クロ百合惣話

ポロポロ五月雨

1本目 墓場の自販機


 私こと『古田 凛花ふるた りんか』 は、この4月に大学へ入学したばかりの新一年生だ。

 しかし、通う大学に満足がいっているというワケではない。私の心を不服たらしめる原因。それは大学の場所だ! 急行も停まらない駅から徒歩1時間! 山の上にある辺鄙へんぴなオンボロ大学…そんな大学に通うため、私はわざわざ県外からやって来た。つまりは一人暮らしだ。まったく、ぐぬぬの一言でも吐かせてほしい。


「はぁ、やんなっちゃうよ」


 入学式の帰り道。私はため息をつきながら、まだ見慣れない街を歩いていた。手に持っているカバンは真新しくて、思い返すとボロボロの高校カバンが懐かしい。


『ホームシックホームシック…シックシック』


 ここには前を通るたびに鼻をつまみたくなる鮮魚店などない。なぜか潰れない文房具店もない。その気になれば今からだって友達と遊べた環境も、帰れば晩ご飯を準備してるママもいない。そりゃスーパーとか飲食店はあるけどさ。私にとってこの街は完全にアウェーの、何もない街だった。


『…いや、あるにはあるか』


 私は心細さに負けて、惹かれるがまま大通りから続く横道に入った。


『暗いな…』


 昔は栄えてたんだろうなって雰囲気のシャッター街が、私を出迎えた。道を照らしている電灯は、なんとなく大通りの電灯よりひ弱に感じる。

 私はコツコツと入学式のために買ったパンプスを鳴らし、奥へと向かって足を進めた。どうせいつか就職活動するので、スーツも新しく買ったやつを着ている…でも就活のコトなんて直前になって考えればいいよね。ウチの両親には早とちりな部分がある。入学式には着物で来ていた人もいて、ちょっとビックリした。


『まだ、あるかな?』


 望みを胸に、私は古い記憶を呼び起こしていた。


・・・・・・・・・


 私が今の大学、『方旧ほうきゅう大学』 に入学するまでには、それなりのストーリーってやつがあった。


 始まりは私の楽観主義だ。第一志望に受かると思い込んでいた私は、第二志望をすごくテキトーに決めた。三者面談で浮かんでいた先生のビミョーな顔を覚えている。が、早いところ面談を切り上げたかった私は、とにかくゴリ押しして志望校を決めた。面談中の空気って苦手なんだよね、へへへ。


 次に、と言うべきか。とにかく私が第一志望に落ちたことだ。これに関しては…ノーコメント。事実と結果として落ちた。ただそれだけの、よくある話。


 結果、私は第二志望の方旧大学に通うことになった。さっきはテキトーなんて言ったが、一応選んだのには理由がある。小さい頃に方旧大学の文化祭に参加したことがあり、それがメッチャ楽しかった…っていう大きな理由が。確か旅行の最中に文化祭のビラを見つけて、思いつきで行った気がする。


「うわ~すごい!」


 バスで大学に向かっている最中、キャンパスに近づくにつれて増えていく大学生を見て、私はキラキラとした憧れを抱いていた。


「わたしも大学生になりたいな~」


 はしゃぎながら両親に言うと『じゃあ勉強しなきゃな』 と返ってきた。あの言葉通りにやっていれば…いや、過ぎたこと。とにかく、私は幼少期の時点で方旧大学の門をくぐり、文化祭を楽しんだ。文化祭には同い年くらいの子も来ていて、何人かとは仲良くなった。


 その中に、『藤田 風正ふじた ふうせい』 ちゃんがいた。


「えー、リンカちゃんってココの人じゃないのー?」

「うん! 旅行しに来たんだよ。シンカンセンにのって!」

「すごい! わたし、まだのったことない!」


 風正ちゃんと私は、俗にいう馬が合うってやつだった。おっとりとした子で、人の話にしっかり耳を傾けて、やわらかに返してくるタイプ。おしゃべりだった私にとっては、磁石の反対極みたいなものだ。すぐに仲良くなって、2人で大学構内を探検した。


「教室ひろい!」

「ねぇねぇ、あそこの階段。上がったら何かあるのかな?」

「行ってみよ!」


 楽しかった。今でも思い返せるくらい。ただ、楽しすぎた。


「ココ…どこ?」


 テンションの上がっていた私たちは、気付けば親の元を離れて、宙ぶらりんのまま どこかの廊下に立ち尽くしていた。大学の構造は複雑奇怪で、ある程度の年齢じゃないと把握するのは難しい。その上 置いてある机や椅子は高く、窓からの景色さえ背伸びしてやっとだ。当時100cmくらいしかなかった私たちにとって、大学は巨人族の森みたいな場所だった。


「どうしよう…」

「だいじょうぶ!」


 不安に押し潰されそうな私と違って、風正ちゃんには余裕があった。ピシッと人さし指を立てて、ふふんと鼻を鳴らす。


「まよったら、地図を探せばいいんだよ!」

「地図?」

「ほら! 大きなお店に行ったときとかさ、あるじゃん!」


 今に思えば、フロアガイドのことを言ってたんだと思う。大きなお店ってのはショッピングモールのことかな? 確かに、方旧大学の造りはショッピングモールに似ている部分があるので、連想したっておかしくはない。私もその時は、「わかる!」 とかナントカ言った気がする。


 こうして地図を探し始めた私たちだったが、誤算があった。さっきも言った通り、大学の物品は何もかもが高い位置にある。つまり、よしんば私たちが地図の前を通ったとしても、そんなのは視界に入らない。案の定、私たちは構内をクタクタになるまで歩き回った挙句あげく、その辺の地べたに座り込んでしまった。


「地図ない…」


 疲労に加えて、のども乾いていた。つい泣きそうになる。


「どうしよう…どうしよっか」

「ん~…」


 隣に座っている風正ちゃんは、斜め上を見ていた。どうやら考え事をしているらしい。やがて、「あ!」 と手を叩いた。


「ミキちゃんに相談しよ!」


 私は首を傾げた。


「ミキちゃんって、だれ?」

「お母さんの妹! 近くでお店をやっててね。たまにあそぶんだ!」


 お店をやっててね…だなんて言う風正ちゃんの顔は、少し誇らしそうだった。子供ながらに自分の叔母さんが店を構えていることを自慢したかったのかもしれない。しかし、私は知らない人に会うのが怖くて、つい身を強張こわばらせてしまった。


「でも…」

「行こ!」


 風正ちゃんは私の手を取ると、ぐいぐいとやって立ち上がらせた。


「だいじょうぶだよ。リンカちゃん。だいじょうぶ」


 その言葉を聞いて、私は何故だか素直に安心してしまった。


 それから、私たちはミキさんのお店まで歩いた。歩いている間はずっと手を繋いでいた。考えすぎかもしれないが、風正ちゃんは迷子になって不安を抱えている私を落ち着けるために、そういう振る舞いをしたのかもしれない。実際、手の温もりが心強かった。

 店に着き、事情を話すと、ミキさんが大学に連絡を取ってくれた。やり取りの末に、両親が私のことを迎えに来てくれることになった。


「またね! フウセイちゃん!」

「うん、またね! リンカちゃん!」


 私たちは姿が見えなくなるまで手を振りあい、バイバイと叫び続けた。


 もし風正ちゃんと出会ったのが中学生以降だったなら、連絡先の一つでも交換したに違いない。だけどその時は小学校の低学年で、スマホさえ持っていなかった。それに、子供だったせいもあってか、漠然とまた会える気になっていた。テレパシーか何かで繋がってるような、そんな感覚。現に私は帰りの新幹線で、次はフウセイちゃんと何して遊ぼう…とか考えていた。


 現在、私は風正ちゃんと最後に会ったお店の前に立っている。


・・・・・・・・・


『あんまし変わってないな…10年くらい経ってるハズなのに』


 ミキさんのお店は、小さな楽器店だった。壁にはギターやベースがいっぱい掛けてあって、棚には楽譜やCDが詰まっている。子供のころに見る景色としては中々に異質で、口をぽかーんと広げた記憶があった。とはいえ古い記憶なので、今じゃどうなっているか分からない。店内も薄暗いし、営業してるかどうかさえ怪しかった。


