第9話 中沢琴の青春編
琴が現代の東京の街を歩いていると、突然、胸に一種の引っかかりを感じた。その感覚は冥界での修行中にも経験したことがある—危険を察知する鋭敏な直感。ふと、目の前に現れたのは、一人の高校生の少女だった。黒髪を肩まで伸ばしたその少女は、どこかで見覚えがあるような気がした。
少女は琴を見上げると、驚いたように足を止めた。何かを感じたのだろうか。琴もまた、彼女の瞳に吸い寄せられるような感覚を覚えた。その瞬間、琴の体が一瞬ひどく重く感じ、何かが響くような気がした。
「あなた…?」と、霧子が口を開く。驚きの表情を浮かべながら、琴を見つめている。
琴はその言葉に反応できず、ただ冷徹な目で少女を見返した。だが、その瞬間、突然、視界が揺れた。何かが変わったような感覚が琴を襲う。彼女の体に何かが流れ込み、まるで全てが反転したかのように、視界が変わっていった。
そして、すべてが静止した。次の瞬間、琴の体は力なく地面に倒れ、意識が遠のいていく。
目を開けたとき、琴は全く異なる場所にいた。目の前には天井が広がり、見覚えのない部屋の壁がぼんやりと浮かんでいる。頭を押さえ、強烈な頭痛に耐えながら琴は身を起こした。
「ここは…?」
その声は、琴のものではなく、違う、もっと若い声が響いていた。驚いて体を見下ろすと、そこには自分のものではない手が見えた。肌の色も、手のひらに浮かぶ細かな線も、全く違っていた。琴は息を呑み、すぐに鏡を探した。だが、見つけたのは、部屋の一隅に置かれた小さな鏡のみ。
鏡を覗き込んだ琴は、目の前に映る自分の顔を見て、思わず息を呑んだ。
そこには、確かに「霧子」という名前の少女が映っていた。黒髪に無表情な瞳、そして少し頼りなげな表情をしたその少女は、琴が冥界にいる間に体を乗っ取られてしまったのだ。
「私は…霧子?」琴は自分の新たな体に驚きながらも、冷静に考え始めた。自分の肉体が霧子のものになってしまったという事実を理解し、その身体の中に残された霧子の意識があることに気づいた。
だが、琴の意識がその中に残っている。冥界での修行が彼女に与えた能力—自分の意識を別の体に移すことができるほどの技術と力—その力がなければ、霧子の体を完全に支配することは不可能だったはずだ。
「どうして…こんなことが?」琴は自問した。だが、霧子の体に閉じ込められた自分の意識は冷静に答えを求め続けた。
その時、部屋のドアが開き、外から人の気配が近づいてきた。琴は瞬時にその気配を感じ取ると、霧子の体で立ち上がり、動きを見守った。
部屋に入ってきたのは、霧子の母親らしき人物で、心配そうな表情で琴を見つめた。
「霧子、大丈夫?具合が悪かったんじゃないの?」
琴はその問いに答えることができなかった。むしろ、霧子の母親の顔を見ると、胸の奥に不安がよぎった。自分が何をすべきかがわからない。冥界で何年も戦い、修行してきたことが、現代の生活にどう影響を与えるのか、まったく予測がつかなかった。
しかし、琴は思い出した。自分が何のために戦ってきたのか、何のために冥界に来たのか。彼女はその目的を胸に、霧子の体を使い、今度は現実世界で新たな戦いに挑む決意を固めた。
琴が霧子の体で過ごしていると、次第に彼女がどんな人物だったのかが見えてきた。霧子は普通の高校生で、家族や友人と穏やかな日常を送っていた。だが、霧子の意識は、琴の目の前で時折現れる。霧子自身の記憶や思い出が琴の意識に流れ込んでくるのだ。
「私は…どうすればいいの?」霧子は、自分が今どこにいるのか、そしてこの状況がどうなっていくのか、完全には理解していない様子だった。だが、琴が霧子の意識の中に響く声を感じるたびに、彼女はその声を無視することなく、受け入れるしかなかった。
「私の身体を…使って、あなたは何をするつもりなの?」
霧子の問いかけに、琴は一瞬答えをためらった。しかし、冥界で学んだ強さを持つ琴の心には、戦うべき理由があった。それは、自分の使命を全うするため、そして新たに出会ったこの世界で、守るべきものを見つけるためだった。
「あなたの体を使ってでも、私は戦わなければならない」琴は心の中で決意を固めた。
霧子の意識がしばらく黙っていると、琴はその後ろで彼女が微かに感じた不安を察知した。
