ワンルームマンション買いませんか’?

製本業者

印鑑はお持ちですか?


「ワンルームマンション、買いませんか?」

彼との出会いはそんな電話からだった。正確には、もう少し礼儀正しく、「都内で資産運用のお手伝いをさせていただいております」とか、そういうことを言っていたけれど……。その日の疲れもあって、印象はあまり変わらなかった。


私が勤務している病院は、都心からは離れた田舎の方で、山々が見えるのどかな土地にある。電車は一時間に一本、街灯もまばらで、夜の帰り道は真っ暗。患者さんは地元の年配の方が多くて、私は一人の若手医師として静かに日々をこなしていた。そんな中で鳴った一本の電話が、この先こんなに待ち遠しくなるなんて、そのときの私は想像すらしていなかった。


「はい、もしもし……」

「突然のご連絡、失礼いたします。都内で資産運用のお手伝いをさせていただいている斉藤と申します」


彼の声は淡々としていながらも、妙に穏やかで優しい響きがあった。その日は疲れていたこともあり、きっぱり断るつもりでいながら、つい話を続けてしまった。


「資産運用、ですか?」

「はい、特に初めての方でも無理なく始められるよう、少額でスタートできるワンルームマンション投資をご案内しています。実はこのプラン、意外と女性の方に人気があるんですよ」


「女性に人気、ですか?」

「そうなんです。収入をちょっと増やしたいとか、将来の備えをしたいという方が多くて。リスクもできるだけ抑えていますし、何かと心配な世の中ですからね」


「そうですね……でも、私、投資なんてあまり興味がなくて」


やんわり断ろうとしたが、彼は気を悪くすることなく、むしろ笑みを含んだ声で返してきた。


「ですよね。お仕事もお忙しいでしょうし、そう思うのは当然だと思います。僕も実際、こういう話ばかりしてますけど、個人的には正直なところ、投資よりも安心して暮らせる日常の方が大事だと感じてます」


その言葉に少し驚きつつも、飄々とした彼の口調が心地よく、気づけばまた彼の声が聞きたくなっていた。電話が鳴るたびに、「あ、またあの営業か」と思いながらも、無意識に期待している自分がいることに気づいて、少し驚いた。


ある日、彼がふとこんなことを言った。


「最近、都内の不動産価値も少しずつ変わってきてるんです。もちろん、あまりお好きな話題ではないでしょうが……」


「ふふ、何度も言ってるけど、興味はないんですけどね」


「でも、実はこういう投資で、女性の独立や安心につながることも多いんですよ。きっと仕事でもたくさんの人と接していらっしゃるでしょうし、だからこそ未来の安定についてちょっと考えたりするのかな、と」


ふいに自分の働き方や将来を見透かされたような気がして、少しドキリとした。


ある日、そんな私の様子に気づいたのか、インターン中の若い医師が茶化すように声をかけてきた。


「先生、最近なんかいいことでもあったんですか?」


彼は、看護師たちから少し色目を使われるようなタイプで、私も一時期は「少し良いかも」と思ったこともあった。


「え、別に……何もないけど」


「ほんとですか?最近、ちょっと楽しそうな顔してますよ」


そんな言葉に、心の中で苦笑してしまう。以前なら少し意識していた彼のことが、今では不思議と異性として見られなくなっている自分に気づき、 意外とあっさりしたものだな…… と、少し驚いていた。



彼からの電話が来ない日が続くと、私は次第にそわそわした気分になる自分に気づいた。あれほど「投資は興味がない」と言っていたはずなのに、なぜこんなにも彼の電話を待っているのだろう。彼がただの営業マンであることも分かっているし、これはあくまで“お仕事”なのだと自分に言い聞かせてみる。しかし、ふとした瞬間に「どうして電話がこないんだろう」と、無意識のうちに少し不安に感じている自分に気づき、我ながら驚いてしまう。


