新天地

枯れる苗

新天地

1

私は愛されない人間だ。この狭い世界の中に私の居場所がないことを知っている。この痛みはきっとあの人達の苦しみだったのだろう。もちろん、私が悪人であることに、決して変わりは無いのだけれど。決して弁解の余地は無いのだけれど。しかし、それでも私の言い分が誰かに試聴して貰えるなら、発言が赦されるなら、ほんの少しだけその心を動かせるだろう。

言い訳は、何れにしても私の心を慰める道具に過ぎない。弁解なんて、なんの意味も成さない。たとえ私が正義の名のもとに、何か事をなし得たとして、それは世間からしてみれば関係の無い話である。結局、私の居る世間なんて、私を見たりしない。私の属性と、私の能力というレンズを介して、私の像を見ているのだ。瞳が認識しているものが光の波長なのだから、私たちは真に何かを見ることは出来ないのだろう。いつだって、ほんの少しだけ、たった数京分の一秒、本物とは違うものを見る。世間から私を守ってくれた心優しい真っ白なはずの壁は、怒りに満ちた色に変わっている。目を背けて海を見る。そうだね、私は悪者だ。

頬杖は嫌いだ、私の骨格を知らず知らずのうちに変えてしまうのではないかと思ってしまう。それでも今日は、どうしても頬杖を着いて海を眺めたい気分になった。私の骨格は、私自身に選択権がない。本当は私の物じゃないのかも知れないね。それならば、頬杖だって悪くない。よく理解している、私という人間の未熟さを。今、身体の中心を、心の在処を教える苦痛はあの冷たい視線を模している。

始まりはいつの日のことでもない。終わりはきっと今日のことだ。私たちの人生なんて、いつだってそうでしょう。知らぬ間に全て始まっていて、突然、終わりを知らされて全てを奪われる。私自身で決めた終わりだから、別に嫌味を言うつもりは無いのだけれど、別に同情を求めていた訳では無いのだけれど。或日、私の知人が言っていたことを思い返そう。嘘をつき始めた日から、君は古い君を脱ぎ捨てる、と。どうかな。私は生まれたその日から、嘘をつき続けることを決めていたよ。古い私を脱ぎ捨てられたなら、どれだけ心地良いことか。背中に乗る恐ろしい罪の数々を、たった一つの嘘で忘れ去ってしまえるなら、どれだけ心地良いことか。

試しにこのベランダの手すりを攀じ登ってみた。足元は心細くなったけれど、目の前にある海に変化は無い。半袖シャツがやたらと私の鳥肌を強調した。熱帯夜に寒気を覚える。アダムが葉で体を隠した時から私たちは弱くなった。そう思っていたけれど、私たちはそれよりずっと前から弱かったことに気付いた。風が吹くだけで恐ろしい。拠り所も無くて心許無い。夜風が身体の芯に有る熱をかき消してしまう。身体の芯の在処を見失う。

真っ白な魚が一尾、海にゆらり、ゆらり揺られて居る。手を伸ばしてあの子を手招く。届かないこの気持ちを私自身に表現したかったのだ。しかし、揺られて魚は遠くへ消えた。この空のどこかにある月が、あの子を照らしてくれたから、私はあの子を見付けられたのだろうね。ひとつ、強い風が私の髪を泳がせる。私は今再び、深い孤独に沈んだ。

さて、身体を傾けて、宙へ寝転がろう。頬に空気が擦れて心地良い。足が地面を忘れて、今、初めて、身体が身体だけで存在している。それがなんだかおかしくて、それがなんだかとても幸せだった。たった二秒間もない時間なのだろうけれど、私が初めて自由を味方につけた瞬間であった。最後に私が思い返すシーンはなんだろう。幸せなものだと良いな。目を瞑って、時を待つ。恐ろしい衝撃に打たれ、脳内にゆっくりとした海流が生まれる。やっと得た。