『…で、どうすんだ私』


 ノスタルジックに駆られてここまで来たが、来たから何だってんだ! 別に楽器に興味がある訳でもないし、そもそもミキさんは、私の事なんて覚えてないに決まってる。


「…帰ろ」


 私は回れ右をして、楽器店に背中を向けた。

 その時だった。


「凛花ちゃん?」


 お店の方から声が聞こえた。私は振り返って、声の方を確認する。と、ドアからはショートヘアで同年代くらいの女の子が、ひょこっと顔だけ出してこっちを見ていた。


「え?」

「やっぱり! 凛花ちゃんだ!」


 ドアが勢いよく開け放たれた。同時に、女の子がこちらに駆け寄って来る。「わぉ!」 私は咄嗟とっさに身構えて、その子の姿をよーく確認した。

 着けているエプロンには『藤田楽器店ふじた がっきてん』 のロゴが入っている。首にネームプレートが掛かっていることを見るに、どうやら楽器店の店員さんらしい。私は目を凝らして、ジッとそのネームプレートを読んだ。視力の良さには自信があった。


「あ」


 ネームプレートには黒い印刷字で、『藤田 風正』 と書かれていた。


「ウソ…ホントに?」


 私は困惑して、つい呆然と立ちつくしてしまう。その間にも、風正ちゃんは距離を詰めてくる。数年ぶりの再会を祝し、足が勝手に動き出したかのように、その勢いはとどまることを知らなかった。そして、


「うぎゃ!」「あいたっ!」


 私たちは、けっこう激しくぶつかった。


「いてててて」

「ごめん! 凛花ちゃん。怪我はない?」


 瞑っていた目をそっと開ける。痛みでちょっとばかし視界がボヤけている気もするが、それでも目の前にいる人の顔くらいは認識できた。ずいぶん変わってはいるが、見覚えのある顔だった。


『間違いない…風正ちゃんだ』


 10年ぶりの風正ちゃんは、かなり背が高くなっていた。耳にはピアスを開けていて、髪色は真っ黒なままだが毛先がクルンと曲がっている。可愛いというよりはクール系だ。それでも周囲を取り巻くおっとりとした雰囲気は、時間の経った今からしても、昔の風正ちゃんを見ているようだった。


「凛花ちゃんは、ちっとも変わってないね」


 まるで私の考えを汲み取ったかのように、風正ちゃんは言った。ふふふと笑うその笑顔も、最後に会った時から変わっていない。


「風正ちゃんはだいぶ変わったね。すっかり背も高くなって…」

「ふふ、前に測ったときは178cmあったんだよ」

「178!」


 驚いて、つい電波塔でも眺めるかのように、風正ちゃんの顔をまじまじと見上げてしまった。「へぇ…」「恥ずかしいよ…」 風正ちゃんは頬をちょっぴり赤くして、持っていたネームプレートで自分の顔を隠した。


「私ね、今ミキちゃんのお店で働いてるの。高校を退学しちゃって…家に居づらくなっちゃってさ。住み込みのアルバイトみたいなものかな」


 ネームプレートの向こうから聞こえた言葉は、私にとっては意外なものだった。真面目で優しい性格の風正ちゃんが退学なんて…いや、しかし。だからこそなのかもしれない。私はそこに、どうしても暗い出来事を想像せざるを得なかった。


「そうなんだ…大変だね」


 常々、私は慰めるのが下手だった。どうしても薄いセリフになってしまう。

 私の言葉に、風正ちゃんは首を振った。


「ううん、そうでもないよ。音楽好きだしさ! 凛花ちゃんは…」


 風正ちゃんの目が、私をくまなく観察する。何だか こそばゆくて、つい風正ちゃんと同じように、カバンで身を隠してしまった。


「就職?」

「あはは、違う違う。実はね、今月から方旧大学に通うことになってるんだ」

「え! ホントに!?」


 キラキラとした瞳が、私を見た。跳び上がって、まるで自分が通うかのように、嬉しそうに笑顔を浮かべている。口が裂けても第二志望すべりどめなんて言えなかった。


「じゃあ、この辺りに住むの?」

「そうそう、大学生活1人暮らし」

「わ!」


 風正ちゃんは胸の辺りで、大きな体に見合わないような、小さな拍手をした。


「ホントにホント!?」

「うん、それで今日は入学式があったんだ」

「わぁ! じゃあもうホントに今日から大学生なんだ」


 やわらかな笑顔で、しっかり話に耳を傾けてくれる。やっぱり根っこの部分は変わってないな…大通りを歩いていた時のささくれ立っていた心が、正しい方向に撫でられているような気がした。


「あ!」


 ふと、風正ちゃんが声を上げた。


「どうしたの?」

「あ、あのね! 実は今…ちょっと待ってて!」


 そう言い残すと、駆け足で店の中へと向かっていった。

 『風正ちゃん、なんだかテンション高いな』 あそこまで喜ばれると、私としてもつい嬉しくなってしまう。ゆるゆるとした頬を押さえていると、そのうち風正ちゃんが戻ってきた。


「これ!」


 その手には、一枚の紙がはためいている。


「…アルバイト?」


 風正ちゃんは頷くと、紙を私に渡した。

 紙面には太いマジックペンで『アルバイト募集』 と書かれ、下には時給と勤務時間。よく分からないギターから顔の生えたキャラクターが並んでいる。率直な感想にはなるが、仮にこの紙が街に貼ってあるのを見かけたなら、思わずスマホで写真をとる。そしてそのまま通り過ぎていく。


「実はミキちゃんが体を壊しててね。すぐにでも人の手が欲しいんだ」


 風正ちゃんは少し眉を下げて言った。


「どうかな?」

「う~ん、アルバイトかぁ…」


 確かに、大学生活ともなれば、資金源は必要になってくる。私の性格上メンドウなことは後回しにしてしまいそうだし、何よりバイト先の人間関係は運要素が強い。その辺を考えると、知り合いの店ですぐ働けるってのは、願っても無いことなんじゃないか?


「凛花ちゃん!」


 悩んでいた私の手を、風正ちゃんの両手が掴んだ。


「お願い…」

「う…分かった。こちらこそよろしくね!」


 私は掴んできた両手を、気合を込めて握り返した。この時の風正ちゃんの顔を、私は忘れない。まるで大輪が咲いたように弾けて、子犬のような愛らしさを持った笑顔を、私は忘れない。


 かくして私は流されるがまま、風正ちゃんのいる藤田楽器店でアルバイトを始めることになった。


・・・・・・・・・


「…」

「なに見てるの? 凛花ちゃん」

「わっ!」


 驚き! 椅子から腰を浮かす!

 「おっと」 手からこぼれそうになったスマホを、風正ちゃんが押さえた。


「ビックリしたぁ。おどかさないでよ」

「ふふ、ごめん。ボンヤリしてたから」


 風正ちゃんは悪戯いたずらっぽく笑うと、私の肩辺りから顔を覗かせて、一緒にスマホの画面を見た。ほとんど頬ずりレベルで顔が近いのは気のせいだと思う。


「…心霊スポット?」


 バイトを始めてから早一年。なかなか人の来ない楽器店の店番に空虚を感じていた私は、いわゆるオカルトってやつに心惹かれ始めていた。やっぱり時間を潰すならば、現実的なものよりも非現実的なものに限る。最初は幽霊なんて信じてもいなかったが、いざ調べてみると意外におもしろかった。


「ふーん…」


 風正ちゃんは興味深そうに、画面に顔を寄せていった。少しずつ、頬と頬がより近づいていく。一応バイトの初日に、『高校中退してから同年代の子と会ってなくて、距離感とか間違えたらごめんなさい』 と言われているので、この程度なら仲良しの範疇なんだろう。


「興味あるの? 怖い話」

「う~ん、まぁ苦手っちゃ苦手なんだけど、興味だけならあるかも」

「ふふ、怖いもの見たさってやつだよね」


 私たちの視線の先。スマートフォンの画面には、おどろおどろしい文字で様々な記事が掲載されていた。『都市伝説まとめ』 に『怪異事件簿』 、『怖い話30選』。どれも投稿された時期は古く、大抵が5年前とかだ。イマイチ雑で信憑性に欠ける話も多いが、ヒマ潰しにはちょうどいい。指でスクロールしていき、次々に記事を品定めする。


「お気に入りの怖い話とかあるの?」

「あるある! トビキリ震えちゃうやつがね!」

「どんなの? 教えてよ」

「オッケーオッケー、今リンク送るから…」


 私が記事に飛ぼうとした。その時だった。


「ん…おっと。ちょっと待ってね」


 スマホが、小さく揺れた。友達からメッセージが来たらしい。私は画面の上から降ってきた通知に触れ、連絡用のアプリにまで飛んだ。

 『言語のレポート形式って分かるかー?』 応戦するため、素早くフリック操作。スマホを手に入れてからほぼ毎日行っている指の動きは、今ではミシンくらいの速度に到達していた。その圧倒的なスピードでもって『知らぬ』 と打ち、送信。ほとんど一秒以内にアプリを閉じて、怖い話の記事に戻った。


「速いね」

「もちろん! 風正ちゃんを待たせるわけにはいかな…」

「ともだち?」


 耳元で、風正ちゃんが呟いた。ドキッと心が跳ね、背筋に冷たいものが通る。私はほとんど反射的に、素早く頷いた。


「大学のね。お互いに協力し合って、毎回ギリギリで単位取ってるの」

「…そうなんだ」


 風正ちゃんはどこかトーンダウンした様子で、ぽつりと呟いた。

 それから少し、間が空く。私は不思議に思いながらも、記事の方に話を戻そうとした。


「そうだ。お気に入りの怖い話だったよね。今リンクを…」

「待って」


 その瞬間。私の腰に、風正ちゃんの手が回った。


「ひゃっ!」


 思わず身をもだえさせ、声を上げる。しかし、そんなことお構いなしに、風正ちゃんは私の体を強く引き寄せた。顔と顔が一気に近づき、風正ちゃんの瞳に私が映っていることまで分かる。


「凛花ちゃんの声で、聞かせて」


 これも仲良しの範疇はんちゅう…なんだよね?