そんな日々の中、再び彼からの電話が来たのは、一週間ほど前のことだった。


「もしもし、突然失礼いたします。都内で資産運用のお手伝いをさせていただいている斉藤と申します」

「はい、どうも」


少し間が空いてしまったことに、どこか寂しさを感じつつ、また彼の声に耳を傾ける。彼の話を聞きながら、「今日はどんなことを話してくれるんだろう」と自然に期待してしまっている自分がいることに気づく。そんな中、次に彼が言った言葉に、私は思わず耳を疑った。


「今週末のご予定はいかがでしょう?」


「え?」彼の唐突な問いに、思わずドキッとする。 もしかして…… と思った瞬間、彼が続けた言葉に気持ちが落ち着いた。


「実は、一度お会いしてお話しできればと思いまして。やっぱり、お顔を見ながらだと伝えられることも多いですし……」


そうか、やっぱりセールスの一環なんだな…… 少し落胆してしまう自分がいる。それでも、彼の声がどこか優しく、距離を感じさせないものであるせいか、話の続きに耳を傾けてしまう。


すると、彼が少し間を置いて、控えめにこう続けた。


「……正直、個人的にもお会いしてお話ししたい、という気持ちもあって……もしご迷惑でなければ、ぜひお茶でもどうでしょうか」


彼の言葉に心が再びドキリとする。個人的に会いたいって……これも営業トークの一環なのかもと頭では思いつつも、どこか嬉しさを感じている自分がいる。普段はこんな気持ちにならないのに、彼の言葉には何か特別な響きがあるように思えてならない。


「もしよろしければ、落ち着いた喫茶店でゆっくりお話ができるといいなと思っているのですが……静かな場所で、と思いまして」


彼の提案に、ふと心が躍る。彼が「静かな場所がいいですよね」と言ってくれたことで、少しだけ特別扱いされているように感じられ、自然に笑顔が浮かんだ。


「それはいいですね。最近、静かなカフェって少ないですし……」


「そうですよね。実はここ、個人的にお気に入りの場所で、もしよかったら……」


少し照れたような彼の口調に、私の中で弾む気持ちが抑えられなくなっていくのを感じた。普段の仕事やプライベートでは決して感じることのない、なんともいえない高揚感が、静かに心の奥に広がっていくようだった。

「では、今週の土曜日の夕方でいかがでしょうか?」

「はい、大丈夫です」

ここで大丈夫ですって言ってしまうのは……営業マンの手口かな?

そんな風に思いつつも、どこか彼に会えることを期待している自分がいることに気づき、少し戸惑っている自分もいた。



そして迎えた土曜日の夜。私は一人で待ち合わせの喫茶店に来ていた。最近よく通う病院近くのカフェとは違い、静かに流れるジャズと落ち着いた照明が、大人のムードを漂わせている。椅子に腰掛けてみたものの、どうにも落ち着かない。こうして一人で待っているだけで、自分がどれだけ緊張しているかを改めて実感する。


「やっぱりこれは、営業マンと……デート、ってことで良いんだよね?」

そんな独り言をつぶやきつつ、ちらりと時計を見やる。しかし、約束の時間を10分過ぎても彼の姿は見えない。きっと忙しいのだろう……と自分に言い聞かせながらも、どこか肩透かしを食らったような、少し寂しい気持ちが胸をよぎる。


「……営業マン、か……」

そうつぶやいた時、ふと彼の顔が頭に浮かんだ。そういえば、彼のフルネームもまだ知らない……それに気づいた瞬間、なぜか胸が少し切なくなった。自分が彼に会えることを心待ちにしていたのは、ただの営業マンとしてではなく、彼自身に興味があったからなのだと改めて気づかされる。


「そっか……私、彼に会いたかったんだな……」

そんな気持ちに気づいた瞬間、入口の方から彼がやって来た。


「すみません!お待たせしちゃって!」

彼の少し照れたような笑顔に、私も自然と笑顔がこぼれた。そして、彼が席に着くと、意外にも落ち着いた様子で話し始めた。


「いやぁ、こんな洒落た喫茶店に来るの、ちょっと緊張しちゃいますね」

「ふふ、意外です。営業マンならこういう場所も慣れてるのかと思ってました」

「いや、実は全然なんです。なんだか、今日は特別な感じがして……」


彼が「特別」と言ったその言葉に、少しドキッとする。 でも、これもきっと“営業トーク”の一環なんだろうな…… と自分に言い聞かせて、少し肩の力を抜いた。


そんな軽い話題から始まり、やがて仕事の話へと話題が移っていく。そして次第に彼の仕事への思いや信念を聞くうちに、私は彼の話に引き込まれていった。ふと、気づけばこんな質問が口をついていた。


