呼び方の違い

「あー、急がないと・・・」


 窓から射す日の光。太陽は既に高い位置を過ぎていた。

 昨日は昼間に寝てしまったせいで朝方まで寝付けず、アーシェラが目を覚ましたのは昼過ぎだった。

 今日は朝早く起きてアヤセを探し、それとなく会話する機会を窺うという計画だったが大幅に出遅れた。


 今は普段着ているような服ではなく、魔法学校のブレザーを着ている。学校区内で行動する場合は、こうやって変装する方がが目立たないからだ。それに、アーシェラはこの制服見た目を気に入っていた。

 髪を整え、服を着替えている間にも時間は経過していく。既に午後の授業時間も終わっている時間だろう。アヤセが帰宅してしまっている可能性もあった。


 着替え終わって「城」までの通路を進んでいると、腹の虫が鳴った。

 

 (うう、空腹に耐えられそうにない・・・。アヤセを探すのは今日は諦めた方がいいかな・・・)


 それでも、どこかで彼女に会えるのではないか、と期待を捨てられそうにはないが。


 連絡通路を渡って廊下を進み、学食の入口へ入る。入り口側の壁際が主菜や副菜などの食事系、逆サイドに甘味や飲み物などを提供する窓口が並んでいる。混んでいる昼間であれば食券を使う必要があるが、この時間であれば現金での支払いが可能だった。


 放課後の時間帯である現在は食事系の窓口は閉じており、洗い物の音だけを響かせている。アーシェラは甘いもので空腹を満たす他なかった。自分は仕方なく、甘いものを大量に接種するのだと言い聞かせる。

 ケーキ、クッキー、ビスケット、シュークリーム、そして渋めの紅茶。過剰な甘味であるが、背に腹は代えられない。急いで食べてアヤセを探さなければ。いや、ケーキだけ食べてあとは食べながら探すのがいいかもしれない。


 (ボクは決して、栄養を疎かにして甘いものを大量にを摂取することに喜びを感じてはいない・・・。今は・・・目的を達成するためには、これが最も効率がいい選択の筈だ)


 今の食堂には甘ったるい香りが充満している。席に座っている全員が女生徒で、男子生徒の姿は見当たらない。この時間は女生徒の占有空間となるのが、暗黙のルールになっていた。そのせいで甘味菓子だけが立ち並び、余計に男子生徒は遠ざかってしまったのだ。

 甘味菓子を好む男子生徒も少なくはないが、空間的に居づらいようで冒険者通りのカフェに流れていっているのだ。

 入り口の掲示板に書かれたおススメ、定番を見比べる。


 「よし」


 どの甘味菓子を購入するかを十分に吟味して決めると、アーシェラはケーキの販売窓口に向かおうとした。


 「あれ、ユーリっちじゃんー」


 若干間延びした声が聞こえる。今の空腹度であれば油淋鶏も悪くないと思った。いや、アーシェラも言葉の意味は理解していて、音から連想されただけだ。


 (ユーリ、という名前に『っち』を付けて親みを込める呼び方だね・・・)


 声のする方向に目を向ける。アーシェラの見知った横顔が目に入った。昨日の黒い服ではなく学校指定のブレザーを着ているが、その少女を見間違える訳がなかった。


 「アヤセ?」


 アヤセがユーリと呼ばれていた。

 つまり、彼女のファーストネームはユーリという事になる。思わぬところで呆気なく目的を達成してしまったためか、達成感は全く感じなかった。それどころか、少し気分が落ち込むんでいくのがわかる。

 その理由はわからなかった。


 しかし、これは僥倖だ。期せずして名前もわかったし、声をかけるチャンスも巡って来た。甘味の事は置いておいて、彼女に声をかけよう。

 友人と話しているようだが、大丈夫だろう。


 「・・・ユーリ。うん」


 口の中で名前を呼んでみると、何故だかしっくりくる。呼べる。


 『アヤセ』ではなく『ユーリ』と声をかけてやろうと、アーシェラは決めた。

 アーシェラが足を一歩前に出そうとしたとき、ユーリの声が聞こえた。昨日と同じ声だ、実は他人の空似という事もなさそうだと思った。

 何故か足が止まってしまった。


 「ジェシーとプリシラは?」


 昨日アーシェラが初めて会った時と同じように、ユーリは呼び捨て誰かの名前を呼んだ。ただそれだけだったが。

 『アーシェラ様!』と、頭の中でユーリの声が響いた。


 (そうだ、彼女たちは同世代で同じ学生だけど、ボクは115歳で立場も全然違うじゃないか・・・)


 思考はゆっくりとしたものだったが、それとは裏腹に身体は素早く動いていた。身体を翻し、早足に食堂からでていく。自分の意志とは別に、身体が勝手に動いているかのように感じた。