・・・・・・・・・


 ある日の夜。時計の針は11時を指している。私は藤田楽器店の前のベンチに腰を下ろして、ボンヤリと何もない路地を眺めていた。


「はぁ~…」


 夜の空気は嫌いじゃない。滅多に味わうこともない分、特別感がある。耳をすませば表通りの騒がしさが聞こえてきて、それがむしろ誰もいない この空間を、私だけのものとして認めてくれている気がする…なんて、普段ならそんな感傷に浸っちゃうかもしれない。しかし、この後ひかえている予定を考えると、そんな繊細な感情は一気にぶっ飛んでしまった。


「凛花ちゃん、肝試し行こ?」


 昨日、アルバイトが終わった後、風正ちゃんにそう言われた。


「え!」


 正直なところ、私はけっこう驚いた。普段の風正ちゃんの感じからして、自分から人を遊びに誘うタイプじゃないと思っていたからだ。ましてその内容が肝試しともなると、驚きと同時にウッと心臓がバクバクする。もしかして私から怖い話を聞いて、興味がわいたのかも?


『でも風正ちゃん、あの時だいぶ上の空だったような』


 タイミングよく頷いてはくれるものの、ずっと他の何かに夢中な様子で、私の顔を見つめていた。たんに集中してなかったのか、意外に怖がりなのかは分からなかった。


「どうかな?」


 風正ちゃんは後を押すように、首を傾げて聞いてきた。この感じもどこか風正ちゃんらしくない。私は変に感じたものの、せっかく風正ちゃんが誘ってくれたんならと思い、頷いた。


「うん! 行きたいねぇ」


 私が返事すると、風正ちゃんはまるで大切な人形でも抱きしめたかのような笑顔を浮かべ、前のめりな口調で予定について話し始めた。


『あんな顔、初めて見た』


 私は夜空に顔を向け、昨日の風正ちゃんを思い出していた。


『可愛かったなぁ』


 初日にも感じたことだが、普段はクールっぽい雰囲気なのに、笑うと子犬みたいな愛らしさがある。私の背が風正ちゃんより高かったなら、頭をよしよし撫でてあげたいくらいだ。そんな風にイメージを膨らませていた、その時。


「おーい! 凛花ちゃん!」


 電灯だけが照らしていた地面が、まるで絨毯じゅうたんの引かれたようにのっぺりと光で覆われた。同時に、エンジンの音も聞こえる。


「あ、来た来た!」


 私は立ち上がると、風正ちゃんの運転する車にまで駆け寄って行った。


「免許とか持ってたんだね」

「ヒマだったからさ。もう取っちゃえって」

「マジか~! やるねぇ」


 私は一歩引いて、やってきた黒いミニバンを観察した。


『私も免許取らなきゃなぁ。合宿の方が良いのかな?』


 そんなことを考えながら、二列目シートのドアに手を掛けた。


「あ」


 ふと、風正ちゃんが声を上げた。

 「わっ!」 私はビクッと肩を動かし、運転席に顔を向ける。


「どうしたの?」

「あ、いやね。ちょっと…」


 風正ちゃんは唇に指を当てると、何か考えゴトをし始めた。


「…後ろ、ちょっとゴチャついてるからさ。助手席でもいい?」

「助手席? うん、いいよ。オッケーオッケー!」


 私はドアから手を離して、言われた通り助手席の方に乗った。

 「シートベルトだけお願い」「ん、もちろん!」 カバンをヒザに乗せ、かちりとベルトを締める。


「じゃあ、出発するよ」

「よっしゃ! 楽しみかな?」


 声を上げると同時に、車は発進した。


 そのまま夜の街を進んでいく。


 目的地に向かうまでの間、風正ちゃんと色んなことを喋った。地元のこととか、秘蔵の面白話とか。風正ちゃんは楽器が好きなので、それについても話した。凛花ちゃんも楽器とかどう? …と聞かれたが、私は音楽のテストで持ち前の下手っぴさを披露し、先生をイスから転げ落としたことがあるので、首を振った。その話をすると、風正ちゃんは声を立てて笑った。


「ところで今から行く心霊スポットってのはつまり…出るの?」


 信号待ちに掛かったとき、そういえばと思って口に出した。

 「ふふ、出るって、オバケが?」 風正ちゃんは慣れた手つきでウィンカーを出しながら、柔らかく微笑んだ。


「まぁね。一応出るらしいよ」

「一応って…いや、どこもそんなもんか」

「ふふ、確かにね。それなりにウワサもあるんだけど、聞いてみる?」

「ウワサ? ほほぉ」


 ソムリエめいた反応を見せた私に、風正ちゃんはそのウワサってやつを語り始めた。


・・・・・・・・・


 ……『唯ノ原集団墓地ゆいのはら しゅうだんぼち』 って、聞いたことある?

 ここから大体10分くらい行くとね、大きな森があるんだ。その森の真ん中にある墓地、それが唯ノ原集団墓地だよ。私も昼には行ったことがあるんだけどね。やっぱり雰囲気って言うのかな…不気味だったよ。森自体も相当うす暗いんだけどさ、墓地はなんて言うかさらに、重いの。空気がね。だけどその重たい空気の中に、一つだけ妙なモノが置いてあるんだ。


「妙なモノ? アヤシイ祠とか?」

「ふふ、正解は、自動販売機だよ」

「…妙かな?」

「確かに、休憩所みたいなところに置いてあるんなら、妙じゃないかもしれない。けどその自販機が置いてあるのは、お墓の立ち並ぶ中になんだよ」


 まるで自分も墓石ですよって顔で、ピカピカと光る自販機が立ってるんだ。夜なんかは特に目立つらしいよ。だからこそなのか、あの自販機にはウワサが沢山あるんだ。幽霊が飲み物を買ってたとか、下には遺体が埋まってて、それこそ本当に墓石に役割を果たしているとか…夜中に飲み物買うと死ぬとかね。


「…」

「大丈夫? 凛花ちゃん」

「だ、ダイジョーブだよ。いやぁ、ムシャ震いしちゃうなぁ」

「そう? よかった。話は続くんだけどね」

「げ」


 さっきも言った通り、唯ノ原集団墓地は森の中にあるんだけどさ。その森の方も いわく付きでね。墓地まで行くには一本道を通らなきゃいけないんだけど、その道が、二本に分かれてるのを見たって人がいるんだ。Y字路って言うのかな? でもスマホで地図を見ても、森にはやっぱり一本道しか通ってない。だからウワサでは、分かれてる道の片方は存在しない道で、そっちに進んじゃうと あの世に連れていかれるらしいよ。


「ワオ…わぅ…」

「ふふふ、まぁ実際に誰かが失踪したって話は聞かないんだけどね」

「あ、そうだよね。良かった良かった」

「凛花ちゃんがその一人目になったりして」

「なんてこと言うの!」


 あはは! おっと、そろそろ着くよ。降りる準備をして、待っててね。


・・・・・・・・・


「ここが…唯ノ原集団墓地…?」


 駐車場に車を停め、助手席から降りた私は、目の前にある大きな森を眺めた。

 森は木々の枝先までをシルエットにして、背景の夜空に溶け込んでいた。中からは木の葉の揺れる音や、虫の声まで聞こえてくる。聞いていた通りの不気味さだ。風正ちゃんは昼間に行ったことがあるだなんて言っていたが、私なら昼間にだって近づくのを躊躇してしまうだろう。風の吹くたびに、森の輪郭は生き物みたいに蠢いた。


「厳密にはこの森の中。ほら、あの道を行った先にあるんだよ」


 車のキーをカバンにしまいながら、風正ちゃんが目線を飛ばした。私も同じ方を見る。と、その先には確かに、心霊スポットには おあつらえ向きの真っ暗な道があった。かたわらには石碑が置いてあって、目を凝らせば『唯ノ原集団墓地』 と書かれていることが分かる。