「あの……どうしてこのお仕事を選んだんですか?」


少し照れたように彼が微笑む。


「そうですね……自分の力で、誰かを少しでも幸せにしたいって思ったから……ですかね」


その答えに、思わずドキッとした。この人なら信頼できるかもしれないと、ふと感じた。そして同時に、これは“営業マン”に対する信頼ではなく、彼自身に向けた気持ちなのだと気づき、胸が少し熱くなるのを感じた。


「いつか、私にもそんなふうに思える人が現れるのかな?」


私がぼそっとつぶやくと、彼はにっこりと笑って言った。


「きっと現れますよ。先生には、そういう素敵な未来が待っていると思います」

「……そうでしょうか」


今はまだ自信がないけれど、彼がそう言うなら信じてもいいのかもしれない。そんな思いがこみ上げてくると同時に、注文していた飲み物が届いた。温かいカップを手に取ると、心がじんわりと温かく満たされていくのを感じる。


そして、ふと彼もまた、営業トーク以上に真剣な気持ちでこちらに向き合ってくれているのかもしれないと思うと、少し顔が熱くなるのを感じた。


しばらくして喫茶店を出た後、彼は私を駅まで送ってくれた。


「今日は本当にありがとうございました。とても楽しかったです」


私がそう伝えると、彼は穏やかな笑顔で応えてくれた。


「こちらこそ、こんなふうにゆっくりお話しできて嬉しかったです。……またいつか、こんな機会があればいいなと思ってます」


その言葉に少し胸が高鳴り、駅に向かう足取りがどこか浮ついたものになっているのを感じながら、彼に別れを告げた。



その次の週末、私は彼と一緒にワンルームマンションの見学に行くことになった。

彼の「資産運用」というテーマに興味があるわけではなかったけれど、彼に会える口実としては十分すぎるものだった。


見学先は都内……と言うには少し外れた場所で、高速バスを使って一旦都心に向かいその後電車で現地へ向かうことになった。そのため朝早い集合時間に、彼と駅前で合流する。


「おはようございます。早い時間にすみません」

「おはようございます。いえ、こちらこそありがとうございます」


爽やかな彼の笑顔を見ると、少しだけ眠気も飛ぶ気がした。二人でバスに乗り込み、席に着くと、彼が手提げ袋から紙袋を取り出した。


「よかったらこれ、朝食にどうぞ。駅近のコンビニで買ったんですけど、サンドイッチとか軽いものしかなくて……」

「ありがとうございます。そういえば朝ごはん、食べ損ねてました」


彼の気遣いが嬉しくて、包みを開けると、二人でサンドイッチとコーヒーを分け合いながら食べ始めた。


「朝からこんなふうにご飯を一緒に食べるのって、なんだか新鮮ですね」

「そうですね。でも、こんな時間に食事をするのも、先生と一緒だからいい感じです」


ふとした言葉に少し胸が高鳴るのを感じる。相手の言葉がどこまで仕事としてなのか、それとも私個人に向けたものなのか、曖昧なままの距離感が妙に心地よかった。



「では、今日はこちらの物件をご案内しますね」

電車で移動して少し歩くと、ちょっと背の高いビルが並んでいる。東京や大阪と行った大都会と比べるとたいしたことないのかも知れないけれど、あまり高い建築物が無いのでそびえ立つ印象があった。


「こうやって物件を見に来るの、実は初めてなんです」

「そうなんですね。でも、あまり緊張しなくて大丈夫ですよ。今日の見学は、将来こんな生活もあるかもしれないな、って想像して楽しんでいただければ」


彼の言葉に、つい微笑んでしまった。そうか、これは仕事なんだ。でも、私にこんなふうに優しくしてくれるのは、もしかして少しだけ特別だったりするのかな……?


