キャットニップ

桜泉

キャットニップ 天上編 その1

 神話のオリュンポス山だと言われているミティカスのはるか上空に、巨大な積乱雲がある。

 人間の目には見えない上空で、宇宙からはただの雲にしか見えない空域だ。


 それは神技かみわざで突き固め、職神技しょくにんわざで造られた、美しい白雲の天界都市だった。


 山の頂上付近には、白雲煉瓦しらくもれんがで舗装された大通りが通っており、両側に個性豊かな白亜の邸宅が並んでいる。


 神話にちょっとだけ名前が出てくる、二軍の神々の邸宅街だ。

 そう、人間で言えば『ちょっとだけ資産家だよ』階級にあたる。


 昨今、神々の世界も地上化が進み、天界の男神たちは、単身赴任の真最中だった。となれば、どこの世界も同じようなもので、ヒマをもてあましたマダム女神たちの集いが、頻繁に行われていた。


 今日はカエサルさんのお宅で、ホームエステの会がある。とか。


 昨日のマラティーさん宅のディナーは、絶品でした。とか。


 赴任先でインスタント食品オンリーかもしれない亭主。いや、夫神にくらべ、優雅な毎日をおくっている妻神たちである。


 他のローカルな神々のマンション群でも、さらにさらにローカルな神たちの○○ハイツや××荘でも、規模の大小にかかわらず、それなりに独身気分を堪能する女神で溢れていた。


 やはり神だけに、みんなセレブライフなのだろう。しかし、夫神たちが単身赴任して、はや十年あまり。

 長期に渡る不在に、不満をもらす女神が増えつつあった。


 そんな世間の風潮を知ってか知らずか、神々のトップたるゼウスからはなんの近況報告もなく、赴任期間満了の布令ふれいもない。


 水面下で密かに飛び交っていたゼウスへの悪口雑言。それが白昼の井戸端会議でも、ゼウスやヘラに気づかれぬよう飛び交いはじめていた。


 大声上げて批判はしたい。が、ゼウスの怒りは怖い。それよりも、夫を批判されたときのヘラの苛立ちは、もっとずっと怖い。


 ゼウスの名前は「ぴー」とか「バキューン」とかでごまかして、ちまたの批判お茶会は盛況になっていった。


 地上のミティカスを模して造られた天界都市の最上部には、神界議事堂がある。

 神界議事堂の2ブロック離れた一帯には、うわさのゼウスファミリーの城と、神界政に携わるオリュンポス十二神の豪邸があった。


 ちなみに1ブロック離れた区域は、太陽、月の離着陸滑走路だ。

 太陽運行業務は、アポロンとヘリオスの二交代制。

 月運行業務は、アルテミス、ディアナ、セレーネの三交代制だ。


 ヘラにしてみれば、年若い女神の深夜労働など許しがたいのだが、いまさら人間界に流布るふした神話を書き換えるわけにもいかない。

 これは常日頃つねひごろから心配の種だった。が、いまひとつ心配が増えた。


 怠け者の……もとい、好奇心と冒険心に満ちたゼウスが、いそいそと仕事へ出かける不気味さに、ヘラはよからぬ事態が起きたのではと疑っている。


 夫の探究心は、とくに美女への飽くなき学究心の数は、両手両足の指では足りない。しかし、どうもそちらのほうは治まっているらしく、下心及び嘘を感知する『真実の鏡』は反応していない。