昨日から降り始めた雪は、私たちをこの狭い病院に閉じ込めた。

「人魚ちゃん、リハビリの時間はどうだった?」

「えぇ、悪くなかったわ」

波打ち際に流れ着いたある日から、私の名前は人魚になった。いつか思い出す本当の名前の邪魔にならない様に、この達也と言う男が付けた名前だ。清潔な病室を、カーテンで六つに仕切って小さなテレビをつけた簡素な造り。私の知っている世界のほとんど全てである。目が覚めてからどれくらい経ったのだろうか、覚えている最初の記憶はこの病室で、春も夏も秋も冬もない日々が続いた。

記憶の始まった頃からしばらくの間、私の身体はベッドの上に居続けた。歩き出すことが怖いのだと、立ち上がることが怖いのだと思った。私の知らない恐怖を体が覚えているのだろう。何かが始まってしまう気がして、怖かった。つま先が地面に着くことが、怖かった。それから、ようやく思う様に身体を動かせる様になって、いつの間にか立ち上がらざるを得なくなった。

達也はベッドの上に付けられた機械を設定しているようだ。私に分からないけれど必要なことなのだろう。

「人魚ちゃんの家族、早く見つかるといいね」

「そうね。早く見つけてくれると良いのだけれど」

こういう合言葉が私たちの中で流行っている。私にとって、知らない人の家族。どうにも自分の事のように思えない。けれど、きっと達也もそれを望んでいるのだから、当の私が望むべきことである。心の底からの願いと言うよりも、やっぱり、合言葉なのだ。結局、家族が居るのかどうかすらも分からないのだから、きっと天涯孤独だったのだろう。愛していれば、きっと忘れないはずだ。愛されていれば、きっとこんなことになってないはずだ。

「これで良し。そう、今日は雪が降ったんだ。ちょっと見てみない?」

窓から一番離れたベッドだったから気が付かなかった。雪と聞いて心が疼くのは何故だろう。心が、いつもあるはずの所から一歩前へ進んだみたいだ。幸せな気持ちになる、忘れている事を忘れたままでも良い気がする。これは私の心なのだろうか、それとも忘れ去ってしまった貴方の残り火なのだろうか。どちらにしても、この気持ちを前にすると落ち込んだふりが酷くわざとらしく感じる。飛び出しそうになる心を沈めて、落ち着いて、冷静に、頷く。

「嬉しい? 良かった」

「嬉しそうに見えたなら良かったわ」

雪の日はこんなにもドキドキするものなのだと知った。貴方は知っていたのだろうか。もしそうなら、貴方と私はやっぱり同じ人なのだと思えるのだけれど、そうでないとしたら、私たちは良い友達になれるかもしれない。貴方を見付けられないままでいる私をどう思うだろうか。見つけないで欲しいと、思うだろうか。見つけないまま貴方の雪を奪ってしまっていないだろうか。もし、貴方が私に還ったとして、その時私は消えるのだろうか。私の心を巡る疑念は、風に回される羽根車みたいに無抵抗だった。いっそ、私の心にも雪が降ってしまえば良いのに。いつか貴方が、ちゃんと私を責めるのよ。そうじゃなきゃ、耐えられないほど虚しいよ。


浸透する雪の冷たさは、そっと手を包み込んだ。私の知る唯一の雪。

「こら、しゅんすけくん、あいりちゃんに意地悪しないの」

達也はいつも通り小児科のお世話で大変そうだ。やる気のない返事が大きく響く。現れる青空によって押し上げられた天井と真っ白に塗装された床。しゅんすけくんは反省していないだろうな。していないんだろうけれど、それはきっとこの無垢な白い雪に塗れて明日には溶けて消えてしまうんだろう。清々しい風が私たちを撫でる。寒くない様にって太陽が私たちを見守る。

「人魚のお姉ちゃん、雪だるま作ろ」

しゅんすけくんは私に親切にしてくれる。きっと、あいりちゃんが好きなのね。私は頷いて、綺麗に降り積もった雪の一部を持ち上げる。それから、雪を押し付けるように転がして、少しずつ大きくなる様子を楽しんだ。