マンションの中に入ると、彼は私に部屋のレイアウトや周辺の利便性を説明してくれた。私も最初は仕事モードの彼に少し距離を感じていたが、次第にリラックスしていった。


「こういう場所、将来一人暮らしするならいいかもしれませんね」

「お似合いだと思いますよ。なんというか、先生には落ち着いていて、少し都会的な雰囲気が合う気がします」


「都会的、ですか?」

「はい。普段は落ち着いているけど、どこか芯が強い感じがして……素敵だなって思います」


ふと、彼の言葉が妙に真剣で、思わず顔が熱くなるのを感じた。


「……ありがとうございます。でも、私なんて普通ですよ」

「普通じゃないですよ。僕はそう思います」


彼の優しい笑顔とその言葉に、胸が高鳴るのを抑えられなかった。


マンションの見学を終えた後、近くのレストランで遅めの昼食をとることになった。

案内されたのは、静かな雰囲気の洋食店。時間的にはぎりぎりだったが、店の人が気を利かせてくれたようでランチセットが頼めた。

ごゆっくりと言いながらテーブルに並べられたランチセットを前に、二人の会話が弾む。


「今日は本当にありがとうございました。初めて見るものばかりで、すごく新鮮でした」

「こちらこそ。案内しながら先生の反応が面白くて、僕も楽しませてもらいました」


「それにしても、ずっと『先生』って呼ばれてると少しむずがゆいですね。そういえば……お互い、名字しか知らないですよね?」


「あ、本当ですね」

彼は少し照れたように笑った。「じゃあ、改めて。僕、斉藤陽介って言います。陽介って呼んでもらえたら嬉しいです」


「陽介さん……素敵な名前ですね」つい自然に言葉がこぼれ、彼の笑顔がさらに優しくなるのを感じた。


「僕も先生の名前、教えてもらってもいいですか?」

「あ……はい。相沢彩花です。彩花でお願いします」


「彩花さん……お似合いの名前ですね。優しくて明るい感じがします」

「ありがとうございます。でも、そう褒められるとちょっと恥ずかしいです」


彼が初めて名前で呼んでくれたとき、妙に胸がくすぐられるような感覚を覚えた。自分でも知らないうちに、彼との距離がぐっと縮まっているように感じた。


物件を見終わった帰り道。

ふとシートで並ぶ彼と自分が、まるで普通のカップルのように見えるのではないかと考えてしまう。そんな自分の考えが少し恥ずかしくて、会話が途切れそうになった時、彼がぽつりと話し出した。


「今日は来てくれてありがとうございました。なんだか、こういう仕事以外の時間も楽しいなって思えました」

「仕事以外……?」

「いえ、なんていうか。もちろんこれは僕の仕事ですけど、先生と一緒だと、なんだかそれだけじゃないような気がして」


その言葉に、胸がドキリとする。営業トークとしてもおかしくはない言葉だけど、なぜか彼の気持ちが本当に伝わってくるような気がした。


「……私も、楽しかったです」

自分の言葉に少し照れながら、彼の横顔を見つめる。彼が微笑んでこちらを見返すと、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……ぼくも、また、こういう機会があればいいなと思ってます」

ふいに言われたその言葉に、胸が温かくなるのを感じる。あくまで仕事の一環だとしても、彼の言葉にはどこか誠実な気持ちがにじみ出ていて、私はそれに心を揺さぶられていた。



数日後、病院でインターンの若い医師が廊下で看護師たちに囲まれているのを目撃した。


「久村先生、明日みんなでご飯に行くんですけど、どうですか?」

一人の看護師がにこやかに声をかけるが、彼は困ったように苦笑する。


「えっと……明日は少し予定があって……」

「え~、またですか?