(ひょっとして、体調がおもわしくないのかしら)と、ふつうの女神なら心配する筈もない事で思い悩む。

 神なら、いや神の頂点に立つゼウスが体調を崩すなど、あり得ない。


 カロリー計算をし、栄養いっぱいに作り上げた愛妻弁当を忘れるなんて、痴呆が始まったのかも知れないと疑うに至っては、およそ神からかけ離れた思考回路だろう。

 どこまでかけ離れた思いかは、神のみぞ知る。女神だけに。。


 仕事熱心なアポロンが出勤し、セレーネが夜勤を終えて帰ってくると、ヘラはゼウスが忘れていった愛妻弁当を持って、我が家の玄関へと向かった。


 いつもなら侍女である虹の女神イリスに頼み、じぶんは裾野にある人界用の神殿へ出勤するのだが、あいにくイリスは有給休暇で旅行中だ。


 たまには夫の勤務態度をチェックするのも、賢い妻の役目。

 新しい秘書など勝手に雇い入れていないかどうか、視察する良い機会だと理由をつけて、みずから持っていくことにした。


 使い慣れた脱着可能仕様翼を背負い、ひとかかえもあるバスケットを引っさげて、世界を見晴らす玄関ポーチから大空へ舞い上がる。

 天界都市は今日も快晴だ。

 雨雲よりずっと上空の成層圏。永劫晴天は当たり前だが。。。


 秒単位の誤差もなく、正確に太陽を運行するアポロンの勤務態度に感心し、誇らしく心地よい滑空を満喫した。


 やんちゃな西風ゼピュロスが髪を吹き散らかしても、今朝は見逃してやるだけの余裕をみせて飛んでいく。

 アクシデントはヘラを避けて通るので、数分後には神界議事堂の広場へ着地した。


 正門の門番に背中の翼を預け、とっととゼウスの執務室に直行する。

 とうぜん、止める者などだれひとりいない。

 ノックもせずに執務室のドアを開けたヘラの目に、異様なものが飛び込んできた。


 一軒家がまるまる置ける机の上に、見上げるほど書類が積み上がっている。まるで、書類の山脈だ。


 床に散乱するファイルは、絨毯じゅうたんを敷きつめたよう。

 とどめは、スタジアム級の広さを誇る執務室の、壁全面に取り付けた書棚から、雪崩のごとく落ちた書籍の山だった。


(あの バカ亭主っ。いつから仕事をさぼってんのよぉ!)


 瞬時に怒髪天どはつてんを突いたヘラのうしろで「ひっ!」と言う悲鳴があがった。

 勢いよく振り向いたヘラに、美しい金の髪をした青年神は、塩を吹いて飛びすさる。


 短いクリクリ巻き毛の美青年神がゼウスの伝令ヘルメスとわかって、ヘラの口元に微笑みが浮かんだ。


 全知全能の神ゼウスのもとに、とつぜん現れた女神の中の女神ヘラ。

 断末魔に似た顔で縮み上がるヘルメスへ、ヘラはゆっくりと一歩近づいた。

 一歩近づくと、二歩後退るヘルメス。


 繰り返す速度が全力疾走に達する直前、恐怖のキャパオーバーでヘルメスは頭を抱えてしゃがみこんだ。


「ヘ〜ル〜メ〜ス〜 我が夫は、いずこに〜? これだけの仕事を、おっ放り出して、さぞや、お忙しいのでしょうねぇ〜」


 涙目の上目遣いで見上げるヘルメスは、悲壮な笑顔を張りつかせた。

 にこやかにほころんだ、ヘラの顔。

 そのなかで、目から炎が吹き出していた。


「そ、倉庫のなかで、探し物を、なさっておられますです」 


 両手を腰にあて、ゆっくりうなずくヘラに、ヘルメスの喉が鳴った。


「倉庫 ね。ふぅ〜ん、あっそう」


 昼間の仕事を終えたアポロンと交代し、アルテミスが月運行の夜勤に出るころ、ヘラはゼウスを問いつめて、なぜに仕事をしていなかったのか、理由を聞き出していた。 

 あまりにも重大な、その理由を。


「どうしてあなたって、女が相手じゃないと、ものぐさ、適当、ずぼらなのでしょう」


 開いた口が塞がらない。まさに、そんな心境だ。

 仁王立ちのヘラの足もとで、あちこち焼け焦げ、まだ煙のくすぶるゼウスが正座していた。


 神なので、どんなに焦げても命に別状はない。ないのだが、残念ながら五感は健在だ。

 滂沱ぼうだのごとく涙と鼻水を垂らしたゼウスを見れば、一目瞭然だろう。


 今回、ゼウスの仕事放棄の原因は、十年前に冥界から要請された布教活動にあった。


 ここ数百年の間に、人間界から冥界へ渡った死者の素行が、著しく悪化しているのはヘラも知っている。

 取り締まる警備機構「獄卒」よりも、強面こわもての死者が増えたため、地獄の秩序が乱れてしまったのだ。


「獄卒」から血判状添付で提出されたハデスへの嘆願書には、「力で押さえられないから布教活動で改心させて、ぜひにも昇天を促し、地獄の死者を減らしてね」と書かれていた。