「人魚のお姉ちゃん雪だるま作るの上手だね」

「あら、そうかしら。大人になればこんなものよ」

しゅんすけくんは達也を指差す、「あれでも?」達也は運動神経が悪いのだ。

「人には得意不得意があるのよ」

誤魔化してあげたのだから、後で必ず恩を返させようと誓った。しゅんすけくんの方を見ると、その後ろからあいりちゃんが雪玉を持って走ってきている。そんな様子がたまらなく愛おしくて、笑ってしまう。

「きゃー、ねぇ。あいり、冷たい」

あいりちゃんは悪戯な笑顔で私に微笑む。この子はなんて強かなんだろう。それでもきっと、私と話している時に来たのだから、そうなのね、きっと――。達也の作った不細工な雪玉の上に、私の雪玉が乗る。その姿はまるで――。

「はい、みんなそろそろお祈りの時間よ」

その声に一同が飛び上がる。あと、ほんの少し彼女の登場が遅かったらどうなっていただろう。看護師さんが子供たちを手招く。彼女は去り際に「随分と不格好な雪だるまね」と言った。

「はーい」

あいりちゃんとしゅんすけくんは嬉しそうに駆け出した。病院の出入口まで競争するように、さっきまでの戯れ合いが嘘みたいに。私は遠いところから彼らを見ていた。大人から頭を撫でられて、それから祈祷部屋に連れていかれるんだ。

「人魚ちゃんは行かないの?」

達也の言葉に私は、静かに頷いた。それから雪の上に座り込んで、青い空を仰ぐように寝転がった氷の下にある黒いアスファルトを思い出していた。

「宗教なんて怖いよね、ごめんね。でもさ、まぁここ一応その宗教の運営だからさ」

分かっているけれど、それがとても怖い。どうしても、私の命を救ってくれている彼らを裏切る様でも、祈りを捧げたいとは思えなかった。


2


真っ赤な太陽が朝に登る日、豪華になり得ない病院食に、特段違和感を覚えなかった。取り留めのない話にも聞こえるけれど、雪に触れられるのだから、当然お節料理も頂けるのだろうと期待してしまっていた。当然の話だ。たった一口程度のやや酸っぱい料理なんて大して好きでは無いから気になったりしないのだけれど、テレビに映るそれは妙に美味しそうで変な期待をしてしまう。

しかし、それにしても今日は妙に病院内が騒がしい。結局新年など関係ない素振りを見せながら、世間の風は新しい年に向かって吹くわけで、素知らぬ顔は出来ないものだ。右手前に味噌汁、左手前に白米。中央に焼き鮭が一切れ心細そうに並んでいる。右手奥に居る漬物は残すのであまり関係無い。右手用に向いた箸を翻して、構える。

世界に現れる夥しい雑音に比べて、私の生む騒音など小さなことだ。食器が甲高い音を立てて空になっていく。割り箸が擦れて、食器のそこに張り付いた米が剥がれる。そんな音、ひとつひとつがこの病院内に、それだけで存在しているような気がしてならない。この音が遮る会話があるかも知れない、この音が絶つ心音がある様な気がする。手に汗がじっとりと滲んできて、心臓を握られているようだ。箸を止めざるを得ない。視界の端から黒い靄が滲んで、世界を侵食する。真っ黒に埋められた私を誰かが見つけてくれるだろうか。

「人魚ちゃん?」

達也が心配そうにこちらを見ている、いつの間にか視線を合わせるように屈んだ体勢で。私はなんて言ったらいいか分からない。この気持ちを達也に言うと云うことは、私の苦しみを達也に押し付けてしまう様で心苦しい。もっとも、言葉にできる感情では無いけれど、思いつく限りの言葉を尽くした時、達也ならば理解してしまうのかも知れない。それは身に余るほどの喜びで、身を引き裂かれるほどの苦しみだ。

「もしかして、『人魚』だから魚苦手?」

「貴方に気を使おうとした私はなんて善人なのでしょう」

彼は何かを感じ取ったのか、目を細めて優しそうに笑った。彼なりの優しさなのかもしれないし、そうだと思わないことがやっぱり彼への礼儀なのかもしれないとか、思ってみたり。


