身体
狭い執務室、先ほどの眼鏡の男性が書類に書き込んでいる。各書類に自身のサインをしているようだった。入学手続きも教員の業務のうちのようだ。
男性の名前はケント・ロックハート、魔法学校の教員ということだった。
入学手続きは簡単なものだった。事前に銀貨3枚、3ヶ月分の学費を先払い、カリキュラムの選択、いくつかの簡単な質問に受け答えをした。質問内容は志望動機や卒業後の要望などだけで、出身地などについては特に触れられなかった。
それについて質問したところ、提示が可能な場合は後日提出すれば良いとのことだった。孤児や家出、コミュニティから追放された若者に対して、この段階では深入りをしない方針らしい。
この世界では出身地が答えられないユーリとしては助かったのだが、この世界でも現実世界と同じような問題があり、それが完全に解決しているものではない事実に目を伏せるしかなかった。
カリキュラムとしては魔法中心の座学に剣と魔法の実技を選択した。魔法の種類は入学の段階では特に選ぶものではないようで、アーシェラに魔法の素質を確認してもらったことを話したが簡単な反応しか返ってこなかった。
魔法都市の言語や文字についても選択できるようだったが、辞書を借りて自己学習することができるということだったので、貴重な学校の時間は魔法に全て振り切ったのだ。
だが、手続きが始まる前にしたユーリの質問によって予定外の時間が経過してしまい、入学手続きの途中から非常に困った状況になっていた。
ユーリのした質問。それは目の前にいる教師、ケント・ロックハート教諭と先ほど一緒にいた目つきの鋭い男性であるウィリアム・D・ロックハート卿についてだった。ロックハート卿はケントの同郷で後見人のようなものらしい。
ロックハート卿は20年前に先代のロックハート卿の養子として迎え入れられ、その直後から奴隷制度の問題点や冒険者やならず者の対応に切り込み、改善を続けてきた。教育関連の機関を担う七賢者と治安維持を担う七賢者との連携の結果、魔法都市モーリアスとその周辺の治安は大きく改善された。
今、ユーリがこうやって何の障害もなく魔法学校への入学を進められているのも、ロックハート卿の功績という訳だ。
ケントを貴族として迎え入れ、ロックハート姓を名乗る事よう進言したのも彼自身だという。
ユーリの想像通り、貴族はファミリーネームを持つようで、例えばアーシェラ・メルテ・ワイヤードの場合はメルテがファミリーネームでワイヤードは爵位となる。最初にサインした書類では、ミドルネームにメルテ、ワイヤードをファミリネームに書くようにになってしまうが、爵位を持つ人物が生徒として魔法学校に入学することはありえないため問題はない。
ミドルネームとなっている理由は、他国からの亡命者に対応するためということだった。
そうした話に対して、ユーリは次々と質問をしてしまい時間を食いつぶしてしまったのだった。
会社でも矢継早の質問を鬱陶しがられる事が多く最近は気を付けていたのだが、学生という立場を自覚したせいか抑えを効かせる事ができなかった。
ちなみに、魔法都市モーリアスは魔法国家モーリアスの首都であり、その政治は七賢者と元老院によって行われている。元老院は辺境貴族や一部の富豪商人から成り立っているとのことだったが、ユーリにはそのあたりにはあまり興味がなかった。
興味があったのは七賢人を自称したアーシェラもまた、政治を行う立場であるということだ。少女であるアーシェラが七賢人、そしてワイヤード卿と呼ばれている理由はよくわからなかったが、ケントに聞くの事は気後れがした。
(それにしても・・・早くトイレにいきたい)