最近ずっとそんな感じですよね!」


看護師たちは少し不満そうな顔をしながらも、なんだか楽しげにその場を離れていった。彼はその様子を見送ると、大きなため息をついて私に気づいた。


後で彼が一人になったタイミングで声をかけた。

「久村君、モテるわね」

「あ……先生、見てたんですか?」

「見ちゃったわね。ずいぶんモテるのね」

「いや、全然そんなことないですよ。本当にもう……僕なんかに何を期待してるんだか」


「そうかしら?周りの子たちは、あなたに興味津々みたいだけど」

「うーん、なんていうか……僕、ああいうの苦手なんですよね」


その言葉に、私はふと彼の鈍感さに気づく。彼はおそらく、本当に自分が好意を寄せられていることに気づいていないのだろう。

……それとも、本能的に防御しているのだろうか。


「それでいいの?」

「……何が、ですか?」

「何がって、彼女たちの気持ちよ」

「気持ち……」

彼は少し考え込むようにして、苦笑した。

「僕はまだ、そんな余裕ないですよ」


彼はそう言いつつも、どこか真剣な表情を見せる。


「先生も最近、なんだか楽しそうですけどね」

その言葉に少し驚きながらも、「そうかもしれない」と微笑んで返す。彼の言葉を聞いて、陽介との時間を思い返すと、胸の中が再び温かくなるのを感じた。

その時になって、初めて名前で呼び合うだなんて恥ずかしいことを、何の躊躇いも無くしていたことにおどろいた。


彼との次の約束はまだないけれど、少しずつ距離が縮まっているのを感じている。病院からの帰り道、私はふとスマホを見つめ、次の彼からの連絡を待っている自分に気づいた。


また、あの人と会いたいな……


彼との時間が次第に特別なものに思えてくる中で、私の心には確かな期待が生まれていた。




仕事終わりの夜。病院のロッカールームで白衣を脱ぎ、カジュアルな服に着替えていると、スマホが振動した。画面には「斉藤陽介」の名前。最近では「陽介さん」「彩さん」と呼び合うようになった彼。名前を見ただけで、胸が少し弾むのを感じた。


「もしもし、陽介さん?」

「……こんばんは、先生」


「先生?」

突然の呼び方に、思わず眉をひそめる。


「どうしたんですか?いつも彩さんって呼んでくれてるのに」


「いや……なんていうか、ふと思い出して先生って呼びたくなりました」

陽介の声はどこか沈んでいて、普段の軽やかさがない。


「ふーん、そうなんですか?」

そう答えながらも、私はその違和感に気づいていた。


「ところで、最近どうですか?忙しいですか?」

陽介が急に話題を変えるように尋ねてきた。


「まあ、いつも通り忙しいですけど……陽介さん、何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

「いや、彩さんこそ大変だろうなと思って。それに比べて僕なんかは、ちょっと調子が良くなくて……」


「……調子が良くないって?」私は怪訝そうに聞き返す。


「実は、成績があまり良くなくて……今の会社、辞めるかもしれないんです」

陽介の声がさらに低くなった。その言葉を聞いた瞬間、私はロッカールームにいることも忘れてベンチから立ち上がっていた。


「辞めるって……どうして急に?」


「数字がすべての世界なんですよ。だから、仕方ないと思ってます。でも、先生には関係ない話ですよね。すみません、変なこと言って」


「そんなことありません!」

思わず声が大きくなる。

「私にとって関係ないなんてこと、あるわけないじゃないですか!」


電話の向こうで一瞬の沈黙が訪れる。その沈黙が、彼の気持ちの重さを物語っているようで、胸が締めつけられるようだった。


「……ありがとう。でも、もう決まるかもしれないので。今日は、それだけ伝えたかったんです」


「待って、陽介さん!」

何かが崩れ落ちるような感覚が胸をよぎり、気づけば言葉が口をついて出ていた。

「……私、ワンルームマンション、買います」


「え……?」

陽介の驚いた声が返ってくる。


「買います。契約します。だから、あなたが会社を辞める必要なんてないでしょう?」


電話の向こうで、しばらく陽介が何かを考える気配が続く。


「……彩さん、本気ですか?」

「本気です。それであなたが救われるなら、私はそうします」


その言葉に、陽介が小さく息を飲む音が聞こえた。


「……わかりました。じゃあ、直接お会いしましょう。印鑑も、できればお願いします」


彼の声は少し震えているように聞こえたけれど、不思議と安心感も滲んでいるように感じられた。電話を切った後も、私は陽介を救いたいという決意で胸が満たされ、自然と背筋が伸びた。




