ヰンタァレイン

憑弥山イタク

ヰンタァレイン

 もう冬だと云うのに、黒い雲が落とすのは雫ばかり。こんなにも寒いのに、雨粒は雪になれないでいる。この雨は私の心を代弁しているのか、或いは、私の心を揶揄しているのか。いずれにせよ、傘を打つ雨音に私は苛立ち、思わず溜息を漏らしてしまう。

 苛立つ。何故こんなにも苛立つのか。とうに答えは見えている。

 雪になりきれないただの雨粒が、素直になりきれない私自身に思えてしまい、酷く腹立たしく、苛立ってしまうのだ。

 家柄なのは仕方が無い。身分が違うのは仕方が無い。とは言え、人を愛する心を誤魔化し、抱く愛そのものを曖昧にするのは、仕方が無いことなのだろうか。

 畳を食う程の貧困ではない。とは言え、馬を買えるほど裕福でもない。平々凡々の1片たる私には、外つ国へ留学する彼には似合わない。そんなことは分かっているが、彼と結ばれてしまいたいと、心の底から思ってしまった。

 誰よりも背が高く、誰よりも博学で、端正で、柔和で、とても魅力的な彼は、明日の朝早くに、外つ国へ向かう。名前は覚えていない。向かう国の名前など興味は無い。寧ろ、私の町から彼を奪うような国は、私にとっては敵国そのもの。覚える価値など微塵も無い。

 私が覚えておくべきは、彼の姿。彼の声。彼の言葉。彼の匂い。彼の、体温。

 交合うつもりは毛頭無いと、私の本心をひた隠す。ただその代わりに、手を握りたい。彼の手の温かさを、手の大きさを、私の脳に刻みたい。あわよくば抱擁され、全身で彼の熱を感じたい。

 ただ唯一の気掛かりは、彼が、後々日本軍に入隊することである。留学で外つ国の語学を学び、来たる可能性のある戦争に備える。入隊次第、彼はきっと、軍の中でも優秀な人間として扱われるだろう。ともなれば、私が原因で彼の純潔を穢すわけにはいかない。

 清い体であれ。童貞であれ。過去の戦争で旗手を務めた同郷の兵隊さんが、帰郷した際に話してくれた。留学を終えた彼が旗手を務めるかは分からないが、それでも、童貞であることがその人の清さと誠実さを表すならば、私などが、彼の体と名誉を穢すわけにはいかないのだ。


千代ちよちゃん」

「はい」

「俺ぁ外つ国に行って、いつかは軍に入る。もう千代ちゃんに会えることも無くなるかもしれん」


 2人だけの、秘密の待ち合わせ場所。草臥れた神社の裏にある、今は使われていない物置小屋。私と彼は、最後に、いつもの物置小屋で顔を合わせた。

 身分の違いも知らない頃。2人でよく、ここへ訪れた。別れの日が来るとも知らずに、寂しくなる日が来るとも知らずに、幾度も、幾度もここへ来た。

 そして今日。きっと、最後の顔合わせ。いつもは笑顔で顔を合わせるけれども、今日だけは、私も、彼も、顔を引き攣らせるだけ。


「千代ちゃん、俺ぁ……千代ちゃんのこと、友達やなくて、ずっと……1人の女の子として見よった。ずっと……千代ちゃんのことしか考えられんかった。けど、俺ぁ勇気の無い男やから、今日まで結局言えずじまいやった」

「……何を言よんで。勇気の無い男は留学なんて決めんよ」

「留学も入隊も、親父が決めたことやから……」

「けど、もう準備は終わらせたやろ?」


 いつもは、物置小屋の壁に背を凭れる私だが、今だけは、壁には凭れなかった。


武雄たけおくんは何でも出来る優秀な人やから。私なんかよりも、もっと相応しい人がるはずよ?」

「……俺ぁ、千代ちゃんが好きなんよ。他の女子なんて、俺にとっちゃ団栗の背比べや」


 本当ならば、駆け落ちしてでも、彼と共に居たい。外つ国になんて行かせたくない。死ぬまで一緒に居たい。

 けれども、私が一緒に居れば、きっと彼の人生に花は咲かない。彼に幸せな人生を送ってほしいから、私は……。


「なら、私のこと忘れんといて。何処に行っても、私のことを覚えといて。そしていつか、ここに帰って来た時に、今と変わらず私のことが好きやったら、手ぇ引っ張ってでも私をさらって。その頃には、私も他の人に貰われてるかもしれんけど」


 彼の方を見て、少し意地悪に笑ってみる。すると彼は、私の言葉に腹を立てたのか、私の両肩を掴み、接吻をした。互いに不慣れであるから、唇を当てるよりも、口を当てるような感覚で、前歯から僅かに痛みが伝わってきた。

 接吻なんてしたのは初めてで、私は思わず肩を震わせた。けれども彼の手が私の肩を押さえて、震える肩を止めた。

 10秒にも満たない時間だったが、彼と唇を重ねる時間は、空前絶後にして唯一無二の極楽だった。

 唇を離すと、彼は真っ赤な顔だった。きっと、私の顔はもっと赤かったのだろう。何せ、こんなにも顔が熱くなったのは初めてだった。


「外つ国では、接吻はキスって云うらしい……他のどんな男が千代ちゃんを娶っても、千代ちゃんがキスしたんは俺や!」

「……無理矢理、接吻するなんて……最低や! 馬鹿! 童貞!」


 私は思わず、傘を捨ててその場から逃げた。

 本当は嬉しい。本当はもっと接吻がしたい。もっと、夫婦のような関係になりたい。しかし、あれ以上あの場に居れば、きっと私は、彼を穢してしまう。喧嘩別れになってでも、私は、彼の純潔を守らなければならないのだ。

 …………そんな建前の所為で、私は結局、彼の妻にはなれない。

 素直になりきれない私を嘲笑うかのように、雲は雪になれない雨を落とす。けれども雨は私の頬を濡らし、瞼から零れる涙を隠した。

 雪になりきれずとも、冬の雨は、酷く冷たかった。

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