「…ヒュッ~」


 口笛を吹く。茶化さないとやってらんないくらい、怖かった。体まで震えてきた。


「わ、わわわ悪くないね」


 強がってはみたものの、やっぱりスマホで読む心霊スポットと実際に訪れる心霊スポットでは、恐怖のレベルがまるで違った。そりゃ実際に訪れる方が五感で恐怖を味わってるわけだから、怖いのはまぁ当然のこととして、問題は得体の知れない危機感だった。


『行っちゃダメって…行きたくない』


 胸の奥から、細い糸が手首に絡みついているような感覚。第六感、守護霊、予知。そんな話は、オカルトを漁る上で何回も見てきた。もしそういう類のものが本当に存在するんだとしたら、全員が口をそろえて『帰れ』 って言ってると思う。そしてそれさえ本当に言ってるんだとしたら、オカルトは実在することになり、集団墓地の話も嘘とは言えなくなる。


『やめた方がいいのかも…』


 私は一歩下がって、『帰ろっか』 …呟こうとした。その時。


「どうしたの? 凛花ちゃん」


 風正ちゃんが、入り口に進んでいた その足を止め、振り返った。


「怖いの?」


 そんなことないよ! …だなんて、いつもなら言っちゃうんだろうな。だけど、今日の私は無言で頷いた。臆病を受け入れて、恥っぽく目線を下に落とした。


「そっか」


 ざくざくと、駐車場に敷かれた砂利じゃりを踏む音が聞こえる。


「じゃあ、手。繋ごっか」


 うつむいていた私の目先に、手のひらが映った。私はハッと顔を上げて、風正ちゃんを見た。風正ちゃんは黙ったまま、私の目を見ている。


「…ありがとう」


 私は風正ちゃんの手を取ると、一緒に入り口まで歩き出した。

 大丈夫。もう体は震えていない。


・・・・・・・・・


 真っ暗な道を、スマホのライトで照らしながら歩く。両脇の森からは、相変わらず葉のこすれ合う音や、虫の鳴き声なんかが聞こえていた。私は虫が大の苦手なので、そういう虫の声が近くで聞こえるたびに、肩を跳ねあがらせて風正ちゃんの手を握った。


『…』


 とにかく不気味だったのは、吹き抜ける風の中に 私たち以外の何もないことだった。人の気配が一切ないなんて、現代社会じゃなかなか味わえるもんじゃない。ちなみに味わう必要はない。さっき藤田楽器店の前で待ってた時も一人だったが、あの時の一人とは全く違う。


『人間の世界じゃないみたい』

「大丈夫? 凛花ちゃん」

「わっ!」


 隣を歩いていた風正ちゃんが、ふと私に声を掛けた。


「ふふ、ごめん。驚かせるつもりは」

「いや、私の方こそビビりすぎてた。ごめんね」


 いったん深呼吸して、再び足を進める。


「もし怖いんならさ。下を向いたまま歩くといいよ。私が引っ張ってあげるから」

「うぅ、ありがとう…でも、風正ちゃんはやっぱり頼りになるなぁ」

「やっぱり?」

「ほら、あの時もそうだったじゃん。方旧大学の文化祭で迷子になったとき」


 風正ちゃんは思い出したように、うんうんと頷いた。


「確かに。あの時も凛花ちゃんと一緒に、こうやって手を繋いで歩いたねぇ」

「そうそう。懐かしいなぁ…あ、そうだ」


「ミキさん。もう一年以上入院してるけど、大丈夫なの?」


「…」


 握っていた風正ちゃんの指が、少しだけ動いたような気がした。


「ほら、私って一応お店でアルバイトしてるワケだしさ。お見舞いとか…」

「ミキちゃんは」


 いつもより少し大きな声で、風正ちゃんは言った。さらに私の顔をみながら、ちょっぴり笑顔で首を傾げる。


「照れ屋さんだから。そういうの、恥ずかしがっちゃうと思うな」

「そうなの? 意外だな。てっきり喜んでくれるタイプかと」

「人ってさ。見かけによらないんだよ」


 風正ちゃんは前に顔を戻して、足を動かす。


「凛花ちゃんも、気を付けてね」

「あはは! 大丈夫大丈夫。私ってば人を見る目には自信がありますから!」


 空っぽな夜の森に、私の笑い声がこだました。その時。


「うわぁ!」


 目の前を、小さな影が横切った!

 おそらくイタチか何かの小動物だろう。この森はかなり大きいし、動物が住処にしてたっておかしくない。だがしかし、昼間なら『あっ!』 程度で済んだことでも、この真夜中にならば話が違う。


「ふわぁぁぁ…」


 私は情けない声を上げながら、風正ちゃんの体によれ掛かった。


「つ、ツチノコ…」


 ヘロヘロと腰が抜けて、地面にへたり込む。私は恐怖のあまり、顔を風正ちゃんのお腹に押し付けながら、横目で影の行った方を確認した。


「いない? いなくなった?」


 茂みの方まで満遍なく確認し、風正ちゃんの顔を見上げる。


「…うん、もういないよ。大丈夫」


 風正ちゃんはそう言うと、私の頭をじっくりと撫でた。

 「大丈夫、大丈夫」 唱えるように繰り返し、大切そうに私の背中をさする。私はハッと落ち着きを取り戻し、顔が赤くなるのを感じながら、そそくさと立ち上がった。


「ごめん…」


 すると、風正ちゃんもハッとしたように目を見開く。


「あ…いいよ。全然。全然大丈夫だから」


 首と手を振って、次に止まったときにはもう、その顔には笑顔が浮かんでいた。


「ありがとう。でも、風正ちゃんはビックリしなかったの?」

「もちろんビックリしたよ。けど、凛花ちゃんが先に驚くもんだからさ。ふふふ」


 風正ちゃんは楽しそうに笑った。


「つい驚き損ねちゃった」

「うっ、もっと気合入れます。」


 私はがっくりと肩を落とした。


『…それにしても』


 驚き損ねたって、なるほどね。そうとも知らず、私は少し身を強張らせてしまった。


『さっきの風正ちゃん。何だか…おかしかった』


 暗闇で良く見えなかったからかもしれない。だけど、私の目に映った風正ちゃんは、伏し目で、口角だけがにぶく曲がっていた。そしてまつ毛の向こうにある瞳は、確かに私を見ていた。穴が開きそうになるほど、鋭く。


『なんて、気のせいだよね』


 驚き損ねたって言ってたし、そういう時の顔って、やっぱり妙な感じになっちゃうのかもしれない。

 私は深呼吸を挟んで、再び夜道にスマホのライトを当てた。


「じゃ、行こう」

「そうだね。ちゃんと気を付けて歩かないと」


 その言葉通り、神経を張り巡らせながら、数十分くらい歩いた。なんて言うと聞こえはいいが、要するに引け腰でジックリ歩いた結果、普通なら数分で行けるところを数十分かけて歩いただけにすぎない。ようやく見えた看板には、『この先、唯ノ原集団墓地』 と書かれていた。


「この先って、どのくらい先?」

「多分、もうすぐだよ」


 私は風正ちゃんの手を握ったまま、引かれるようにして道に足を置いた。すると、突然。


「!」


 体中に、突風がぶつかった。私は思わず顔を上げ、目の前の光景に口を開ける。


「ここが…唯ノ原集団墓地…」


 いつの間にか、目の前には学校のグラウンドくらいある墓地が広がっていた。

 綺麗に揃えられた区画の並びに、屹立きつりつする墓石の数々。命を終えた後の寝床にふさわしいほど、静かで、落ち着いた空気があった。森が不気味だったせいか、逆に洗練された心地よささえ感じる。


『良い場所…』


 私は怖いもの見たさでここに来た自分に、少しばかり負い目を感じた。すると、


「気味が悪いでしょ?」


 隣にいた風正ちゃんが言った。


「え?」

「何だか空気が重くてさ。居心地が悪いよね」


 意外だった。風正ちゃんの方こそ、こういう静かな場所が好きだと思っていた。それなのに あまりにハッキリと否定するものだから、私はつい「そうだね」 と、口を合わせてしまった。

 風正ちゃんは頷く。


「あれ見て、凛花ちゃん。ほら」


 そう言って、遠くを指さした。その先にある物に関しては、私も墓地に入った瞬間から気付いていた。この静かな土地にふさわしくないような、不躾ぶしつけに光る大きめの人工物…


「自動販売機…本当にあった」


 そこには、見覚えのある箱型の機械が突っ立っていた。

 赤いカラーリングをしていて、側面には企業のロゴが入っている。普通に街とかに置いてあるタイプだ。日常生活でなら、目に入れないことの方が難しいかもしれない。しかし、そんな一般的なものだからこそ、この浮世離れした場所では かえって悪目立わるめだちしている。


