第12話 夏休み前最後の日 ①

 きたる、七月二十三日。

 週初めの月曜日でありつつ、夏休みの始まりを告げる終業式でもあるという、ギャップをはらんだ解放感からか、少しばかりはしゃぎすぎているような笑い声が、校舎内のそこかしこで弾けている。

 勢いづいて階段を駆け下りた一年生の男子生徒の肩が、東井に当たった。

 「あ。―ご、ごめんなさい。なんか、変な当たり方しましたか」

「いや、いいのいいの、大丈夫。ちょっとこいつ体調悪くて」

 東井の顔色を見た一年生は、気の毒なほど頭を下げながら去っていった。

 「ごめん、雪本」

「いや、むしろごめん、まさか、本当にここまで体調悪くなると思ってなくて―」

「東井君、大丈夫?」

クラスの女子が追い越しながら声をかけた。東井は何とか意地でうなずく。

 ここで保健室に連れていかれてしまうとまだ早い。

「校長先生の話までは耐えられる?」

「大丈夫。行ける」

東井は血の気のすっかり引いた顔で、しっかりと言い切った。


 水曜日の夜には、泉美から連絡が来ていた。

 石崎に、雪本が話をしたがっていることを伝えると、一も二もなく了承したという。

 雪本の退部の意志は、木曜と金曜の二日間かけて、上級生たちに榊と泉美から伝えられた。比較的物のわかる上級生から、ゆっくりと、まるで個人的な相談でもするように、最終的には、部長へと伝わった。

 今日、雪本の口から正式に理由を説明すれば、退部をする最低限の手続きは済む。問題は、どれだけ良い形で退部できるか―つまり、雪本が最後の最後、どういう陸上部員として辞めていけるかにかかっていた。逆に言えば、あれだけ入り組んでいた問題点がその一点にまで片付いたのだ。

 雪本は、軽いのだか重いのだかわからない足取りで、今日のこの日を迎えた。

 体育館に入ると、すでに大勢の生徒が集まっていた。入り口付近で榊が養護教諭と打ち合わせをしていた。

 「うん、じゃあ、そこの説明は、僕が一緒に説明しちゃおっか。榊君は従来通りのほうが、まとまりとしていいかもしれないね」

「そうですね。すみません、急に」

「いやあ、とんでもない。すぐ足せる内容だし」

 榊がふと顔を上げた。用件がある目つきだった。東井もそう踏んだのか、雪本が榊にだらだらと絡んでも、文句を言わずついてきた。

 「よう、委員長」

「今並んでるやつ大体委員長だけどな」

 発表のある委員長は、数名の教職員と一緒に、十数名ほど舞台の下手側に並んでいた。保健委員は、生徒会の次に並んでいる。生徒会長さえ話し始めてしまえば、保健委員の順番まで五分とかからない。そのタイミングで出ていけば、養護教諭も、保健委員の順番が終わるまでは、その場を離れられないだろう。

 榊が長身をややかがめたかと思うと、そっと声を潜めた。

「先生の話す内容を直前で追加させてもらった。三、四分は余分に時間かけて問題ないから、一応言っておく」

「三、四分―」

 出来るだけ早く話終わらなければならないと踏んで、話す内容をかいつまもうとしていた矢先の、ふってわいた猶予だった。思わず言葉を失っていると、榊は東井に向き直った。

「お前、大丈夫か」

養護教諭もその声に反応した。

「どうしたの、貧血?」

「いえ、大丈夫です……。一応、立ってはいられるんで」

「問題があったら、遠慮せずに保健室使ってね」

温厚な丸顔いっぱいに心配げな表情を浮かべて、養護教諭が言った。空気が流れていくように、状況が整っていく。

「じゃ、そろそろ並ばなきゃ。委員長、発表頑張って」

「頑張るも何も、これが仕事だしな」

 榊が苦笑したのに合わせて、雪本も笑ったが、心中は静かだった。

 東井も、榊も、そして石崎を説得して保健室で待たせてくれている泉美も、雪本がすべきことをきちんとやりきれるように、その整備をしている。感心するより先にすることがある。 