 自分自身はユーリと会話をしたいと思っているのに。

 アーシェラは今の自分の思考、行動に混乱もしていた。


 (あれ、ボクは何をやっているんだ?何がしたいんだ?別に、ユーリに近づいて話しかければいいだけじゃないか。昨日の事、言い方がキツかったと謝って)


 足は止まらない。


 (ところで、キミはユーリって名前だったんだね。今後はユーリって呼んでいいかい?と気安く声をかければいいだけの筈なのに)


 気付いたときにはアーシェラは学校区内から出て、貴族達が利用する区画まで移動していた。城から自分の屋敷との連絡通路となっている石造りの橋まで来ると、冷たい風が頬を撫で、学生服のスカートに入り込んで下腹部から足を冷やしてくる。


 アーシェラは、100年以上の間人間関係を疎かにしてきた。人と接する事はあったが、それは大人として政治や魔法研究に関するものでしかなかった。子供のころも魔法に打ち込みすぎて親しいと言える者は居なかった。

 貴族として、七賢者として、大人として最低限の範囲で人と普通に接することはしてきたため、本人も気付いていない事だった。アーシェラ・メルテ・ワイヤードは自分の感情と向き合って生きてこなかったのだ。

 そのため、今、自分に湧き上がる感情を客観的に理解する事ができなかった。


 ただ、友人と親しく呼び合い、気さくに話をするユーリの姿を見るのが、嫌だった。


◆ ◆ ◆


 今日一日、勉強と労働をこなしたユーリは充実感に満たされていた。

 前の世界ではより長時間働いていたし社会貢献できていたと思うが、この違いはどこから来るのだろう。


 入浴の順番は毎日入れ替え制となっており、今日はユーリが最後である。そのため湯船は既にぬるくなっており、浸からずに身体を拭くだけにした。


 (うーん、女将さんもフランさんも、シャンプーとかトリートメントとかは使ってないんだよなあ)


 トリートメントはともかく、シャンプーは使いたいとユーリは思っていた。売ってはいるようだが、そこまで気に掛ける平民は少ないようだった。『ユーリ、アンタ乙女だねえ!』と女将のテーティスは笑っていたが。

 今の手持ちではあまり余裕がないが、貯金が貯まったら買いにいこうと思う。


 しかしそれよりも先に購入するべきものがあった。下着だ。

 元々着ていた上下は割と良いもののようで長持ちしそうではあったが、毎日同じものを使う訳にはいかない。

 明日も今日もフランから借りていた。正直恥ずかしかったし、申し訳なかった。


 (それに、サイズが合わないんだよな・・・)


 フランの胸囲と尻回りは、ユーリと比べて二回り程度は大きい。

 幸い腰回りは同じくらいのため、履くことはできた。しかし隙間が多く感覚的にはトランクスを履いているような感じで落ち着かない。男だった時はトランクス派だったが、今考えると何故気にならなかったのだろうかと不思議に思った。

 胸の方は調整可能なものを借りているため、最低限の付け心地はあったがどうにもポジションが安定せず、身体を動かす度にズレて気になってしまっていた。

 やはり、どちらも非常に大きなストレスと感じる。


 (毎日、これと向き合っていかないといけないのか) 


 女性の大変さを理解したユーリは女性への尊敬の念が、また一段階あがった。


 テーティスからの好意で渡されたブカブカの寝間着に着替える。亡くなった旦那さんのもので、他に無くて申し訳ないと謝られた。申し訳ないと思うのはユーリの方もだったが。寝間着も早く買わなければいけない。


 金の大切さを改めて思う。足りなくなって初めて感じるものだ。会社に就職して一年目の頃、金に余裕の無かった時を思い出した。その後、いつの間に忘れてしまったのだろう。

 携帯ゲームに課金もしたし、使いもしない物をたくさん買った記憶がある。楽しい思いを得たものもあるが、後悔したものも多い。

 裕福ではあったが、充実感は今と比べてどうだろうか。


 そんな事に頭を巡らせながら脱衣所から廊下にでると、フランが階段を登って来た。何故か眼鏡をかけている。


 「あれ、フランさんって目が悪いんですか?」

 「うん。普段は矯正レンズをつけているんだけど、寝る前は外して寝ないといけないから」


 話の流れから、矯正レンズというのはコンタクトレンズのようなものだろう。この世界の技術水準は思ったよりも高い事を理解してきたため、ユーリはあまり驚かないようになってきていた。魔法という存在もあるのだ。多少名前は成り立ちは違っても、似たような物が発明されているのは当然だと言える。