「いざ見てみると…聞いてた通り、妙だね」


 風正ちゃんから聞いたように、自販機は お墓の並んでいる列に、墓石と同じようにして置いてあった。その様子を見て、私は眉間にシワを寄せながら、首をう~ん? と傾げる。


「誰が管理してるのか知らないけど、せめてもっと端に置くとかさ」

「ふふ、そうだよね。だけど その理由が分からないからこそ、ウワサの種になるんじゃないかな」


 なるほど。確かにそのウワサに釣られた私にとっては、理由なんて分からなければ分からないほど良い。


『解明チャレンジ、やってみようじゃない』


 私はカバンから財布を取り出して、チャラチャラと中にある小銭の量を確認した。


「何か買いに行こう。ほら、風正ちゃん言ってたでしょ?」


 夜中に飲み物を買うと死ぬ…車内で聞いたウワサの一つだ。そのウワサを今、試してやる。


『幽霊でも、妖怪でも、自販機に寄生したクリーチャーでも、何でも来い』


 正直なところ、相手が自販機ということもあってか、かなり気が緩んでいた。私の収集したホラーデータによると、ああいう現代的なものに憑りついた怪異ってのは、大概ネタっぽい奴が多い。


「大丈夫かな?」


 手が少し持ち上げられる。見ると、風正ちゃんが肩をすくめていた。


「心配しないで風正ちゃん。私が守るから」

「ホントに? ふふ、嬉しいな」


 私は風正ちゃんの手をしっかり握ると、つま先から少しづつ自販機の方に寄って行った。


・・・・・・・・・


 空っぽの風。が、肌を撫でていく。墓石や卒塔婆からは、無機質でありながら無機質でないような、寒々しいオーラが漂っていた。それらが生気のない視線で、間を歩く私たちを見送る。その視線に怯えながら、私は丸まった体についた足を動かす。


『怖い、怖いよ~!』


 石畳を踏む足音だけが聞こえて、他には何も聞こえない。一歩一歩は氷の上を歩くように冷たく、まるでもう あの世にいるかのようだった。三途の川ならぬ三途の道みたいな。人間の世界らしくない雰囲気だ。

 しかし、横にいる風正ちゃんの足は、留まることを知らず前に進んでいた。


『怖くないのかな?』


 私はちらちらと、猫がミルクを舐めるように、目の端っこで風正ちゃんの顔を確認しようとした。


「着いたよ、凛花ちゃん」

「ひゃっ!」


 突然、その風正ちゃんが立ち止まった。

 「ビックリしたぁ…」 そう言って、反射的に風正ちゃんの顔を見る。と、その顔は白っぽい、強い光に晒されていた。風正ちゃんも眩しそうに、目を半分瞑っている。


 私は身をひるがえし、光の出ている方を見た。


「あ…」


 真っ赤な自販機が、私を少し見下ろすように、佇んでいる。


『これがウワサの…』


 上の方に顔を向け、全体を確認するように目線を下げていく。

 『やっぱり、普通の自販機だよね…?』 そう思いながらも、私は念のため四方を確認することにした。風正ちゃんからパッと手を離して、ゆっくりと自販機を回っていく。


『側面は普通。背面は…』


 寝ているトラの前を通り過ぎるように、そーっと背面に体を出す。しかし、そうまでして見た背面も、側面と同じように赤い色で塗られているだけだった。


「オールクリア、異常なし」

「…あぁ、よかったね。普通の自販機みたい」

「まだだよ風正ちゃん。やっぱり自販機なら、飲み物を買わなくちゃ」


 私は自販機が照らす道に足を戻すと、今度は商品ラインナップに目を凝らした。『水』 『お茶』 『コーラ』。見かけ通りの、当たり障りのないメンツ。『血』 だの『お前』 だの並んでたら分かりやすかったのに…いや、その場合 私は気絶していた。


「怪しい飲み物とかないかな?」

「う~ん、水とかどう? 透明だから、異変があったときに分かりやすいだろうし」

「なるほど!」


 私は財布から100円玉を取り出すと、小銭口に入れた。もちろん近くで入れるようなマネはせず、手の届くギリギリまで離れた後で慎重に入れた。


『ピッ』


 水のボタンに、緑色の光が灯る。


「じゃあ…押すよ」


 私は目をびくびくと閉じ、そのボタンを離れた所から、一番長い中指で押した。


『ガコンッ!』


 乾いた。聞きなじみのある音。


「と、取るね…」


 おそるおそる、取り出し口に手を伸ばす。プラスチックのパカパカを押しのけて、その向こうにあるペットボトルに触れた。

 『中から腕を掴まれるかも…』 つきまとう不安。しかし、それも杞憂きゆうのまま、代わりに私の手がペットボトルを掴んだ。ひんやりとした感覚が、今は受け入れがたい恐怖になっている。


「うぅ、うぅぅぅ」

「大丈夫だよ、凛花ちゃん。ただの水だよ」


 薄目を開け、引っ張り出した手の内を見た。風正ちゃんの言う通り、一見して普通に水入りのペットボトルだった。しかし、まだまだ安心はできない。


「ど、どう? 何か入ってる?」


 私はスマホのライトでペットボトルを照らし、風正ちゃんに確認してもらった。

 「どう? どう?」「…」 風正ちゃんはまじまじと、色んな角度から中身を確認する。しかし、


「オールクリア、異常なしだよ」


 小さく笑いながら、首を振った。


「ただの水ってこと?」

「そうだね」

「人の顔が浮かんでたりは?」

「ふふ、しないしない」


 その言葉に、私はいったん胸を撫で下ろした。


「よかった…普通の自販機か」


 改めて、その真っ赤な箱に目をやる。私たちの気も知らないままピカピカと光っていて、番人のように突っ立っていた。無害だと分かった今、もはや安心感さえある。


「…帰ろっか。もう何もなさそうだし」

「そうだね」


 私は自販機に小さく手を振ると、帰路の方に体を向けた。真っ暗な道が伸びて、行きには視線だけだった墓石や卒塔婆そとばが、今度は手ぐすねを引いているように見える。


「凛花ちゃん。手、繋ぐ?」


 横にいた風正ちゃんが、手を差し出した。

 私は首を振る。


「あはは! 大丈夫だよ。ほら、両手ともペットボトルとスマホで塞がってるし」

「……そう」


 風正ちゃんは小さく言うと、空けていた手の指をゆっくりと閉じた。


・・・・・・・・・


 帰りの道は、行きの道よりも不気味だった。なんてったって行きは自販機の光を目印にできていたが、帰りの道には何もない。もはや唯ノ原集団墓地の特徴は一切なく、ただただシンプルな真夜中の墓地が、見える範囲の彼方まで広がっていた。今や一度は通ったという自負と、帰りたいという欲求だけで足を動かしている。


『何もありませんように、何もありませんように…』


 眉間のところに力を集めて、念じながら前へと進んでいく。気合いで闇をかき分けて、勢いのままに突破する腹づもりだった。


「お…」


 すると、作戦の甲斐もあってか、意外に早く森まで戻れた。


「ラストスパートだね」


 風正ちゃんの呟きは、森の奥へと吸い込まれていった。瞬間、声でも返したかのように、ぞおぞおと葉のこすれる音が聞こえてくる。森の喉は闇を深くして、大きく開けた口のように私たちが来るのを待ち構えていた。


「行こう、風正ちゃん」


 私たちはお互いに頷きあうと、肺に大きく息を詰めて、その口の中に身を沈めていった。


 森は、どこもかしこも変わり映えせず、見渡す限りに木が生えている。陰鬱いんうつな雰囲気が漂っていて、いるだけで気が滅入めいってしまいそうだった。行きはほとんど顔を下げていたので分からなかったが、スマホのライトが無ければ進むことさえ困難だと思う。


『ま、一回は通ったんだし』


 墓地を通過したのと同じメソッドで、森も気合いのままに進む。


『風正ちゃんだっているし』

『墓地には何もなかったし』

『そもそも幽霊なんて…』


 まるで山手線ゲームのごとく、言い訳を継いで貼っていく。加えて景色に慣れてきたせいもあってか、中々に余裕が出てきた。ふと空を見上げてみると、枝の隙間からは夜が覗いている。月は出てないが、ここが人の世界だと実感するには、十分なものだった。


「…え」


 そうやって、良い調子ぶっていた私の足が、止まった。


 なんで忘れてたんだろう。風正ちゃんの怖い話は、2つあったんだ。


 …行きは一本だったその道が、Y字に分岐している。


「嘘…」


 自販機にたどり着いた達成感から忘れていた、道が二本になる怪異。

 私は思わず、一歩後ろに退いた。出来るだけ目の前の現実を刺激しないよう、呼吸まで静かに保とうとする。それでも、動悸どうきが収まらなかった。


 顔を交互に、分かれている2つの道に向ける。緊張のせいか、首をカクカクとしか動かせない。それでも両目でもって確認した道からは、見間違いや幻覚じゃ説明のつかないような、細かな葉の動きが見えていた。

 震え始めた下唇を噛みながら、私はどっちからも吹いてくる風を感じる。


「行きは、なかったよね? 真っすぐ進んだよね?」


 動揺のままに、風正ちゃんの顔を見た。風正ちゃんは指で口元を隠し、険しい顔で眉をひそめている。


「凛花ちゃん…一応、スマホでさ。マップを見て貰える?」

「あ! わ、分かった」


 マップ! そうだ、マップを見れば!