「守るべきものは…きっと、ここにもある」
琴は霧子の体で歩み始める。冥界の教えを生かし、この新しい世界で戦い、そして守るべきものを見つけるために—それが、彼女がここに戻ってきた理由だった。
琴が霧子の体に閉じ込められ、彼女の意識が現代世界で新たな戦いを始めるその時、琴は自分の内面で霧子の意識と共に葛藤しながらも、少しずつこの世界での自分の使命に気づき始める。次に立ち向かう敵が現れるとき、琴は再び冥界での戦士としての誇りを持って、現代世界に立ち向かうこととなる。
中沢琴は、東京都郊外の静かな街に住んでいる。両親は共働きで、家にはほとんど一人で過ごすことが多い。学校も静かで、特に目立つ存在ではない。友達は数人いるが、どちらかというと彼女は周囲に流されることなく、自分のペースで過ごしていた。
放課後、琴はいつものように図書室で本を読んでいた。物語の中で様々な冒険を繰り広げる登場人物たちに心を寄せながら、自分もそんなふうに大胆になりたいと感じることもあった。しかし、現実はなかなかそううまくはいかない。
ある日、学校で文化祭の実行委員を決めるための立候補者を募る案内が出された。琴は最初、何も考えずにその通知を無視しようとした。しかし、同じクラスの明るいクラスメート、佐藤由香が「琴も一緒にやろうよ!」と声をかけてきた。
「え?でも私は…」
「大丈夫だって!琴は本が得意だから、実行委員としてもきっと役立つよ!」
由香の笑顔に背中を押され、琴はなんとなく手を挙げることに決めた。初めての挑戦に、少しの不安とともに期待も感じていた。
文化祭の準備が始まると、琴は他の実行委員たちと顔を合わせることが多くなった。みんな最初は知らない顔ばかりだったが、少しずつ関わりが深まっていく。
特に、佐藤由香の親友である山本大樹が印象に残った。大樹は明るく、誰とでもすぐに打ち解けるタイプで、どこか頼りがいのある存在だった。最初、琴は彼の大雑把な性格に少し戸惑ったが、彼が問題をすぐに解決し、周りを引っ張る姿を見ているうちに、だんだんと彼を信頼するようになった。
ある日、文化祭の準備が忙しくなり、みんなで夜遅くまで作業をしていた。疲れ切った琴が一息ついていると、大樹が隣に座ってきた。
「琴、どうしたんだ?なんだか元気ないみたいだな」
「うーん、ちょっと…うまくみんなと協力できてるのか心配で」
大樹は少し考え込むと、優しく言った。
「みんな最初はそんなもんだよ。でも、少しずつ協力し合って、やり遂げることが大事なんだ。琴がいるから、みんな頼りにしてるよ」
その言葉に、琴は少しだけ心が軽くなった。大樹は何気ない言葉で、琴に自信を与えてくれる存在になっていた。
文化祭当日。琴は実行委員としての役割を全うしようと、朝から緊張していた。会場は活気にあふれ、どこもかしこも準備が整い、いよいよ始まるという瞬間だった。
琴は、展示物の手伝いや案内係をしながら、次第に自分の役割を楽しんでいることに気づいた。周りの学生たちが笑顔で楽しんでいる姿を見て、琴も自然と笑顔になった。
そして、午後のプログラムが進んでいく中で、琴はふと自分がずっと夢見ていた「物語の登場人物」のように感じた。最初は不安だった自分が、今では一歩踏み出して多くの人と協力し合っている。そのことが琴にとって大きな成長であり、喜びだった。
文化祭が無事に終了し、みんなで打ち上げを開くことになった。みんなの笑顔が満ちているその場で、琴は大樹に話しかけた。
「ありがとう、大樹。あなたのおかげで、頑張れたよ」
大樹は照れくさそうに笑った。
「いや、琴が頑張ったからだよ。最初は不安そうだったけど、すごく頼りになったよ」
その言葉に、琴は照れ隠しに笑うと、心の中で自分に誓った。これからももっと成長して、どんな困難にも立ち向かっていこうと。
文化祭が終わった後、琴の心には新たな希望が芽生えていた。これまで自分の殻に閉じこもっていたけれど、これからはもっと多くの経験を積んで、自分自身を広げていきたい。
そして、高校生活の残りの時間も、きっとたくさんの発見が待っているだろう。その一歩一歩を大切にしながら、琴は自分の未来に向かって進んでいくのだった。
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