虚構のシスイ ~異世界に不法投棄されたおじさんは最果てに名を刻む~
yagi
第一の街 理想末端都市 ダアクック
第一幕 灰色の森と緑の大海
01 僕が見ていた世界のレンズ(上)
シスイ。
ボクの名前だ。
訳あって異世界に不法投棄された、普通の冴えないサラリーマンである。特技や趣味もこれといってない、普通のおじさんである。
いや、特技、趣味は置いておくとしても、経歴は普通じゃないかもしれない。
異世界だの、不法投棄だの、そんな経験がある人間はそういないだろうから。
これは「普通であってほしい」「そう見えていて欲しい」という、ボクのささやかな願望に過ぎないのかもしれない。
普通とは、個人の主観というレンズを通して見た、社会の有様を指す言葉。
さも社会の平均値を図り、絶対的な統計、社会の総意のように皆口にするが、それはどこまで行っても主観が介入した中心点でしかない。
レンズは人によってぼやけていたり、歪んでいたり、鮮明だったり、欠けていたりする。類似点が多いだけで、同じものを見ているとも限らない。
だから誤差が生じてしまうのは、仕方のないことである。
あわよくば、ボクのレンズが皆と同じ風景を映していることを願うばかりだ。
しかし、何故こんなことを語るのか。
あまりにも脈絡がないではないか。
そう思うかもしれないが、これには理由がある。
というのも……。
ブボオオオオオオーーーーーーン!
巨大な猪に追われているからである。
「なんで、こんな、目に遭ってるんだよ、畜生!」
唾を吐き散らしながら叫ぶ。
先程までのは、全て独白だ。
疲れを紛らわせるための、気休めのようなもの。
脈絡がないのは、気を紛らわせるのにそちらの方が効果的だと、個人的に思ったからである。
ここは植物が生い茂る鬱蒼とした山の中。
山の急勾配な坂を、ボクはただひたすらに駆ける。
足はもうガクガク。これが疲れから来るものなのか、恐怖から来るものなのかは定かではない。
できることなら、このまま腰を下ろして休んでしまいたい。冷たい水でも飲みながら。そんな気持ちを我慢して駆ける。
命を懸けて駆ける。
「おっさん、叫んでないで足動かした方がいいぜ!」
軽い調子で隣から話しかけてくる狼男。獣人のフェリー。
今は成人男性ほどの身長をしているが、フェンリルという巨大な狼が彼の正体である。現在、それを隠しているのだ。
「ハァ、ハァ……お前はいいよな。転生って奴をして、狼なんだからっ!」
「そうは言うが、結構大変なんだぜ? なんてったって人の頃の習慣ってのが抜けないからな。この姿になって一〇〇年くらい経つが、まだ名残が残ってる。身に染みたものっていうのは、中々消えないらしいってことを、ここ最近実感するよ」
「さらっと一〇〇年なんていう奴の最近って奴は、一体何年なんだろうな?」
さらに付け加えると彼の中身……、つまり魂は現代人であり、高校生である。
異世界転生というものらしい。
異世界という場において、貴重な同郷の友人だ。
「シスイ、水」
「いや、今はいらない。余裕ない、全然」
ボクの左隣りを並走する少女シルワアは、ボクを気を遣ってか、水筒を差し出してくれる。けれど生憎、ボクには水を飲むほどの余裕もない。
彼女はエルフである。
尖った耳。翡翠の髪。整った顔。幼さはあるが人形のようだ。
彼女は常に無表情。それが人形という印象を強めている。
口調はカタコト。言葉を聞いたり、理解することはできるけれど、発声が慣れていないらしい。
そして彼女は狩人でもある。
ボク等が必死になって(必死になっているのはボクだけだが)走っているのも「この猪を狩りたい」という彼女の提案から来るものだ。
「シスイ、見えた。罠」
慣れない発音ながら、シルワアは死にかけのボクに、ゴールを指差す。
見えて来たのは足元の辺りにある、ピンと張ったロープ。両側の木に括り付けた簡単な罠。
まるでマラソンのゴールテープに見えるが、疲れた足に鞭を打って飛び越えなければならない、障害物の類である。
迫る猪。
近づく罠。
足に力を込めて、タイミングを見計らい。
「せーの!」
というボクの掛け声と共に、皆一斉に跳ぶ。
そして……。
「ぎゃふん!」
……フェリーを除いて、ロープを飛び越えた。
彼だけ罠につまづき、取り残されている。
フェンリルとは賢く気高い動物だと本人の口から聞いたが、それにしてはあまりにも間抜けな絵面である。
「獣用の罠だから仕方ないのかもしれないけれど、そういうボケは時と場所を考えて欲しいぞ、フェリー!」
「馬鹿野郎、オレは獣じゃなくて人間だ。おっさんが『せーの』なんて言うからオレの中のタイミングとズレただけだ! おっさんのせいだぞ!」
「いや、その、並走してたから『みんなで手を繋いでゴール』みたいな雰囲気かなあって。悪かったよ、ほらさっさと立つ!」
「いいよ、自分で立つからっ!」
罠に引っかかったフェリーの腕を掴んで引っ張り起こすが、その間に猪は目と鼻の先に迫って来ていた。
「まずい」「ヤバい」
急いで逃げようと走り出すが、相手は猪。
二足の猿と犬に比べたら、四足の方が断然速いのだ。
転んだ僅かな時間で頭突かれる距離に迫る。
そのボク等との差、僅か数秒、数十センチ。
後ろから「はあ……」とため息が聞こえた。シルワアは背中の弓を呼吸するように取り、瞬きをするように矢を構え、琴を鳴らすように射る。
弓の達人というのは矢を離した瞬間、それが的に当たることが分かるという。
予定ではなく決定事項であると、彼女は以前言った。
そんな彼女から放たれた矢が、猪の右目を見事に射抜くのは、この場において定めのようなものだったのだろう。
ピギャアアアアアアア!