 うまく動かない指を、震えるがままに移動させる。スマホのロック解除がこんなに難しいなんて…体が恐怖で染め上げられる前に、早く事実を確認しないと…触れたマップアプリの、開くまでの時間がもどかしい。


 やがて、画面には衛星から見た土地の情報が映し出された。『唯ノ原の森ゆいのはらのもり』 初めて知った現在地の名前に、おそるおそる拡大をかけていく。


「…ない…ないよ」


 宇宙から見たその森には、驚くほど単純な、一本の道だけが通っていた。


「じゃあ、ほ、本当に…?」


 画面から目を離す。分岐は当然のように別れたままで、重たい石のように不動のまま そこにいた。


「…あ」


 気丈にふるまっていた私の化けの皮が、べりべりと剥がされていく音がした。代わりに、中から弱い私が晒されていく。胸のところがシンと凍らされたみたいになって、唇も抑えきれないほど震えていた。恐怖で頭がグシャグシャになって、風正ちゃんから聞いた言葉を繰り返す。


 『分かれてる道の片方は存在しない道で、そっちに進んじゃうと あの世に連れていかれるらしいよ』


「二分の一…ってこと?」


 自分の声が聞きたくて、たまらず口に出す。


「どうしよう…風正ちゃん」

「…」


 風正ちゃんは、黙っていた。

 眉の辺りで切りそろえられた前髪が揺れて、その奥に潜む涼しい目を扇いでいる。高い身長に銀のピアス。初対面だったら委縮しちゃうかもしれない。けど、本当は優しくて、頼りになる子だ。

 風正ちゃんが、口を開いた。


「凛花ちゃんが決めて」

「え?」


 思わぬ返答に、私はさらに聞き返す。


「なにが…」

「二分の一なんでしょ? だったら、凛花ちゃんが決めて」


 風正ちゃんは真っすぐな目で、私を見ている。


「…」


 会話は、そこで終わった。もちろん言いたいことはあった。だけど、これ以上なにを言っても、風正ちゃんは答えてくれそうになかった。空気が後戻りを許さない。もう虫の声しか聞こえない。


 私は、分岐に顔を向けた。

 『凛花ちゃんが決めて』 …託された判断に、胸がいっぱいになる。しかし、なぜだろう。外す気はなくなっていた。


『風正ちゃんがいるから、かな』


 私と風正ちゃんが友達になるまでには、多くの偶然が絡み合っていた。小さいころ知り合い、大学入学とともに再開する。ほとんど奇跡的だ。そんな私たちが、こんなところで死ぬはずない。


「左…だと思う」


 根拠はない。ただの勘だ。だけど、なんとなく。駐車場で疼いた第六感辺りが、左の道に真実があると言っているような気がした。『分かれてる道の片方は存在しない道』 …偽物なんかには、惑わされない。


「行こう、風正ちゃん」


 私は風正ちゃんに手を差し出した。

 私が選んだ道だ。私が導いてあげないと。


「…分かった」


 風正ちゃんは顔色も変えないまま、差し出された手を掴んだ。


・・・・・・・・・


 左の道を進んでも、景色自体に変化はなかった。ずっと続くんじゃないかって思えるほど、木がつらつらと並んでいる。あの世だとかのオカルティックなものは見えてこず、ひたすら自然ばかりだった。

 それでも、私の気の持ちようは ずいぶん変わっていた。


『私が選んだ道なんだ。ビビってなんて、いられない』


 風正ちゃんの手を命綱みたく しっかり握り、勇み足でざくざくと進んでいく。

 怖い…その気持ちはあった。でも、風正ちゃんの方が不安に思っているはずだ。責任感の強い子だから、肝試しに誘ってしまった自分を悔いているかもしれない。だからこそ、分岐を私に選ばせたのかも。


『それなのに、私が臆病キめ込んでちゃダメだ』


 私は歩を進めた。早く駐車場が見たいだなんて、今後思うことないだろうな。けど少なくとも今だけは、その一心で足を動かしていく。両脇から伸びている枝が、そんな私を捕まえようとする触手にさえ想えた。


『二度と来ないぞ…』


 胸に固く誓う…その時だった。


「わっ!」


 突然、視界が開けた。

 墓地に入ったときと同じ感覚。突風がぶつかり、目を見開いた。しかし、そこにあった光景は、少なくとも墓地じゃない。まして あの世でもない。


 ブランコや砂場、シーソーなんかが、電灯の明かりに照らされている。


「…公園? だよね」


 私は近くにあった看板に目をやった。文字はよく読めないが、看板があるってことは多分 正式な公園なんだろう。それも最近になって作られたのか、置いてある遊具は夜間でも分かりやすいほどに、鮮やかな色のペンキで塗装されている。子供の頃によく通っていた公園に似てなくもない。


『でも、マップにはこんな公園…あ』


 私はポンと手を叩いた。


「もしかして、単純に新しくできた公園だから?」


 いくらマップアプリとはいえ、常にリアルタイムで地図が更新されているわけじゃない。おそらく数か月に一回くらいのペースで変わる。ならば、その数か月のうちに出来た公園なら、マップに映ってなくても不思議じゃない。そして


「道だって、公園に合わせて作られたやつなら、映ってるわけないよね」


 私は一人で頷いた。そして、マップに道が映ってない理由が分かった今、あの分岐に対しても現実的に頭が働く。


「…角度だ」


 空中に指で、カタカナの『ト』 を書く。


「多分、行きには見づらくて、帰りには見やすい角度で道ができてたんだよ。ほら、『ト』 の出っ張ってる部分みたいな」


 まぁ見づらいと言っても限度があるが、私は行くとき ほとんど下を向いていた。ビビってたからね。だから多少なりとも見にくい道なんて、視界にすら入らなかっただろう。


「な~んだ、子供ダマシじゃん!」


 私は風正ちゃんに、推理の評価を聞こうとした。


「どうかな? けっこう自信あるんだけど」


 風正ちゃんは黙って、私の手を握っている。

 気のせいか、その力はさっきよりも強くなっていた。


『…あれ?』


 ちょっと待って。


 確かに、私は下を向いてたから気付かなかったけど、風正ちゃんは前を向いて歩いてたよね?


『…それに』


 握る手が、より強く締まっている気がする。


『道が、新しくできた道ならさ。ウワサ立つの早すぎない? こういうのって、もっと時間を掛けて浸透するんじゃないの?』


 加えるなら、ウワサが立つことさえおかしい。

 分岐が突然現れたように錯覚するためには、行きには下を向いて分岐を見ないようにし、帰りにだけ顔を上げて歩かなくてはならない。念を入れるなら、より分岐に気付きづらい夜に墓地を訪れること。そんな挙動をする人間が、ウワサが立つほど大人数いるとは思えなかった。


『でも、風正ちゃんは見た人が結構いるって…』


 私が風正ちゃんの言葉を思い出していた、その時。

 私の体がグンと、風正ちゃんの腕に引っ張られた。


・・・・・・・・・


 風正ちゃんの匂いが、肺を満たした。

 いつもはほのかに香るだけなのに、今はむしろ、それ以外にない。鼻を動かすたびに、まるで風正ちゃんに溺れているかのような感覚に陥った。


 顔が、風正ちゃんにうづまっている。


 拍動の細かささえ聞こえてきて、それなのに私の後頭部を押さえる腕は、まだまだ私のことを体にし込めようとしていた。おかげで息が…苦しい。


『…風正ちゃん?』


 抱きしめられていた。息をするたびに、分かる。滑らかな服の肌触りがずっと頬を擦っていて、向こうに感じる身体の柔らかさは、いくら女の子同士でも気恥ずかしかった。

 私は声を出そうとした。口が塞がれている。体同士を引き離そうとする。後頭部を押さえる腕が、それを許さない。強く、まだ強く、私のことを欲しがっていた。


「どうして左を選んだの?」


 風正ちゃんの声が、鼓膜に染み入った。耳のそばでの呟きは、まるで流し込まれるように頭の中を駆け巡る。だけど、私の背を震えさせた原因は、それだけじゃない。後頭部にない方の片腕が、私の腰辺りを小さく這いずり回っていた。


