度に、心の中で何かが揺れるのを感じた。
「守る…」琴は思わず口にした。「私も、守りたい。でも、それができるのか、分からなくて」
篠原は静かに琴を見つめ、優しく言った。「君ならできるよ。ただ、無理はしないでほしい。君にはまだ、守るべきものがたくさんある」
その言葉に、琴は目を伏せた。彼女が今まで抱えてきた孤独と戦いの中で、篠原の言葉はまるで温かい光のように心に染み込んでいった。
次第に、篠原との関係はそれ以上に深まっていった。彼との会話は、琴にとって唯一の癒しの時間となり、彼女が戦うべき相手や目的を忘れる瞬間が少しずつ増えていった。
だが、琴は自分の心に踏み込むことを恐れていた。彼女の人生は、愛を育む余裕がないと感じていた。江戸を変えるためには、篠原を巻き込んではならないし、恋愛に身を投じている暇もないと思っていた。
そんなある晩、篠原が琴を見つけて声をかけた。
「中沢さん、今夜少しだけ話がしたい」
琴は驚いたものの、彼の眼差しに引き寄せられるように、二人はしばらく静かな場所に向かった。篠原は一度深呼吸をして、そしてゆっくりと語り始めた。
「君がどれだけ強くても、どれだけ頑張っても、僕は君が孤独であることを心配している。君には、誰かに頼ってほしいと思うんだ」
その言葉が琴の胸に刺さった。これまで、誰にも頼らずに戦ってきた琴だったが、篠原がそう言うと、今まで感じたことのない感情が湧き上がった。
「私は…」琴は言葉を詰まらせた。「私は、あなたに頼るべきではない。私の道は、私だけで切り開くべきものだから」
篠原は静かに彼女を見つめ、優しく言った。「それでも、君が少しでも心を許してくれたなら、僕はそれだけで嬉しい」
その瞬間、琴の心の中で何かが変わった。彼の言葉が琴の心を温かく包み込むと同時に、彼女は篠原の存在が自分にとってどれほど大切なのかを実感した。
琴の心は揺れていた。篠原との関係が進んでいくことで、彼を危険な目に合わせてしまうのではないかという不安があった。一方で、彼と共に過ごす時間が、彼女にとっては何よりも貴重で、心の支えとなっていった。
しかし、琴はついに自分の気持ちに素直になろうと決意する。彼女は篠原にもう一度会い、こう告げることを決めた。
「私は、あなたと共に歩んでみたいと思っている。江戸の未来を変えるために、あなたを巻き込むことができるのか分からないけれど、それでも、あなたと一緒に戦いたい」
篠原はその言葉を聞いて、満面の笑みを浮かべた。「君と一緒にいることで、僕も強くなれる気がする」
こうして、琴と篠原は心を通わせ、共に江戸を変えるために戦う決意を新たにした。琴の心には、もう孤独ではないという確信が満ちていた。愛と戦い、両方の道を歩む覚悟を決めたその時から、琴の未来には新たな光が差し込んでいた。
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