発見された時、私は死んでいたらしい。脈も呼吸も体温も完全に無くなっていたのだ。看護師である達也から言わせれば、「僕はあれを死の状態と断定するだろうね。綺麗な水死体だーって」ということらしい。もちろん私の記憶に残っていない時間の話だから確かなことは何も言えないのだけれど、今私がここに居ることが全てなのだから、生物学的には生きていたのだろう。しかし、もしもあの時、貴方の人生が終わっていたのなら、その水死体に宿った魂が私なのだろうか。もしそうならば、私は貴方では無いということでしょう。私を貴方たらしめる要素とはなんだろう。体もきっと心も、貴方のもの。ならばせめてこの魂だけでも私のものだったら、私は貴方と別の人。

最近になって、私は、貴方では無いかもしれないという事に希望を抱くようになった。それは亡者の戯言かもしれないけれど、偽物の妄言かもしれないけれど、もしそうならば私は私のまま貴方のことを知りたいと思える。

「このまま、思い出せないまま生きていきたい」

達也は少し困った顔をした。

「僕はそれでいいと思っているよ」

それから、彼は優しい顔のまま、頬杖を付いた。アンニュイな雰囲気が漂って、その肌の美しさが際立った。少し照れた顔をして、こちらに目配せをしつつ、遠くを見た。

「ずっとここにいるって訳にも行かないだろうからさ、僕の家に来なよ。広くは無いけど病室よりはマシだし、二人なら楽しいよ」

下手な誘い文句だ。けれど、その思い遣りで私の心は満たされた。

それから、思い出した様に達也は深刻そうな顔をした。きっとそれが本題なのだろう。この青年は残念ながらロマンチストでは無い。私が困っている時に現れるヒーローでは無い。大方この騒がしい今日を解明する話なのだろうと予想した。達也は二回咳払いする。

「そうそう、」わざとらしいけれど、誤魔化してくれるのもまた、思い遣りなのだろうね。

「うちの天命教の話なんだけどさ。来週復活祭があるんだ。それでみんな忙しくしているわけ。申し訳ないんだけどさ、どうしてもそこに参加して欲しいんだ」

私は初めてここの宗教が天命教という名前であることを知った。そんな宗教の復活祭なんて、本当に知ったことでは無い。彼の目を見てほっとして、力が抜けた様に頷く。あまりに関係の無い話だから、出ようが出まいがどちらだって構わない。ベッドへ戻ったら達也に内緒で持ち込んだ高い紅茶を淹れよう。彼はようやく安心したという顔付きになって力なく椅子に倒れ込んだ。そんなに気を張っていたのね。

「そういえば、そこで必ず天命巫女様っていう、まぁ、教祖様みたいな人が出てくるのよ。舞を踊って、悩みを聞くの」

天命巫女、女の子だろうね。きっと、赤と白の巫女衣装を着た可愛らしい子。いいな、一度だけなら私も着てみたいかも、案外似合ったりして。

「普段、天命巫女様は仮面でその麗しいご尊顔をお隠しになられているんだ。だから、実は誰も信仰している天命巫女様のご容姿を知らないのよ」

顔すら知らない人を信仰するなんて変な話だ。それに麗しいなんて、どこの情報なのだろう。はぁ、まったく、だからなんだと言うのだ。私にとって関係の無い話だ。もう関係の無い話だ。

「天命巫女様って、僕ら信者の問題事をすぐに察知して解決してくださるんだ」

「そう」知らない人の話など、もうどうでもいいわ。

「最近の天命巫女様、なんだか可笑しいんだ。なんて言うのかな、こう、キレが無くなったって言うのかな。この間まで本当に、本当に大自然の神様だったんだけどね。なんでなんだろうってみんな不思議がってるのよ。まぁ、結局覇気とかオーラとかそういうものって本当にあるんだなって感心したものさ。失ってから気付くものなのかもしれないけれど。でもさ、巫女だって神だって、疲れちゃうことくらい有るでしょ。毎日毎日凄いんじゃ大変だ。ほんの少し疲れちゃうだけで『偽物』なんて言われちゃうんだからさ」