約束の時間、私は病院から少し離れた小洒落た洋菓子店のイートインコーナーに足を踏み入れた。

緑色のジャケットが目に留まり、すぐに彼を見つけることができた。

彼はすでに席についており、テーブルにはケーキと紅茶が二人分、静かに置かれていた。


「お待たせしました」


「いえ、ちょうど来たところです」陽介が穏やかに微笑む。その笑顔を見た瞬間、胸が少しだけ落ち着くのを感じた。


席に着くと、私はカバンから印鑑を取り出して彼に差し出した。


「……これ、持ってきました。契約、お願いします」


しかし、陽介は印鑑を見ると、少し哀しげに笑い、ポケットから小さな箱を取り出した。


「契約は必要なくなりました」


「え?」


「結局、会社辞めました。もともと詐欺じみた勧誘は向いてなかったみたいです。誰かを幸せにはできないなって思って」


言葉を失った。まるで何かが崩れ落ちるようで、これで彼と二度と会えなくなるのではという不安が胸を締めつける。


「……これから、どうするんですか?」

気づけば、問い詰めるように言葉が出ていた。


陽介は苦笑しながら、小箱を静かに開けた。中には、シンプルな銀色の指輪が光っていた。


「少なくとも、一人は少しでも幸せにできるかもしれないと思っています」


「……え?」


さらに、もう一つの封筒を机に置いた。それは……婚姻届だった。


「僕にとって、幸せにしたいのは……彩さん、あなただけです」


目が潤むのを止められなかった。喉の奥が熱くなり、胸がぎゅっと締めつけられる。


「……そんなの……そんなの、突然すぎますよ!」


陽介は少し照れくさそうに笑いながら言葉を続けた。


「突然なのはわかってます。でも、彩さんと出会ってから、ずっと考えてたんです。本当に幸せにしたいのは誰だろうって。

それで、気づいたんです。僕にとってそれは、彩さんしかいないって」


涙が頬を伝うのを感じながら、私は震える声で答えた。


「……バカ、本当にバカね。そんなの、断れるわけないじゃない」


指輪を握りしめ、私は彼を真っ直ぐに見つめた。

陽介の少し驚いた顔を見ながら言葉を続けた。


「私だって、草津の湯でも直らない病気にかかってる患者を放っておけません」


陽介はその言葉に、心からの笑顔を浮かべた。そしてそっと小箱を彩花の前に滑らせる。


「詐欺師にはなれなかったけど、紐にはなれそうですか?」


私は小箱を手に取り、指輪をじっと見つめた。涙で滲んだ視界の向こうで、不安そうに返事を待っているのがわかった。


「詐欺師にはなれなかった? 何言ってるのよ……」

顔を上げて陽介を真っ直ぐに見つめると、判子を突きつけた。

「あなたは立派な詐欺師よ。口先だけで私の心を奪うなんて」


その言葉に、陽介は深く息を吐き、笑顔を見せた。


「そっか……それなら、一人を少し幸せに出来たんですね」


「そういえば、今日はジャケット、緑色なんですね。今日は白いドレスでくれば良かったかな?」


私の言葉に陽介は一瞬きょとんとした顔をしてから、ぷっと吹き出した。


「いやいや、トレンチコートの刑事さんにぼくが捕まっちゃいますよ」


「あ、やっぱり無し。だってあなたが逃げちゃうもの」

「大丈夫、彩さんなら、寧ろライダースーツ着て追って来そうですもん」


冷えた紅茶で喉を潤しながら、私たちは顔を見合わせ、自然と笑い合った。胸の中にあった不安も焦りも、まるで霧が晴れるように消えていった。ケーキの甘さと紅茶の香りが、二人の新しい未来を優しく包み込んでくれている、そう思えた。


なお後で聞いたら、久村君にも営業かけていたらしい。

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