 逆に、この世界に無くて現代にしかないものは何なのだろうか。


 (そういえば、飛行機みたいなものは見たことないな・・・)


 港町のため空を飛んでいるカモメは見かけるが、他に空を飛ぶようなものは見かけなかった。飛空艇といったファンタジーな乗り物は無いのだろうか。


 (あ、アーシェラ様も飛んでたけど)


 「あの・・・ユーリちゃん?」

 「あ、ごめんなさい。ぼーっとしちゃって」

 「それは仕方ないよ。疲れちゃってるんだと思うし」


 確かにそうだろう。環境の変化にもまだ慣れない。文字の勉強をしなければと思っていたが、まだ手を付けられていなかった。今日も早く寝よう。


 「あ、そうだ。ユーリちゃんはわたしの事をフランさんって呼んでくれるけど、もっと親しい感じで呼んで貰えると嬉しいんだけど・・・ダメかな?」


 さん付けをしないで欲しいという事だった。

 

 「私の方が年下だけど、いいの?」

 「どうして?そんな事、気にしないよ」


 ユーリの質問に、フランは不思議そうに首を傾げた。世間に年功序列というもの文化がないのか、フランの性格なのかは分からなかったが。一緒に暮らす年の近い者同士では気を使わない方がいいだろう。

 フラン。と口の中で転がしてみても、特に違和感はなかった。


 「わかった。じゃあ、改めてよろしくね。フラン」

 「あ、えっとそうじゃなくて」


 (えっ、違うのか?)


 想像が甘かったか。異世界の文化、女性文化をまだユーリは理解しきれていないのだろう。


 「じゃあ、なんて呼べばいいかな?」


 郷に入っては郷に従え。ミッチ達のようなギャルであれば、『っち』などといったあだ名で呼び合うようだし、前の世界でも同じ文化がある。ユーリは昔、油淋鶏とかユリちゃんといったあだ名をつけられた事を思い出した。子どもの頃は不快に思った事もあるが、高校を卒業したあたりで気にならなくなっていた。

 油淋鶏は美味い。


 「えっとね」


 突然、フランがバッと両腕を広げた構えをとった。腰は落としていないが相撲にも見えるし、何故か不思議と寿司を連想させるポーズ。そういえば、ラケシスとフランがハグをしていた事を思い出す。


 「おねえちゃん、って呼んで!」


 (何で!?)


 つまり、このポーズはユーリにハグを求めているのだろう。その大きな胸に飛び込んでこいと。断りづらい空気。

 そうして欲しい理由はわからない。その行動にあまり理由もなさそうに思える。

 それよりも、女性の身体に触れるのはやはりまだ気が引ける。


 「と、時々、でもいいかな?」

 「うん、もちろん!」


 フランは目を輝かせながら、さあ!と言わんばかりに手を動かしている。

 少し待てばハグのポーズを解除するかと思い待ってみたが、フランの目の輝きも手の動きから伝わる情熱も保たれたままだった。


 「・・・お、おねえちゃん」


 ユーリが諦めて軽くフランに抱き着くと石鹸の臭いが感じられた。直後、フランがぎゅっと力を込めてユーリを抱きしめる。

 柔らかさを感じるよりも、少しの気恥ずかしさと温かさを感じた。が、想定していたドキドキ感や興奮は感じられなかった。


 (うーん・・・身体が女になってるせいなのかな?)


 そうなると、男性の身体にドキドキしたり興奮したりするようになってしまっているのだろうか。それは何となく嫌だ。


 (おねえちゃんか・・・)


 綾瀬悠里には少し年の離れた姉が一人いたが、姉が大学に入学してから一度も会っていなかった。おねえちゃんと呼んだ記憶もない。


 年上の記憶を探ると、最初にアーシェラの顔が浮かんだ。

 彼女はアーシェラと呼ぶように言ってきたことから、その名前を気に入っているのは間違いないだろう。だが、どのように呼ばれたいと思っているのだろう?それとも、呼び方はなど気にしないだろうか。


 まだアーシェラの事はよく知らない。だから、ユーリには判断が付かなかった。

 もっと相手の事を知らなければ。


 (明日、実技研修の指導をお願いできるか聞いてみようかな・・・)


 七賢者と呼ばれる上位貴族に指導をお願いできるものなのかわからないが、ケント教諭に確認してみてもいいはずだ。

 ――そうだ、女将さんにも相談してみよう。

 そこで思いだした。

 「あそこのマカレルサンドは絶品でね――」

 アーシェラにサバサンドを手土産に持っていけば、胸襟を開いてくれるかも知れない。買収作戦だ。


 フランに抱きしめられたまま、ユーリはアーシェラ攻略の作戦を組み立てた。

 やわらかくて、いい匂いがした。

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