ねむりひめ

中田もな

第1話

 ああ、君が。「ねむり姫」であれば良かったのにね。

 僕はいつも、考える。君がねむり姫の物語を。


 木の葉の落ちる音がして、僕は目を開ける。寝ぼけた耳に、自然の音が流れてくる。さわさわ、そよそよ。楽しい森の合奏だ。

 

 鬱蒼とした森は、薄い霧に覆われているんだ。息をすると、湿っぽい空気が鼻に入る。でもね、何故か、嫌な感じはしない。生きるって、こう言うことなんだって、思えるはずだよ。


 少し歩くと、牡鹿が草を喰んでいる。風が鹿をくすぐると、鹿はゆっくり顔を上げる。そして、真っ黒に濡れた瞳で、僕のことをじっと見る。


「ねぇ」


 と、僕は言うよ。


「彼女の所に、連れて行って欲しいんだ」


 そうすると、鹿はゆっくりと歩き出す。苔むした土に、蹄のあとがギュッとつく。

 鹿が進むのは、獣道。そこらの人間は、知らない道だ。

 艶の良い栗毛に、柔らかい草が当たる。狭くて暗くて細い。僕も屈んで、それを追う。


 いつの間にか、木の上にはリスがいて、大きな木のみを抱えている。その横には猫がいて、ふわぁと一つ、あくびをした。

 みんながみんな、僕を見る。でもね、冷たい視線を送ったり、「帰れ」と言ってきたりはしない。

 みんな、僕を歓迎してるんだ。だって、僕は、「王子」だから。


 やがて、目の前の道が開ける。僕は思わず、息を呑んだ。


 クラシック調のお城が建っている。窓には繊細なステンドグラス。螺旋を描いた階段は、雲の上まで伸びている。どこまでも、どこまでも。


 中庭は手入れが行き届いていて、大きな薔薇が咲いている。

 赤、青、黄。風に揺られて、重たい頭をもたげている。


 その中で。


「あ」


 僕は声を上げた。お城の中庭に、君を見つけて。


 君は眠っている。ガラスの棺の中で。


 音を立てないようにそっと近づいて、僕は君の顔を見る。

 お腹は柔らかく動いていて、一定の速度で膨らんで、またゆっくりとしぼんでいく。

 口角は少し上がっていて、まるで楽しい夢を見ているかのよう。


 小鳥の囀りが、そっと優しく、君の上に降り注ぐ。君の「生」を讃える、小さな讃美歌だ。


 僕はガラス越しに、君に触れる。赤子をあやすように、ガラスについた露を払う。

 ああ、何て美しく、何て可憐な姫なんだろう。


 そして僕は、彼女に優しく、目覚めのキスを──。


「失礼します」


 ──その一言で、僕は現実に突き戻された。


「お話がありますので、診察室にお入りください」


 医者の姿を横目に、僕は君を見る。

 君はずっと、眠っている。

 

 赤、青、黄。

 薔薇ではなくて、ただの管。君を生かすための、管。


 ぴ、ぴ、ぴ。

 小鳥の囀りなんかじゃない。機械の音だ。


 僕は一つため息をついて、医者に続いて部屋に入った。


 無機質な白い壁。ポツンと置かれた椅子。僕と医者はそこに座る。

 医者は人工知能を搭載したアンドロイドだ。だけど、医者と言う職業を与えられてここにいるから、あえて人間的に振る舞うようにプログラムされている。


「何度も申し上げた通り」


 デフォルトは英語だけど、僕が日本語を使うから、彼も日本語で話し始める。


「これ以上の延命は、彼女の身体に大きな負担となります」


 また、このセリフだ。僕は視線を落として、医者のプラスチックでできた腕を見る。

 うんと前に聞き飽きたよ。そして医者だって、僕よりうんと前に、いい飽きてるはずなんだ。


「治療費だって、掛かります。いいのですか、それでも」


 僕は言った。「いいんです、それでも」って。


「それなら構いませんが、忠告はしましたからね」


 僕は引き戸を引いて、診察室を後にした。また、君に会うために。


 君は病院の一番奥の、集中治療室に入れられている。

 だから僕は、君に触れない。傍に立つこともできないし、声も掛けられない。

 透明なガラス越しに、君の姿を見るだけ。


 ああ、きっと。おとぎ話に生きるねむり姫が、君のことを見つけたら。びっくりして、腰を抜かすね。


 僕は日がな一日、こんなことばかり考えている。


 ねむり姫が君を見たら、こう言うね。「まぁ、まるで、魔法のようだわ」って。

 そして、王子も、こう言うよ。「何と、まるで、神の力だ」って。

 でもさ、僕たちから見たら、彼らの方が不思議なんだ。幻想なんだ。幻なんだ。

 そして死ぬほど、羨ましいんだ。

 

 君は笑わない。怒らないし、泣きもしない。


 何でだろう。何で僕は、君の王子じゃないんだろう。

 僕が王子だったら、たった一回、キスするだけで、君を眠りから覚ませるのに。


 ねぇ、覚えてる?


 君はその薄い肌に、何度も何度も、針を刺されたよね。

 薬、点滴、特殊治療。全部一通りは受け切ったよね。

 でも君は、一向に目を覚まさない。


 ねむり姫はさ、目を覚ましたよ。

 彼女だって、「つむ」に刺されて眠りに落ちた。でも、目を覚ましたよ。王子のキスで……。


「大丈夫ですか」


 ……いつの間にか、太陽はすっかり落ち切って、廊下に照明が灯る時間になった。

 僕の横に、看護ロボットが立っている。


「あまり思い詰めると、体に毒ですよ」


 彼女は僕を、心配してくれた。そういう役割なんだろうけど、ほんの少しだけ、嬉しかった。


「いいえ、大丈夫です」


 と、僕は言った。そしたら彼女は、それ以上は何も言ってこなかった。ただ、テッシュを一枚渡された。


 ……気づかないうちに、泣いていたんだな、僕は。


 でも。


 悲しいんじゃない。悔しいんだ。何で、僕たちの生きてるこの世界が、現実と呼ばれているんだろうって。

 

 だから僕は、今日もこう思う。

 

 ああ、君が。

「ねむり姫」であれば、良かったのに。

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