「そうね。相当大変でしょうね。貴方みたいな熱烈なファンが居るのですから」

私は立ち上がって、何気なく紅茶を取りに行く。達也は私の腕を掴んで引き留めた。

「人魚ちゃん、大丈夫?」

人魚ちゃん? 達也は私の顔を心配そうに見つめていた。私は今どんな顔をしているのだろう。底から湧くこの感情は、背中に宿る醜い熱気を助長させた。私はもう貴方の正体に近付いてしまったのね。

「離しなさい。」

冷たい声だった。彼の目に映る私を見て、あの声の主が自分である事に気付いた。彼は尻餅を着いて震えている。私の首元に太い蛇が這い上がって来た。あぁ、貴方ね。きっとこの蛇が貴方なのだろう。このまま私を絞め殺してしまいなさい。そうしたらいつでも変わってあげるわ。そんな私の思いとは裏腹に、蛇の尻尾は脚に巻き付いた。都合の良い言葉ばかり言う私に対する暗示なのだろう。

さて、この現実からどうやって逃げようか。また海にでも飛び込もうかしら。今度こそ、ちゃんと私は自由を得るだろう。

「逃げよう」「へ?」

「逃げよう。ここから、今すぐに」

彼は再び私の腕を掴んで、真っ直ぐに目を覗き込んだ。彼の手はまだ震えている。私が怖いんだろう。たったそれだけの言葉の後に何か続ける様子は無い。周りの誰も気付かないように、それでも私にその覇気を伝えられる様に。私の腕を掴む達也の手の甲は、血管がはっきりと浮かび上がっていた。


3


心臓の鼓動は私の身体を芯から叩いて、行き場のない二酸化炭素で喉を塞ぐ。カミソリを口に入れられた様な痛みが、喉の奥からじっとりと現れた。血の塊の様な乾いた咳が上がってきて、溢れて零れてしまいそう。それでも一刻も早くこの森を抜けよう。私の手を引く彼の焦りがその荒い呼吸音から伝わってくる。まさかもう追ってきたりしないのだろうと思う。けれど、達也の焦りはまた一段と違う様子だった。

私たちが目指すのは新しい土地なのか、新しい関係性なのか、どちらだって構わなし、どちらともであっても構わないけれど、やはり一度何処かで話し合わなければならない。私が分かることは大して多くない、何もかもを思い出せたわけじゃない。けれど、そのツギハギの記憶で、本当の貴方を形作ろう。蛇は私の方を見ない。肯定しないところがなんだかとても安心できる。

病院の敷地外に出たのは初めての事だった。右も左も木々で埋め尽くされていて、さっき景色からまるで変わらない。今は達也だけが頼りである。達也は相変わらず、荒い呼吸に急かされて足を必死に働かす。天命教を信仰しているはずの男が何故私を逃がそうとするのだろうか。そんなことを考えて、何か可変的な理由に行き着くのが怖い。もしそんなことをうっかり聞いて、心を変えてしまうかもしれない。後ろ向きで寄り掛かるように達也を思った。達也は振り向かずに走る。それでも、木々は現れて、消えて、また現れる。どこにも出口は無いようで、私たちの息が上がるだけだった。

「ね、ちょっと、休も」

堪らず声を上げてしまった。足に巻き付く蛇は、妙に騒がしく私に噛み付く。

「はぁ、はぁ、うん。でも、少しだけ」

達也だって声を出すのに必死だった。荒い呼吸の裏拍に、漏れ出た空気で喉を揺らし言葉を紡ごうしている。二人の息遣いだけが聞こえる。木々の揺れる音が、まるで私たちを責め立てるように大きくなって、風が吹き荒ぶ音は人影を模した。それからひとつ大きな風が吹いて、それを最後に一切吹き止んだ。

「お帰りなさいませ、天命巫女様」

木々の隙間から声がする。幼い二つの音階がピッタリと重なったその声に異様な程の気持ち悪さを覚える。彼と顔を見合って、慎重に近く木へ後退りする。その木に背中を預けてゆっくりと注意深く辺を見渡す。そんなはずは無いのだ。何者でないはずの私が逃げたことも、こんな広い森の何処へ逃げたのかも、わかるはずがないのだ。