非常に困った事というのはそれだ。幸いにも小さいほうなので我慢ができているが、それでも早くトイレに駆け込みたかった。この世界のトイレが現実世界と違う可能性もある。それに、この身体で初めての行為なので余裕をもって行動したいとも思った。
もじもじと身体をゆらしていると、ケント教諭の手が止まる。
「はい。これで、手続き完了ですよ」
「あっ、ありがとうございます」
「入口近くまで、送りますね」
「あ、いえ・・・大丈夫です」
「どうしてですか?この建物は少し複雑ですし、迷ってしまうかもしれません。ギリギリになりそうですが、時間はまだありますし」
見た目通り心優しいケント教諭の気遣いだったが、困る。正直に言ってしまう方がいいだろう。
「お、お手洗いにいきたくて・・・」
「あっ、すみません。失礼しました」
わかってくれたようだ。
「それでは、近くのトイレまで案内しますね」
ケントは言いながら席を立ち、部屋の外へ出ていく。
そういう意味ではなかったのだが、ユーリもトイレの場所が訳ではないので後ろに続いた。
「ここです。職員の個人執務棟なので、少し形式が古いのですが」
「ありがとうございました!もう大丈夫なので、先生は先に戻ってください!」
言ってユーリは女子トイレに駆け込み、小便器を探した。思わず探してしまった。
(そうだああ・・・!俺は・・・)
女性の身体になったのだという事実と、女子トイレに入ってしまったという現実が容赦なくユーリの心にダメージを与えた。覚悟したつもりではあったが、実際に経験するというのは全くレベルが異なる。
扉の空いた個室を見やると、和式に近い形の便器が鎮座していた。形式が古い、というのはこういうことか。
諦めて肩を落としながら個室に入り、腰のスカートに手をかけたところで固まった。
(どうやってすればいいんだ?)
スカートと下着をずらして座り込むのは想像できる。しかし、具体的にどうのようにしてするものなのか?ユーリは脳内の記憶を総動員したが、答えは得られなかった。
昔、女性そういったの行為を性癖に持つ友人がいた。特殊なものであると思ったし、正直少し引いた記憶があるが、今は彼の話をよく聞き学んでおけばよかったという謎の後悔が押し寄せた。
立って便器を跨いだまま、一分以上は固まっていただろう。ユーリは覚悟を決めた。
確実な方法が一つだけある。子どもの頃、2歳だか3歳くらいの頃、そうしていたようにすればいいのだ。
(誰かが見ているわけでもない!)
そしてユーリは意を決してスカートをまくり上げ、スカートのウェスト部分と同時に下着に手をかけたのだった。
□ □ □
「はあ・・・」
手を洗いながら、ユーリはため息をついた。
トイレ内の洗面台は現代の洗面台と同じような形式で、小学校のトイレを思い出させようとしてきた。
「はあ・・・」
思い出を懐かしむより前に、現実の波が押し寄せて再びため息が漏れる。
用を足すのを失敗した訳では無いし、汚してしまったようなこともない。ただトイレに入った瞬間よりも更に、自分の身体が女性になった事を実感しただけだった。自身の身体に興奮もしなかった。
ただ、ユーリは強い喪失感を感じた。男性から女性の身体へ変わってしまったという実感は、体の大きさや筋力の低下を想像させ、否応なく身体的に『弱くなった』事を突き付けてきた。
美少女になりたいと思ったのは間違いないが、弱くなりたいと思ったわけではない。しかし、それは自分の想像力不足ではないか。と、考えても意味のない事が取り留めなく思い浮かんで消える。
気持ちを切り替えられずトイレから出ると、少し離れた場所でケントとアーシェラが立ち話をしていた。
自分がトイレで悪戦苦闘している間もケントが待っていた事実に羞恥心を覚えたが、それよりも。
(なんでアーシェラ様がここに?)
