第7話

 ついにこの日が来てしまった。卒業式という名の門出。


 普段とは違う、厳かな雰囲気の講堂。


 子どもがすっぽり入ってしまいそうな大きな花瓶に見たことない花がたくさん活けられていた。壇上に続く道にはえんじ色のカーペット。その周りにはパイプ椅子に座る三年生の生徒たち。後方には代表の在校生や保護者。


 薫子の周りにはすでに目元を押さえている者もいた。そうなるのも無理はない。誰もが脳裏でこの三年間を振り返り、別れを意識し始めたのだろう。


 薫子も同じだ。校長やPTA会長の話を聞きながらそっと目をとじる。しかし、心の中を一番占めているのはコウだ。


 彼女は事あるごとに教師たちの席に目を向けた。生徒の顔の向こうにコウの姿を見つけたからだ。


 彼はビシッと決まったスリーピースで身を包んでいた。


『小野寺コウです。理科担当です。今までは別の高校にいたので、今年入った皆さんと同じ一年生になりますね。共に成長していけたらと思います』


 今日の姿に入学式で初めて彼の姿を見た時のことを思い出した。あの時、柄にもなく一目ぼれをしてしまった。


 廊下で姿を見ることができるだけで嬉しかった。それが今は言葉を交わすのは当たり前、授業以外でもたくさん関わるようになった。


(先生……)


 視界がにじんできた。まばたきをしたら雫がすべり落ちそうだ。


 その時だった。わずかに顔を横に向けたコウの姿を捉えたのは。


 見ていたのを悟られるのが恥ずかしくて視線を落としたが、顔を上げたら再び目が合った。


(……まさか)


 自分のことを見ていたわけではないだろう。しかし、最後にいい思い出になったかもしれない。薫子はうつむき、そっと涙をこぼした。











 卒業式が終わり、三年生たちは最後のホームルーム中。


 コウは化学室の黒板をぼんやりと見つめていた。教卓にもたれかかって。


 式典の間も薫子のことを気にしていた。もしかしたら視線を向けていたことがバレたかもしれない。


 彼女が目を見開いた姿は心に焼き付けた。


(……バレてもいいか。今日が最後なんだし)


 教卓の前でくるりと体の向きを変えると窓際が目に入った。それが引き金となり、この一年にあったことがよみがえる。


 泣きながら寝ている薫子を(神崎が)見つけ、彼女と不思議な関係が始まった。


 進路のことを個人的に応援したり、授業外で勉強を教えたり、文化祭で一緒に写真を撮ってバレンタインにチョコをもらって。すれ違った時にほほえみ合う生徒は彼女だけだ。


 しかし、それももう────


 潔く身を引くのは大人の男としての役割だろうか。コウは言い訳を並べる自分に自嘲気味に笑った。











 最後のホームルームが終わり、薫子はスマホでクラスメイトと自撮りしていた。


 笑顔を浮かべて画面に収まる度、心の中にもやもやが広がっていくのが分かった。


 最後の最後でコウと何も話さずに、ここを巣立っていくことになるのだろうか。


 それはそれで自分らしいと思ってしまった。だが。


(そんなの……嫌だよ)


 心の中でくすぶりが高まってきたのが分かった。今まで我慢していた分だ。


 誰かのスマホに写った薫子の笑顔が曇り、ピースをしていた手が下がっていく。


「カオ?」


 異変をいち早く感じたらしいアンがギャルピースを下ろした。


 その横ではスマホをポケットから取り出した男子生徒が顔を赤らめている。


「……行かなきゃ」


「え? どこ行くの!?」


 ついに爆発させる時が来たのだろうか。アンに”ごめん”と声をかけ、輪から外れた。それと同時にミツヤが男子生徒の背中を押して現れた。


「カオー、こいつが一緒に写真撮ってほしいってー。あと連絡先交換したい……ってあれ?」


「壱善さん……!?」


 後ろでアンとミツヤの声がしたが、薫子は教室の外へ飛び出た。






 コウは化学室にいた。何をするでもなく、教卓に手をついて。


 職員室にはいない、と言われて真っ先に思いついた場所だ。一刻も早く言葉を交わしたくて職員室から駆け出した。


 いつも通りのこの場所は一年間でたくさんの思い出ができた。


 将来に不安を感じて泣いた。


 就職活動の進捗を報告した。


 アンと彼と三人で勉強をした。


 そして今日は。


「カオちゃん────卒業おめでと」


 コウは突然現れた薫子を出迎え、いつも通りの笑みを浮かべた。


 笑顔を向けてもらえるのも最後だと思うと胸が締め付けられる。正直締め付けられるどころではない。明日からどう生きていったらいいかも分からない。彼の存在はまるで生きがいのようになっていた。


「あのっ、先生」


「ん?」


 息を整えるよりも先に声を発したせいで、うわずった声になってしまった。


「今まで……ありがとうございました。本当に────」


 これ以上話したら泣いてしまう。唇をかみしめると、コウは続きの言葉を待つように首を傾げた。明日からはこうして話せなくなるのだ、と否応なしに実感する。


 我慢が効かなくなった涙腺がほどけ、涙が頬に滑り落ちていく。また彼の前で泣いてしまった。


「カオちゃん……」


 コウが壇上から下りた。なんて声をかけたらいいのか迷っているのだろう。手を伸ばしかけたが、悲痛そうに握りしめる。


(先生に気を遣わせちゃう……)