「右なら、友達だったのに」


 その言葉が鼓膜を叩いた瞬間…這いずっていた腕が、獲物を捕らえた蛇のごとく絞まった。


『痛いッ!』


 キリキリと、万力まんりきのように、体が握り潰されていく。背骨はきしんで、身動きの一つだって取れなかった。

 さらに、熱い。暖房とか、ヒーターのような熱さじゃない。まるでドロドロと相手を溶かし、逃がさないように体力を奪う。病的な熱さだった。その通りに、頭までボーっとしてくる。しかし それでも、患者らしいのはむしろ、風正ちゃんの方だった。


 聞こえる動悸は早く、呼吸も細かい。絞める腕も、少し震えているように感じた。


「こ」


 風正ちゃんが口を開く。


「ここじゃ、さ。やりずらいし。移動しよっか」


 移動…? それに やりづらいって…


『一体どうしちゃったの…?』


 その思いも口に出せないまま、私は風正ちゃんに抱き上げられた。軽々しく…自分で言うのもなんだが、けっこう重いはずなのに。クレーンゲームで手に入れた大きな人形みたく、運ばれた。


「座って」


 やがて、公園にあったイスに下された。風正ちゃんは立ったままだ。夜空を背景にして、公園のライトが逆光になっているせいで、表情まではよく見えない。それに ただでさえ身長が高い風正ちゃんを見上げているもんだから、まるで大波に呑まれるかのような気分になった。


「…」

「…」


 いっとき、黙っていた。一体どうしちゃったの? …なんて、そのまま聞くことも出来たが、口に出そうとすると いかにもセリフっぽくてやめた。それに、風正ちゃんの方から説明すべきだとも思った。不安のあまり やっちゃったことなら、そう言ってもらえればいい。

 風正ちゃんを待つ間、私は解放された口から、苦しがっていた肺に息を注いだ。一気に深呼吸したいところだが、風正ちゃんの言葉を遮ってしまうのが怖くて、出来なかった。おかげで公園には、私の息遣いきづかいだけが落っことされていた。


「あっ」


 暗いところにある表情から、音が。口の開かれたことが分かる。


「あ…あのね、凛花ちゃん」


 風正ちゃんは、言葉に詰まっていた。こんな風正ちゃん初めて見る。いつもは ゆっくりながらもスラスラ喋るのに、今ばかりは震えているようだった。

 私は出来るだけの笑顔を作り、風正ちゃんをよく見た。


「どうしたの? もしかして、風正ちゃんも怖くなっちゃった?」


 助け船を出したつもりだった。これで風正ちゃんは喋らずとも、縦に頷けば解決する。

 でも、風正ちゃんは何もせず、黙っていた。


 代わりに、公園に一つ、息遣いが増えた。


「いきなり抱き着かれたもんだからさ! もう、ビックリしたよ!」


 息は、何か大きなものを抑え込もうとしていた。吸う息は長く、吐く息に力が入っている。そして、その呼吸の熱いことは、上下を重く揺れる肩からも明らかだった。


「…凛花ちゃん」


 風正ちゃんが、話す。私は、気付かないうちに、自分の服のすそを握りしめていた。


「好き…大好き。大好きだよ。ずっとだった。ずっと…」


 その言葉に、私は驚かなかった。むしろ、あぁ ついに言われた…とも思った。


「…ごめんなさい」


 私は、用意していた言葉を送った。

 一年以上も同じ職場で働いていれば、誰だって気配くらいは察する。最初は もしかしたら程度だった。でも、そのグレーは段々と濃くなっていった。濃くなっていくだけだった。だから、いつか完全に黒に変わるその日のために、私は何て言うかを あらかじめ決めていた。


 まるで台本を読み上げるように、フォローの言葉を投げかける。夜の公園にはお似合いの、空っぽで ありきたりな言葉だった。


「…」


 風正ちゃんの息は、冬でもないのに白く立ち昇っているように見えた。それなのに、表情は影のせいで、黒くなって よく見えない。


「それで…その…」


 やがて、台本の最後を読み終わった。次の言葉を思案する。それでも、浮かばなかった。フォローなんて良いように言ったが、結局は遠ざけているだけで、拒絶しているに過ぎない。相手を傷つけずに拒絶する方法なんて…考えれば考えるほど唇は硬く結ばれて、明確な一音さえ出てこなくなった。


 膠着こうちゃく状態。崩したのは、意外にも風正ちゃんの方だった。


「あの分岐ね。右なら、友達のままだったんだよ」


 私はますます、服の裾を強く握った。唇を解く。


「さっきも言ってたよね、それ。どういう意味?」


 この状況下に置いても、私はまだ笑顔を作ろうとしていた。我ながらコトなかれ主義な性格に嫌気がさす。


「右は駐車場までの道…もし、凛花ちゃんがそっちを選べば、私はそのまま帰るつもりだった」

「…じゃあ、全部知ってたんだ」

「そうだよ。分岐のウワサはまるっきり嘘。あの日 思いついたんだ」

「あの日?」


 少し、間が空いた。そして


「ミキちゃんを納骨した日」


「…え」


 頭が真っ白になった。なのに、風正ちゃんは置いてけぼりにするみたく、話を続けた。


「私が殺したんだよ」


 ぽん、と、言葉だけが置かれた。意味が分からない。飲み込めない。把握できない。私の体は理解なんて ちっぽけなものよりも早く、ただただ恐怖だけに駆り立てられた。


「夜中に飲み物買うと死ぬって話。したでしょ?」


 呆然とし、動けない。話し続ける風正ちゃんの声が、まるで別人のもののように聞こえた。


「あれ、ちょっとだけ違うんだ」


 その時…両肩を、掴まれた。

 押し倒すように、風正ちゃんは、私を背もたれにまで追い込む。さらに、勢いのまま、体ごと。私の膝に乗っかって、自分の影で この全身を、上から包み込んだ。


「ホントはね。夜中に買った飲み物を、飲んだ人が死ぬんだよ」


 ようやく、風正ちゃんの顔が見えた。


「あ…」


 まるで、黒い狼だった。


 夜の中に、鋭い目が浮かんでいる。

 鈍く爛々らんらんと揺れていて、その輝きは、両方にある銀色のピアスと同じだった。その瞳が、捕らえた獲物を楽しむように、じっと私の身だけに向いている。引きつった口元からは、笑みもこぼれていた。無理やり笑っているのか、それとも笑いをこらえているのか。私には分からない。ただそれにしても、歪んでいた。


「そ、そんなの…」


 体が震え出した。けど、足は震えない。風正ちゃんが乗っかっているから。ここで私は、明確に風正ちゃんから監禁されていることに気付いた。


「た、ただの、ウワサでしょ…?」


 肩を掴んでいた腕が、そこから背中にまで回り込んだ。同時に、風正ちゃんの体とも触れる。密着して、擦りあって、境界が無くなるくらい、抱きしめられた。首には吐息があたる。熱い。湿る。体中の神経が ぼんやりとしているようで、同時に鋭く、風正ちゃんと繋がっていた。


 首に、歯があたった。


「!」


 私の首に噛みついた。風正ちゃんが。まるでマークを付けるみたいに。歯で、私の肌を閉じ込める。甘噛みでもなく、味わうように、舌でも肌をなぞる。痛かった。私は出来るだけ体を揺さぶって抵抗した。風正ちゃんの背中に回ってる手で、その背中を叩きもした。それなのに、


 むしろ興奮したように、風正ちゃんは私にすがった。


『イヤ…』


 体が、自分のものじゃなくなっていく気がした。きっと残る歯型は首輪のように、風正ちゃんと私の主従関係を明らかにする。身動きの少しも取れないまま、犬用の噛む玩具みたく、体中をボロボロにされる。

 風正ちゃんの肩越しに、夜の空が見えていた。ただでさえ遠いその空が、今ではさらに遠ざかっている気がした。冷たい空気が頬にあたって、逆に首から下は、熱い。風正ちゃんの腕や、舌や、息や、胸が、私を重しのように押さえる下半身と共に、ぐらぐらと意識を煮る。


