第三話 世界を知る
翔太は、IDカードに記載された住所を確認するため、カフェを出て早朝から街を歩いていた。
駅の案内図で青石区の位置を確認し、電車を乗り継いで目的地に向かう。
軽く調べてみたところ、「高級住宅街」と言われる地域らしいが、降り立った駅周辺の景色は違和感に満ちていた。
見知らぬ高層ビル群が建ち並び、スーツ姿の女性たちが忙しなく行き交う。
IDカードには「青石グリーンハイツ」という建物名が記されているが、どこを見ても見当たらない。
「すみません、この辺りに『青石グリーンハイツ』という建物はありますか?」
近くを通りかかった女性に尋ねると、不思議そうな顔をされた。
「グリーンハイツですか? ここは10年前に再開発されて、今はオフィス街になっているはずですよ」
IDカードに記載された住所は架空のものだった。
この世界での自分の身分は保証されているものの、過去の記録は存在しないらしい。
「やっぱり、新しく住居を探すしかないか」
スマートフォンで不動産サイトを検索しながら、翔太は次の行動を考えていた。
画面には「男性専用・高セキュリティ物件特集」の文字が映っている。
その後、翔太が近くの不動産屋に入ると、女性の担当者が丁寧に迎え入れた。
「男性限定の物件なら、こちらのマンションがおすすめですね」
不動産屋の女性は、タブレットに映し出された物件情報を熱心に説明していた。
セキュリティは万全で、管理人は24時間常駐。
エントランスには顔認証システムが導入され、来訪者の管理も厳重だという。
「家賃は、こちらになります」
示された金額に、翔太は目を見張った。
決して安くはないものの、立地と設備を考えれば妥当な範囲だ。
むしろ、同じような物件の女性向け家賃と比べると、かなり優遇されているように見える。
「あの、参考までにお聞きしたいのですが」
翔太は慎重に言葉を選んだ。
「女性向けの同じような物件だと、家賃はどれくらいなのでしょうか?」
「ああ、そうですね。だいたい1.5倍から2倍といったところでしょうか。男性向け物件は政府の補助金が出ますので」
担当者は当然のように説明する。
その態度からは、これが完全に常識として定着していることが窺えた。
「では、この物件で手続きを進めさせていただきます」
身分証の確認から契約まで、手際よく進められていく。
途中、担当者は何度か「男性の方がお一人で契約されるなんて、珍しいですね」と口にした。
どうやらこの世界では、男性の単身契約自体が一般的ではないらしい。
午後、物件の内覧に向かう。
マンションは駅から徒歩5分の好立地にあった。
建物に近づくと、門扉の横には「男性専用マンション」の表示。
エントランスには確かに最新のセキュリティシステムが導入されていた。
「こちらが室内になります」
担当者が開けた扉の向こうには、既に家具が設置された広々としたワンルームが広がっていた。
システムキッチン、ウォークインクローゼット、独立洗面台。そして、防音設備も完備されているという。
「お風呂は男性専用の温泉施設を併設していますので、そちらもご利用いただけます」
「温泉、ですか?」
「ええ。男性の方に安心して入浴を楽しんでいただけるよう、セキュリティには特に気を配っています」
説明を聞きながら、翔太は徐々にこの世界の価値観を理解し始めていた。
希少な存在である男性を、社会全体で保護しようとする考え方。
それは住環境にも如実に現れているようだった。
入居の手続きを終え、翔太は近くのショッピングモールで生活用品を調達することにした。
広大なフロアの大半は女性向け商品で埋め尽くされており、男性向けフロアは最上階に集約されているようだ。
エレベーターに乗り込むと、すぐに視線を感じた。
若い女性グループが、翔太の存在に気付くと、明らかに興奮した様子で囁き合い始める。
一人が何かを言おうとした瞬間、別の女性が制止する姿が見える。
「ちょっと、あんまりよくないわよ」
「でも、珍しいじゃない。若い男性が一人で」
「だからって、それは……」
聞こえるように交わされる会話に、翔太は表向き視線を落としながらも、内心では複雑な感情が渦巻いていた。
前世では女性からこれほど積極的な視線を向けられることはなかった。
年頃の女性たちに囲まれ、関心を持たれる状況は、何か甘い期待も感じさせた。
それからエレベーターを降りると、そこは完全に異なる空間だった。
高級ブティックのような雰囲気の中、男性用の衣服や化粧品が丁寧に陳列されている。
接客スタッフも全て女性で、その態度は極めて慇懃だ。
「いらっしゃいませ。本日は何をお探しでしょうか?」
声をかけてきた店員は、まるでホテルのコンシェルジュのような立ち振る舞いで接してくる。
「生活用品を一通り、と思いまして」
「承知いたしました。では、まずは基礎化粧品からご案内させていただきましょうか」
翔太が戸惑いを見せると、店員は丁寧に説明を加えた。
「男性の皆様の素肌を守ることは、社会全体の責務でございます。基礎化粧品は保険適用の対象にもなっておりますので」
応対の途中、店内のモニターがニュース番組に切り替わる。
そこで流れていた内容に、翔太は思わず足を止めた。
「続いては、男性の貞操を守る新法案について、解説いたします」
アナウンサーの声が続く。
「近年、増加する男性への不適切なアプローチが社会問題となっている中、より厳格な規制を求める声が高まっています。新法案では、男性の意に反する積極的な接触や、SNSでの過度な接近も規制の対象となります」
画面には、街頭インタビューの映像が映し出される。
「男性は社会の宝です。より厳格な保護は当然だと思います」
「私の息子も、通学途中に声をかけられることが多いと言ってます。不安です」
翔太は、自分の耳を疑った。前世の日本で聞いたような議論が、完全に性別を逆転させた形で展開されている。
「お客様、こちらの護身用品もいかがでしょうか」
そう言って店員が差し出したのは、スタイリッシュなデザインの小型ブザーだった。
「都市部にお住まいの男性の方には、必需品とされています。万が一の痴漢や、ストーカー行為に遭遇した際にすぐに通報できます」
翔太は言われるがままにブザーを買い物かごに入れる。
実際にはそこまで深刻に不安を感じているわけではなかったが、この世界での立場を考えると、持っていて損はないだろう。
新居に向かう帰り道、今度は意図的に人混みを避けて歩いた。
それでも時折感じる視線に、困惑しながらも、どこか心がざわつくのを感じる。
前世では経験したことのない、注目される快感。
しかし、それは中々表には出しがたい感情だった。
スマートフォンには、不動産屋から物件の最終確認の連絡が入っている。
画面に映る担当者の笑顔の写真に、思わずため息が漏れる。
この世界で暮らしていくには、まだまだ知らなければならないことが山積みのようだった。
翔太は空を見上げ、前世での常識が、ここではまったく通用しないことを改めて実感していた。
そして、その価値観の違いに戸惑いながらも、どこか期待に胸を膨らませている自分がいることに、複雑な思いを抱いていた。
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