 ハデス以下冥界人口調整委員会は、もっともだと受諾し、その場で裁決して天界へ要請する。


 平穏無事で退屈しまくっていた天界の男神たちは、喜んで布教活動に名乗りをあげた。

 長期に渡る出張に備え、重装備した遠征隊が冥界への裏門、「地獄の沙汰門」を目指して出発するとき、ゼウスも同行すべく山を下りたのだ。


 建前は士気を高めるため。

 実は下心が満載なのは言うまでもない。しかし、冥界へ降りるまでは下心など微塵もないとじぶんに言い聞かせていた。


 ヘラの所持する『真実の鏡』に反応すれば、恐ろしいことになる。

 意気揚々、粛々と、ゼウスは山を下りていった。


 天界都市の裾野から平原にかけた一帯は、人界用の天国だ。

 ヘラの勤務する神殿も、山の中腹にある。


 山の中腹あたりに張った結界は、神界のある山頂と、昇天してきた人間の住む裾野天国を隔てていた。


 裾野と平野では、神々が認めた『良い稲穂の人間』が、神の使いと暮らしている。

 大天使ミカエルとか、ガブリエルとかラファエル等々だ。


 裾野の西には、人界に開かれた表門があり、東には冥界と直結した裏門がある。

 表門を「天国の門」と言い、裏門を「地獄の沙汰門」と言う。


 ゼウスが遠征で通ったのは、冥府の支配者ハデスが管理する裏門の「地獄の沙汰門」だ。


 開けるときには鍵が必要だが、最新のオートロックにしたおかげで、門が閉まると自動的に鍵が掛かるらしい。もちろん通る時に、門はストッパーで開けておき、天界の警備神たちが門番の任務についた。


 天界も冥界も、大事な鍵の管理は厳重だ。


 人界とつながる「天国の門」の鍵は天界が管理し、本来なら七大天使のだれかが所持するはずだが、常時ヘラのペンダントと一緒にぶら下がっていた。

 たぶん。いや、明らかに、ゼウスの浮気封じのためだろう。


 神であっても、鍵がなければ通れない。

 ヘラがずっと人界用神殿勤務なわけは、ここらへんにあるのだろう。

 ゼウスにとって人間界は、はるかに遠かった。


 ちなみに人間界と直結する冥界の表門は、有名な「地獄門」だ。


「地獄の沙汰門」は、知る人ぞ知る地獄の裏門である。

 その名の通り「地獄の沙汰門」が直結しているのは、天界の裾野にある天国だ。


 「地獄門」の鍵はハデスが管理し、元「地獄の沙汰門」の鍵は、ハデスの妻ペルセポネの管理下にある。


 今現在、人間界とつながる地獄門には、里帰りするペルセポネ専用の非常口がある。

 非常というだけあって非常に狭く、なおかつペルセポネの張った封印が強固なので、彼女以外の通行は不可能だった。


 ゼウスの姉であり、ペルセポネの母親でもあるデーメテールは、人間界にいる。地上の環境を整える季節の女神だ。

 母親が寂しがるので、一年のうち半年くらいは地上で暮らすことを条件に、嫌々ながらペルセポネは嫁入りを承知した。


 結婚当初、里帰りの折は地獄門を開いていたが、そのたびに駆り出される警護軍からクレームが噴出した。


「公的な門を、私的利用するのはいかがなものか」と。。


 略奪婚のあと機嫌良く妃でいてもらうために、地獄門横に里帰り専用の非常口を取りつけることで、ペルセポネの好感度を上げ、うるさい警護軍を黙らせる作戦に出たハデス。

 急いで造った鍵は「地獄の沙汰門」の鍵を、そのまま流用したらしい。


 滅多に使わない地獄と天界直結の鍵だったし、予備も造ってハデスが管理する。なんら問題はなかった。


 十年前の布教活動遠征隊に同行したゼウスは、ハデスに頼んでこっそり「地獄門」の非常口の予備の鍵を借りた。


「言っとくけど、絶対に無理だからね」と注意するハデスに、余裕の笑みを返したゼウスだ。


 人間界で遊ぼうと企む心は、猪突猛進の四文字熟語。

 だがしかし、開いた扉はあまりに狭くて身体が通らない。

 お得意の変身で出ようとするが、ハデスの浮気を警戒したペルセポネの封印が邪魔をする。


 なにがなんでも出ようと悪戦苦闘するゼウスの足の間から、一匹の黒猫が人間界へ飛び出していった。


「猫のくせに生意気な。どうすれば出られるのか、教えてくれ! 」


 ゼウスの絶叫に立ち止まった黒猫は、軽く鼻の先であしらい小首を傾げる。額にある三日月の毛が、ゼウスを煽るように傾いた。

 神らしからぬ悪態で怒鳴り散らしても、大あくびで返してくる。

 飽きっぽい黒猫は、すぐに全知全能の神を無視して走り去った。


 どんなにがんばっても無理だと納得したゼウスは、死ぬほど元気をなくし、非常口の鍵をかけて帰路についた。


 ペルセポネに好感を持ってもらおうと、無意識の本能が鍵をかけさせたらしい。

 会議中のハデスに挨拶もせず、冥界をあとにしたゼウスだった。


 警護神に守らせ、開けっ放しにしておいた「地獄の沙汰門」に辿り着き、うつろな眼差しをして天界に帰り着いたゼウスが、我に返って門のストッパーを蹴り外すと、音もなく「地獄の沙汰門」はオートロックした。

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