悲鳴を上げる猪。
当然だ。砂でも目が痛くて手で覆うというのに、弓矢飛んで来たら悲鳴の一つや二つじゃ収まらない。
片目に激痛を覚える猪が足元を注意できるはずもなく、ロープに足が引っ掛かり、走って来た勢いのまま巨体を地面に叩きつける。
猪は丁度フェリーの隣に倒れた。
シルワアが射ってくれなかったら、ボク等の方へ倒れてきて、押し潰されていたかもしれない。シルワアの瞬時かつ、正確な判断に脱帽である。
「シスイ、トドメ」
「よし、いけ。フェリー」
「あらほらさっさ! ……ってオレなのかよ。まあいいけど」
渋々といった様子で転んだ猪に飛びつくと、狼の大きな口で喉笛を噛みちぎってトドメを刺した。
……
………
……………
狩りが終わった後、ボク達は猪の死体がある場所をキャンプ地にし、休憩することにした。
走り疲れて、腰を下ろす。
体が昔より動かなくなって来たのを痛感する。若い内にもう少し運動をすれば良かった。
……なんて思いながら、他二人の様子を眺める。
シルワアはせっせと猪を捌いていた。大きい猪を捌くのは、結構疲れそうなものだが、そんな素振りは全くない。
疲れを知らないというのは若さの特権である。
フェリーの方を見ると、手に付いた血をペロペロ舐めていた。
「行儀が悪いぞ」
そう言うと、彼は面倒臭そうにこちらを見た。
「じゃあ、おっさんのマント貸してくれよ。ハンカチにするから」
「手を洗い終わったら服で拭くタイプか、お前。駄目だ、服が汚れるから」
「悪いかよ。ケチだな、減るもんじゃないのにさ」
不貞腐れたように返すと、自分の尻尾で血を拭いた。
一応舐めるのはやめるんだな。尻尾で拭くのはどうかと思うが。
彼の素直さと大雑把さがよく出ている。
フェリーからシルワアへと目を移し、彼女の猪の解体ショーを見る。
熟練されたこの手際の良さは、これまで狩った動物の数を想起させる。
口から溢れているよだれは、彼女の食いしん坊ぶりが見て取れる。
「シスイ、肝臓、食べる?」
もしゃもしゃとつまみ食いするシルワアは、レバーを食べやすいサイズに切って差し出してくる。
「いや、流石に生では……」
現代人からすると、感染症を想起させてしまうから遠慮してしまう。
「そう……」
抑揚はないが、凄い残念そうなオーラを放つシルワア。
「いや、やっぱ小腹が空いていたような気がする」
感染症とかそういうリスクよりも、少女のささやかな幸せを守ろうとする気持ちの方が勝った。勝ってしまった、不覚にも。
シルワアの表情……は変わらないが、雰囲気が明るくなった。
彼女は手際良く肝臓を切り分けると、ボクに手渡す。少女から渡された肉は真っ赤で瑞々しく、とても新鮮だった。
「……いただきます」
頼むから腹を壊さないでくれよ。そう願いながら、生レバーを口にする。
「美味しい?」
「うん、血の味がする」
命を頂いていることを実感させてくれる、そんな味だ。
美味しいかどうかと聞かれたら、もう少し血抜きされていた方が好みだ。
けれど今のボクは味なんかより、感染症だったりに当たってしまわないか、ヒヤヒヤしてる。頼むからボクの胃袋を祟ったりしないでくれよ。
フェリーに内緒で二人つまみ食いしていると、フェリーの鼻がスンスンと鳴る。
つまみ食いがバレたのかと思ったが、彼の視線は猪とは逆方向に向く。
その後、シルワアの耳が動いた。
五感が鋭くないので何を察したのかは分からない。
けれど、二人が何かを察知した。それだけは分かる。
だから一番最初に反応したフェリーに尋ねた。
「何かあったのか?」
「ああ、多分お客さんだ。でも動物じゃないな、臭いからして」
「二足歩行。盗賊か密猟者」シルワアが情報を付け足す。
「へえ、この狩りって密猟だったんだ。許可書みたいのが必要なのか?」
「オレ、フェンリルだから許可書要らなーい」
「ボク、知らないし許可書持ってないから危なーい」
「私、許可書ある。シスイ、セーフ」
「「「イエーイ」」」
三人で囲んでハイタッチ。
「で、どうすんだよフェリー。ボク野蛮な感じ無理だよ。初期装備ヒノキ棒だよ。いや別の木の棒かもしれないけど」
「クヌギ、それ」
「ありがと、シルワア」
フェリーは顎を撫でながら言う。
「まだ目視した訳じゃないから断定はできねえよ。もしかしたらギルドの自然調査隊の可能性もあるから」
つまり出たとこ勝負。いや、勝負は嫌だ。戦いにならないことを望むとしよう。
手持ちはヒノキ棒ならぬクヌギ棒。
この木の棒がチャンバラの木刀になるか、団欒を囲う焚き木の薪になるか。この木の棒の運命は、これから現れるであろう人間に委ねられた。
草を掻き分ける音。
低木が揺れる。
やがて音の正体が現れる。
現れたのは顔にでっかい傷がある野郎共だった。
見た目で判断してはいけないというのは重々承知しているのだが、もう完全にオーラが違う。
斧や棍棒という野蛮な武器のオンパレード。
倫理観が欠落してるのを察せる血走った目。
カルチャーショックではなく、ユーアーショックである。
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