 クラスの後列に並んだ東井は、より一層青ざめながら、しっかりと立っていた。他の生徒は口々に体調を案じる言葉をかけたが、雪本はそれっきり、「大丈夫か」とは聞かなかった。


****


 学校長の話はたいして長引かず五分程度で済んだ。

 「雪本、ごめん、きつい」

 うめくような東井の声に、周囲の人間が最低五人、待ち構えていたというようなそぶりで振り返った。いつ倒れてもおかしくないと思われていたようだった。

「わかった。保健室行こ。――ちょっとごめん、そこどいて」

 雪本が東井とともに列を外れて体育館から出ていくのにも、違和感を抱く人間はいない様子だった。入り口に向かって歩いていく途中で、何を言う前から、養護教諭が「やはり」という顔をしていた。

 「すみません、やっぱりきついみたいです」

「いいよ、大丈夫。ついていかなくて平気?」

「ちょっと、朝食あんまり食べられなかったみたいで。――なんか、軽いもの食べちゃってもいいですか」

「いいよいいよ、ぶっ倒れるよりは」

 話の分かる養護教諭は、無駄に引き止めなかった。体育館を出てすぐ、東井はポケットからカロリーメイトを取り出して貪り食った。

「ありがとう、東井、助かった」

「いや、全然全然。二回目だから慣れてたし。初回は本当、もっとひどかったから」

 東井の声には、常の勢いが戻ってきていた。ハリがよくなったのは構わないが、廊下に響いて体育館まで聞こえそうだった。顔色も、保健室が見えてくるころにはすっかり回復していた。

「お前、今日大変ね」

「えっ?」

素っ頓狂な声を上げると、東井は珍しくやや陰険な細め方をした目で雪本を睨んだ。

「こっから、石崎とお話して、退部しに行って、そんで告白しなきゃいけないんでしょ」

「あー、えっと」

「特に告白とか大変じゃん。めちゃめちゃ大変じゃん。うわー。大変だ大変だ」

「こぼれてるよ東井、こぼれてる、ほら」

「榊だけなんか、先に知ってっし」

「別に、榊にだけ相談してたとかそういうことじゃないし」

 榊に知られたのは、むしろ雪本からすれば、『やらかした』と言えるくらいの出来事だった。一年生の十月、診断書についてだったか、勉強についてだったか、部活動についてだったかの相談をしていた最中に、うっかり、しかし決して直接的ではない程度の失言をしたら、あっという間に勘づかれたというだけのことだ。

 「……頑張ろうって思えたの、その人のおかげで。いろいろ、自分のしたいようにしようって。ちゃんと、本気で、目の前の事を動かそうって」

 リノリウムの床が、やけに上履きに引っかかるような感じがした。きゅっ、という耳になじんだ音が、しっかり聞こえる。『保健室』という文字が、はっきりと見えてきた。

 「俺はでも、今回、普通にうれしいんだよ」

 東井はカロリーメイトの袋を、折り紙を折るように爪で折り目をつけながら言った。

 「雪本、いいやつだと思うけど、ガッツないじゃん」

「おい」

「で、色んな奴のせいで、色んな面倒巻き込まれて――でも、いいやつのまんまだったじゃん。一応。でもどうせガッツないから、何もやり返したり、自分の意地とおしたり、しねえんだろうなあって。だったらせめて、こっちに投げてくれりゃいいのにって。……今回は、割とガンガン投げてるじゃん」

「こういう系のほうが好き?」

「好きっていうか、『だろ?』って感じかな。すっきりした」

 東井は足を止めた。雪本も足を止めたが、東井は、お前が止まってどうする、と言わんばかりに、指で保健室を指した。それくらいどっちでもいいだろうに、と思いながらも、雪本は扉を開いた。


 石崎は、ジャージ姿のままベッドに腰かけて、保健室の救急箱を広げていた。扉の音に気が付いて視線を上げると、すぐ笑った。

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