 言葉を続けようとしたら顔が歪んだ。薫子は必要最低限の別れの言葉を思いつき、弱々しくほほえんだ。


「お元気で……」


 制服の袖で目元をこすり、コウに背を向けたら肩をつかまれた。


 なぜ引き止めるのだろう。強めにつかまれたせいで動けない。


「なんで……泣いてるの? 卒業するのが寂しい?」


 薫子はうつむいたまま首を振った。確かに寂しい。しかし、それだけではない。


 伝えたかったことを胸の中で紐解き、コウの方へ振り向いた。唇の震えを止める術はただ一つ。薫子はそっと息を吸った。


「……このままじゃ嫌なんです」


 この涙の本当の理由は、きっとコウには想像がつかないもの。涙をためた瞳を伏せると涙が宙を舞った。


「……先生と離れたくない。やっとたくさん話せるようになったのに。あの二年のコが先生と……今以上の関係になったら立ち直れないです」


 顔を上げると、コウは"え……"と固まっていた。


(私が先生のこと好きなんて、誰にも思いつけないんだ……)


 止まらない涙と連動して唇が開く。隠し続けてきた感情が一気に外へ出て行く。


「好きなんです……。先生のこと。誰にも取られたくないって初めて思った」


 コウの表情が驚きに変わった。


 言ってしまった。もう後戻りできない。薫子は口元を両手で覆うとうつむいた。


 静かな沈黙が流れたのが、まるで返事を待っているようで恥ずかしい。


 この場からすぐ去るべきだろうか。コウに再び背を向ける前に、彼の声に引き留められた。


「俺は……生徒とは付き合ったりしないよ。あの生徒は他の先生にも同じことをしてたしね」


「そ……なんですか」


 安心したせいで気の抜けた声になってしまった。


 あれから二年生の女子生徒がコウに絡んでいるところは見ていない。彼女の姿すら見た覚えはない。


 しかし、自分の知らないところで二人の距離が縮んでいたらどうしよう、とやきもきしたものだ。


 コウは肩にのせた手を離すと”はは”、と笑った。


「先生相手にそんなこと言っちゃダメじゃん。動揺するでしょ。……で。先生はさっき、生徒とは付き合わないって言ったけど。カオちゃんはもうすぐ社会人になる。生徒じゃない」


「はい……」


 コウは何が言いたいのだろう。彼は突然、姿勢を正した。咳払いをした様子はおどけているが、その瞳は真剣そのものだ。薫子も自然と背筋を伸ばしていた。


「壱善薫子さん────俺もあなたが好きです」


「え……。はえ?」


 今度は薫子が驚きで固まる番だった。


 物を言わぬ岩になりつつある彼女がおかしいのか、コウは破顔した。ここまで感情をめいっぱいあふれさせた表情は初めて見た。


「……からかってます?」


「からかってません。本気だよ。このまま会えなくなるのは俺も嫌だよ。絶対に後悔する。でも俺から想いを伝えたらいろいろ都合が悪いからさ……。君が勇気を振り絞ってくれて嬉しい」


 こんな都合のいい展開が訪れるなんてにわかに信じがたい。薫子は疑いのまなざしでコウのことを見上げた。


「信じられない?」


「……」


 コウは仕方なさそうに笑うと、薫子の背中に腕を回した。


 彼の腕の力は優しくて、彼の香りと想いに包まれて夢見心地だ。同時にコウの早い鼓動を直に感じた。彼も緊張しているのだろうか。そのことが嬉しかった。


「これでわかった?」


「は、は……」


 コウの低く甘い声が間近に、頭の上から降ってくる。そのことに胸がきゅうと締め付けられる。これは嫌な痛みではない。薫子は奇跡のような幸せに鼻を鳴らし、彼に身を委ねた。


 彼はそっと腕に力をこめた。


「……俺さ、カオちゃんがミツヤ君と話してるだけでヤキモチ妬いてた。アンさんに話しかけたらカオちゃんとも話せそうな気がしたり……。ホント、考えることが中坊だよね」


「いえ! むしろ嬉しいです……。ヤキモチ妬いてたのは私だけじゃなかったんだ……」


「その節はごめん。でも俺はカオちゃん一筋だよ」


「私もずっとずっと、コウちゃ……先生のことだけ……」


「カオちゃんもコウちゃんって呼んでくれてたんだ?」


「いっ今のはなかったことに……!」


「しないよ。ますます離したくなくなるなぁ……」


 冗談ぽく笑ったコウだが、ますます彼と密着した。薫子はコウの胸に耳を押しあて、目を閉じた。


(ずっと好きだった人とこうなれるのって、こんな気持ちなんだね……)


 初めて感じたぬくもりは、きっと一生忘れられない。


 否、この恋は一生忘れたくない。









 初めて抱きしめた薫子は温かく、ふんわりと優しい香りがした。薫という文字は彼女のために存在しているのだろう。


 コウはそっと、彼女の頭にキスを落とした。


 好きになったのは意外な相手。自分より若く、それでいて大人っぽい。


(神崎君みたいに呼んでるなんて考えたこともなかったよ)


 突然の可愛らしいギャップをもっと見たい。


 これを最後の恋にしたい。

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