疑問に思いつつも、ユーリは少し嬉しくなって駆けよる。同時に彼女を好意的に思っている事を自覚した。
彼女は魔法使いであり、美少女なのだから。そして出会ってからの態度を考えると、アーシェラもユーリを好意的に思ってくれているのは間違いないと思う。
そう考えると、先ほどまで女性の身体になった事の喪失感とは逆の感情が湧いてくる。
「アーシェラ様!どうされたんですか?」
「・・・」
何故かアーシェラは答えず、代わりにケントが答える。
「アヤセ君、アーシェラ様は貴女を心配されているようで・・・」
「心配?」
疑問を返したユーリに対して、アーシェラは顔を歪めてからため息をついた。
「アヤセ・・・キミは、危機感ってものが無いのかい?仮にもうら若き乙女だろう。初対面の男に、こんな人気のない場所に連れ込まれて。何もなかったからいいものの、何かされたらどうするつもりだったんだい?」
「は?」
アーシェラは何を言っているのだろう。確かにこの棟に入ってから他の人の気配は殆どなく静かなものだが、だからといって何の問題があるというのか。
「は?じゃないよ。キミは女の子で、ケント教諭は男だろう」
「いや、待ってください。ケント先生は、先生ですし・・・」
と反論したところで、ユーリは現実世界の事を思い出す。そういった事件は、日々嫌なほど起こっている。公にならないものも多数あるだろう。
「先生だから何だい?キミは彼の何を知っているって言うんだい。それにねーー」
自分が大丈夫だと思っていたのは、自分が襲われるというような発想がなかったからだ。男であったときにそのような危険はなかったし、万が一あったとしても自分が男性であれば抵抗することも容易だと思っていた。
だが女性の身体で、男性に純粋な力で対抗する事は難しい。例外はあるにしても、基本的には雌よりも雄の方が腕力が強いのは確定的な事実だ。
つい今しがた自分の身体が女性のものである事実を実感したせいか、ユーリは身体が強張るのを感じた。これが、女性が普段から感じている感覚なのだろうか。
「ねえ、聞いているのかい?」
「あっ、ごめんなさい・・・」
「まあ、彼女を責めないであげてください。悪いのは私なんですし」
気圧されていたケント教諭が割り込んでくる。
「その通りだよ。ただでさえ女子生徒の定着率は男子生徒と比べて低いんだ、キミも気を付けて貰わないと」
とアーシェラは矛先を変えた。それにしても、そこまで言うほどの事だろうか?とも思う。
(いや、それは男の理屈なのかもしれない)
本当によくわからない。
アーシェラの態度も先ほどより大分硬いのもわからない。お茶目で明るい少女だと思ったのだが、先ほどの態度はアーシェラを貴族と知らないユーリをからかっていただけなのだろうか。
だとすれば、友好的に思っているのは自分だけという事か。
「まあいいよ。ケント君も朝礼だろう。引き留めて悪かったね」
アーシェラはケントに謝罪をすることもなく、上から目線だった。それが少し感に触った。
それが男の目線である自覚はある。だが、実際に何なかった状況でここまで言われるのは腹が立った。アーシェラが女であるユーリを心配をしてくれたことは嬉しかったが、同時に心は男である自分が責められたようにも感じられた。同時に発生した二つの感情を制御できず、直前まで感じていたアーシェラへの親近感はどこかへ行っていた。
「アヤセ、君はもうどこで働くか決めたのかい?」
「いえ・・・」
「それなら、港近くの『渡り鳥』って酒場がおススメだよ。あそこのマカレルサンドは絶品でね。昔、一人娘がここに通っていた時に分けてもらったんだけど、その味が忘れられないくらいさ。ああ、今は女将をやっているのかな?」
言い方は淡々としているが、どことなく上機嫌に聞こえる。そのマカレルサンドがそれほど美味しいのだろうか、芝居のかかったような大げさな身振り手振りをしている。
だが、あまり興味はそそられなかった。
「よかったら、ボクが紹介してあげようか」
「いえ、お気遣いは大丈夫です。もう働く場所は決めているので」
今朝飲んだ、暖かい豆のスープの味を思い出す。働かせて貰えるかどうかはわからなかったが、どうしてもあそこで働きたいと思っていた。
「・・・そっか。なら、よかった」
その後、会話は続かなかった。
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