「巫女様、大旦那様がお待ちです。帰りましょう」

「巫女様、ご令妹様だけでは、もう限界で御座います」

二人が木々の間から滲み出る様に現れる。達也は一歩前に出て、私の体を半分隠した。

「あれさ、人魚ちゃんの弟くんと妹ちゃんでしょ。どうにかならないの?」

達也は二人から目を背けずに小声で言った。軽口を叩いているけれど、また一段と険しくなったその表情がはっきりと見える。もし、私が大人しく天命教へ戻っていたのなら、彼にこんな顔をさせずに済んだのだろうか。

「ねぇ、僕ちゃんたち、悪いけどさお兄ちゃん達急いでるからさ、二人で帰れる?」

彼の言葉に顔色ひとつ変えなかった。と、言うより、元から達也の存在なんて認識していないように思えた。この不気味な雰囲気が私たちの逃亡劇をあっさり終わらせてしまいそうで恐ろしい。明確な理由は無いけれど、止まってしまった風が妙な説得感を帯びた。

遂に達也が私の手を強く握った。走って逃げる気なのだろう。達也が万力の様な力で土を踏む。それから肺が大きく膨らむほど息を吸い込んで、また走り始めた。考えてみればこの子達は、息も切らさず私たちに追い付いていた。初めからこの辺で待機していたとしか考えられないけれど、もしそうならこの子達だけなはずが無かったのだ。

その瞬間、木々が割れる様な大きな破裂音が森中に鳴り響く。私を引いていた手は力なく地面に落ちる。私の身体は急な速度変化に耐えきれず、頭の無い死体の上に転ぶ。徐々に失われる熱を私の体の半身に移して、柔らかい肉塊はその役割を終えた。抱き寄せようと思えなかった。私は、前にも同じ光景を見た気がする。誰だったか思い出せない。無理矢理貴方を押し込められている気分になった。蛇が口を開けて私を飲み込む。あぁ、やっぱり貴方は水死体だったのね、私は人魚。泡になって、消える意識。貴方をここに残してしまうことが心苦しい。ねぇ、貴方のこと、私はずっと好きよ。私では無いと知って嬉しくなったの。水面に手を差し伸べてくれたあの時からずっと、私を思ってくれた貴方が愛おしい。貴方は友達。

「結局の所、私は逃げきれなかったんだ。この生命を終わらせようにも、その幸運のお陰で生き長らえてしまう。簡単に終わらせる方法の数々を、考えなかった訳では無いけれど、どうしても恐怖が私の脚を竦ませた。こんなの、言い訳なのだけれどね。最後に、あの白い魚が私になればいいと思った。生きたい魚に全てをあげたいと思った。けれどね、そんなの私の身勝手で、そんな親切心の物真似はただの逃走経路に成り果てて居たのよ。」

木々一本一本の裏から、黒い人間達が現れた。撃ったのはこの内の誰かだろう。この子達は彼を殺すより他、仕様が無いのだ。起こってしまったことは仕方が無い。

もう、達也を想う心の熱は段々と失われていく。心が妙な落ち着きを取り戻しつつある。また、私はこういう世界に戻ってきてしまった。黒いもの達は、私に縋り付き始めた。

「会いたかったです。巫女様」

私は一体、何をしているのだろう。心の奥に嫌々穴を開けているような気持ちだ。全て、私の選択によって生み出された結果である。産まれた時から決まっていた顛末である。私に特殊な能力なんて無い。だから、彼を蘇らせてあげることはできないし、この子達を救ってあげることはできない。この子達だって辛かったのだ。信じていたものが突然目の前から無くなったのだから。被害者はみんなで、加害者は私なのだ。浮ついた心の責任を、私は取らなくちゃいけない。

「さぁ、立ち上がりなさい。心配をかけたわね。」

信者達は、一人一人力を取り戻して立ち上がる。それから全員が頭を垂れて、平伏した。

「お待ちしておりました」

私は息を吸い込む。信者達が不安にならない様に満面の笑みで語り掛けた。彼らもそれに乗じて笑顔になった。

「皆で海に飛び込もうかしら。ふふっ、何を焦っているのよ。嘘、嘘。」

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