「好きだよ…大好き。大好き!」


 声も、そうだった。頭に直接届いて、中のところをどろどろにする。

 風正ちゃんの声だった。でも目の前にいる人間が風正ちゃんだなんて…私は、服を脱がされる今になっても信じられなかった。


『だめ…そんな…』


 優しかった風正ちゃんの面影だけを残して、狼は全部をたいらげようとしていた。

 晒される予定の無かった下着が表に触れて、素肌さえも あらわになっていく。ボタンは乱雑に開けられて、まるで破かれたプレゼント箱のようになっていた。


「あ…ぁ」


 叫ぼうとした。それなのに、声が出ない。さっきもそうだった。だけど、言葉が見つからないわけじゃない。単純に、恐怖で、喉が絞まっていた。


「凛花ちゃん!」


 私の想いは、多分もう、ぜったい届かない。目を見たら分かった。瞳は過剰なまでに私を見つめて、まぶたはそれほど閉じてもないのに、下瞼の方だけが艶めかしく曲がっている。瞳孔は螺旋らせんを描いたようにグルグルグルグル何重にも錯綜さくそうし、正気の世界にいないことだけが確かだった。


『風正ちゃん…やっぱり、こんなの だめだよ!』


 私は使える物がないか、震える手の届く範囲で探した。

 『何か…』 ぶっきらぼうに腕を動かし、散策する。と、その時。


『あ!』


 ひんやりとした感覚が、私の指先に当たった。間違いない。さっき買った、ペットボトルの水だ。きっとイスに下されたときに、手から零れ落ちたんだろう。


『う…ぐ…』


 私はペットボトルを持ち上げると、風正ちゃんの背中に回っていた手で そのキャップ部分に触れた。


・・・・・・・・・


 キャップを開けるためにこれほど苦労した日を、私は知らない。バレないようにペットボトルから目を背け、指先の感覚だけを頼りに、そのフタ部分を探した。すると、辛うじて人差し指に、感触があった。親指と中指も急いで添えて、三本の指でキャップをつまむ。


『お願い…!』


 力が、上手く入らない。三本の指で、しかも背中に回った腕だ。心のどこかからも、無理だって声が聞こえる。だけど、これ以外に選択肢がなかった。目をギュッとつむり、渾身の力で指先を回す。キャップの溝が指紋と嵌まった。そして…


『カチリ』


『あ!』


 開いた!

 私は喜びのあまり、ペットボトルの方に顔を向けた。


「凛花ちゃん。なにしてるの?」


 そこには、グニャリと曲がった瞼で眼球を囲んで、その中からじっと私を見る瞳があった。


「のどでも乾いた?」


 腕が、掴まれる。その強さは、血液の流れが止まってしまいそうなほどだった。一気に手先の方が動かなくなって、段々としびれてくる。それでも、私はペットボトルを、大切に握り続けた。この状況を何とかできるかもしれない。最後の希望だった。


「あぁ、そういえば。買ってたね。水」


 喋っていた。その姿は、まるで風正ちゃん以外の何かが、風正ちゃんの声と喋り方を真似ているだけのように思えた。


「このペットボトルで、どうするつもりなの?」

「…」

「言わないんだ」


 耐え続けた。その甲斐かいも無く、風正ちゃんは力任せに、ペットボトルを奪った。

 「いやっ…」 空っぽになった手で、宙を掻いた。それを見て、風正ちゃんは笑った。嬉しそうに。楽しそうに。まるで、追い詰めた獲物の最後の抵抗を楽しむような、そんな風に。


「ふ、風正ちゃん…」


 私は下唇を噛みながら、風正ちゃんを睨みつけた。眉間に寄せたしわのせいで、涙が零れる。それでも、私は溜まりに溜まったぐちゃぐちゃの感情を、押さえきれずにはいられなかった。


「こんなことしても…何にもなんないんだから…」


 口調を強くする。


「本当に、意味わかんない! 風正ちゃんなんて…」


 大声で、まくしたてた。涙があふれて止まらない。感情を、感情のまま吐き出した。


「風正ちゃんなんて…きら」


 その時だった。目を見開いて、悲しそうな顔を浮かべる風正ちゃんを見つけたのは。


「…あ」


 『ずるいよ…それは…』 瞬間、音が喉でつっかえた。舌だけが空回りする。


 掴まれていた腕が、イスに押し付けられた。


「あぁ、そっか。ふふ、そうだよね」


 一人で、呟いている。狼が、私を見ていた。


「のど、乾いてたんだね。それで、私に飲ませてほしいんだ」

「……は」

「ごめんね。気づかなくて。でも舌で合図するなんて。ふふ、凛花ちゃんは、欲しがりさんだなぁ」


 一瞬の出来事だった。私の顔が、片腕で強制的に押さえられた。

 「きゃッ!」 痛みで、叫ぶ。それでも、止まらない。


「ほら! ふふふふふ。咥えなよ! 凛花ちゃん!」


 口に、ペットボトルが ねじ込まれる。


「んぐッ! うえっ…」


 フタは開いていた。私が開けた。次々に水が流れ込んできて、私の口内を激流で満たす。

 限界は、すぐに来た。むせ返って、流れてくる水を吐き出そうとした。口からは水が次々あふれてくる。しかし、苦しさで揺れるその頭を、風正ちゃんはがんとして押さえ続けた。


「ん…! んんっ…!!」

「赤ちゃんみたいだね! 凛花ちゃん!」


 水は、弱まることなく入ってきた。500mLの量が まるで無限にあるのかと錯覚してしまうほど、長い時間 責められ続ける。喉仏は強制的に働かされ、欲しくも無い水を淡々と受け入れた。息が苦しい。苦しい。苦しい。私はただ、暴れた。


「ふふふふ、あはははは!」


 声が聞こえた。その声は、ペットボトルが離されるその瞬間まで続いた。


「ぷはッ! げほっ、ゲホッ」


 咳を、繰り返す。全身の慣れない箇所に入った水を掻き出すため、何度も。それが終わったら、今度は息を吸った。ふーッ…ふーッ……溺れかけた体はびくびくと痙攣けいれんして、口からはだらしなく液が零れている。脱がされた服、下着、素肌、全部が濡れた。水を吸っていて重い。心も、もう立てないほど。周りも、ビショビショだった。

 それなのに、狼はむしろ、嬉しそうにしていた。


「凛花ちゃん!」


 ついに、全身が押し倒された。イスに横たわって、上には夜空と、獣が見えた。


 濡れた服の触る音が、耳に入ってくる。


 狼は、その歯を何度も突き立てた。まるで私を喰らい尽くし、殺し、閉じ込めるように。熱に憑りつかれたまま、夢中のまま、自分の食欲を打ちツけてきた。噛み跡なんていくつも出来た。抵抗する四肢は、全部捕まって、処刑された。


「あ…」


 肌が、重なり合う。身長178cmの肉体が、私の全部を支配した。荒っぽい呼吸が絶え間なく聞こえ、消えゆくたびに私の身が悶える。背は弓なりに曲がって、口ではつるの弾かれるように小さく鳴いた。痴態は彼女の劣情をくすぐり、私を飼う視線にも喜びが混じる。


「だめ…ふうせい…」


 遮るように、唇が塞がれた。

 私のことをズタズタになるまで虐めた口が、今度は優しく私を溶かす。


「だいじょうぶだよ。リンカちゃん。だいじょうぶ」


 ほのかな血の味と一緒に。最後、そう聞こえた。




 『1本目 墓場の自販機』 読了










・・・・・・・・・どこかの高校の教室にて


 『ある墓地の自販機にはランダムな飲み物に睡眠薬が入っていて、墓地に車で来た人が帰りに事故るようできてるらしい』


 『なんでそんな仕掛けすんのさ』


 『そりゃ死体が増えたらさ。墓地的に儲かるだろ。それか快楽殺人』


 『はいはい ソウカモネ~…でも、私が聞いたウワサだと、睡眠薬じゃなくて普通に毒だったような』


 『普通か? それ』


 『いやだってさ。その墓地で飲み物 買った人が、実際に死んだんでしょ?』


 『ん? …あぁ! あれは自殺だよ。練炭でな。墓地の駐車場に停めてた車で』


 『2人だっけ?』


 『そう。近くの楽器店で働いてた2人。まぁ実際には店長不在の幽霊店舗だったらしいけど』


 『あぁ、幽霊ってそういう?』


 『違ぇよ! 私はそんな…や、ともかく。それについて補足情報があるんだよ』


 『何よ』


 『2人は横並びで死んでたんだけどさ。なんでも、片方がもう片方の腕をかじりながら死んでたらしい』


 『何それ ゾンビ? お墓だから?』


 『おっと、これだけじゃないぜ』


 『?』


 『多分、齧られてた人の血だろうな。その自殺した車に向かうように、地面に血痕が垂れてたらしいんだ』


 『ほう』


 『その血を逆に辿っていくとさ。どこに着くと思う?』


 『そりゃ、墓場でしょ。墓場以外ないんだから』


 『いや、それがよ』



 『…何もない。森の中に着くんだとさ。墓場に続く道を、なぜか途中で逸れて』


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クロ百合惣話 ポロポロ五月雨 @PURUPURUCHAGAMA

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