第6話

 過ぎさっていく平穏な毎日。


 あれからコウとニ年の女子の絡みはない。それは単に薫子が目撃してないだけ、かもしれないが。


 授業中でも廊下ですれ違う時でも、目が合えばコウはいつでも笑いかけてくれた。その度に自分がいつになくほほえんでいる。


 コウのことは好き。確実に存在している感情は、いつも切なく心を締め付ける。


 好きでもこれは、自分の一方的な気持ち────片想いだ。


 コウが進路を気にかけてくれたり、授業以外に勉強を教えてくれるのは彼が優しいから。


 文化祭で話しかけてくれたことも、一緒に写真を撮らせてもらえたことも。自分に気があるからではない、決して。


 勘違いしたらダメだ。コウから見た薫子はただの生徒の一人でしかない。


 それでも、最後くらいは”好き”と言いたい気持ちが生まれていた。


 入学式からずーっと好きだった、と。


 今まで会ってきた先生、男の人の中で一番だった、と。


 しかし、そんなこと言ったらコウは困った顔をするだろう。


 吐き出したい気持ちはいつも、コウを見ると心の奥へ引っ込んでしまう。











 二月十四日。


 この日、コウは朝から浮き足立っていた。彼は二限目の授業が終わると自販機へ行き、小銭を一枚ずつ入れた。


 その後ろでは生徒たちが小さな紙袋を片手にせわしなく歩き回っている。


「あ、いたいた! はいこれ」


「やばっ何これ!? 高校生が作ったらあかんクオリティ……!」


 この学校の生徒のほとんどが年明け前に進路が決まる。だから三年生は二月に入ると、指定の日以外は自由登校となっている。だが毎年、この日はたくさんの三年生が登校する。


 理由は単純。バレンタインということで、恋人にチョコを渡したり友だちと交換するため。なかには教師にくれる生徒もいる。


 背後にいる彼女たちは紙袋から小さなプラスチックの袋や箱を取り出して交換している。


 スマホで落ち合う場所を連絡していたのか、コウのことを気にしながらポケットにしまい込んだ。


(今日くらい大目に見よう……)


 コウは取り出し口から缶コーヒーを二本取り出し、彼女らに背を向けた。


 あたたかいというより熱い缶を腕に抱えると、女子生徒に呼び止められた。どうやらチョコをくれるらしい。受け取ると、色とりどりのハートがプリントされた袋に個包装のチョコが詰められていた。いかにもな義理だが、今の彼には受け取りやすい。


 彼女は去り際に振り向くと、コウに向かって指を突き付けた。


「せんせー! お返しは三倍ね!」


「そんなこと言ったってホワイトデーには卒業してるじゃん」


「受け取りに来てあげるからさ!」


「もはや取り立てじゃん」


 そんなやり取りをしていたら、後ろを通りすがる男子生徒に羨望の眼差しを向けられた。


 職員室に戻り、買った缶コーヒーの一つを神崎のデスクに置く。


「お、ありがと」


「ん」


 コウのデスクにはもらったチョコの山ができている。不在時に置かれたもの、移動中や授業前に渡されたものなど。この時期の風物詩だ。


 小腹が空いたので一つ手に取ると、神崎が椅子ごと体当たりしてきた。缶コーヒーをさっそく開けたようだ。


「カオちゃん来るかな~? 来るといいね~コウちゃん」


「……声デカいよ」


 神崎には何でもないフリを装ったが、内心期待していた。


 薫子にバレンタインにお菓子をもらったことはない。しかし、今年は関わることが多かった。もしかしたら……を捨てきれなかった。











 もうすぐ卒業式。そして今日はバレンタイン。


 薫子は学校へ行く前にミツヤの家に来た。幼なじみである彼には毎年、この日にお菓子を渡しに行っている。


 私服姿のミツヤに、あくびをしながら出迎えられた。


「今年何作ったの?」


「ボンボンショコラ」


「なんかすごそう……。料理は見た目より味、味より愛情とか言うなよ?」


「言いません!」


 ミツヤはそうやって憎まれ口を叩くが、毎年お返しをかなり豪華にしてくれる。


 彼には人の恋愛を心配する前に自分のことを気にかけてほしい。なんだかんだ言って付き合いの長い、唯一の男子の幼なじみだ。


 ひとひねりあるが、彼女ができたらとても大事にすると思う。幼なじみである薫子のことを何かと気にかけてくれたから。 


「じゃあ、私は学校に行くから。またね」


「おーう。チョコあげる男でもできたのか?」


「内緒!」


 ”着いてってやろうか?”とニヤニヤする彼に背を向け、自転車にまたがった。






 薫子は登校した同じクラスの女子たちとお菓子を交換した。もちろん他のクラスや部活の友だちとも。


 授業時間中には教室で、試食用と言われて差し出されたのを食べた。


 昼休みになると職員室前に来た。日頃お世話になっている先生たちに渡すためだ。薫子はラッピングした小箱を制服のポケットに忍ばせていた。


 これはコウに渡すために、特に綺麗にできたボンボンショコラを入れている。何度も味見をし、クラスの女子たちにも褒められたので見た目や味の心配はない。


 人生で初めてラッピングに緊張した気がする。味がよくても見た目がいまいちでは格好がつかない。ネットで調べ、小箱やラッピングの色の組み合わせを凝った。張り付けたシールの角度にもこだわった。


「カオ、ありがとね。付き合ってくれて」


「う、ううん。全然。暇だったし」


 表向きはアンの付き添いだ。横で彼女がお菓子を詰めた袋を両腕で抱えている。


「まずは担任でしょー?あと教科担任とか~……」


「アンって意外とそういう気配りできるよね」


「意外とか言うなや」


 彼女に小突かれた。こんな絡みもあと少しでお別れだ。


 アンとは三年間ずっと一緒にいた。もうしばらく一緒にいられたら、と心の中でしんみりした時。


「っあ! 中井先生だ! ちぇんちぇー!!」


 アンが好きな先生を見つけ、彼女は横から消えてしまった。去っていく背中が寂しい。


 中井は一回だけ、薫子たちのクラスに臨時で授業に来たことがある。


 その前からずっと彼を推しているアンは、”授業中ずっと胸がドキドキしてしょうがなかったわ~”と幸せそうにつぶやいていた。


 薫子はアンや二年生の女子のように積極的にはなれない。叫びながら走るなんてとてもできない。


 苦笑いをした薫子は、誰かに呼ばれた気がして振り向いた。


「……わっ」


 そこにいたのは彼女の大本命。


 ジャケットの前をきっちりしめたコウが手を挙げていた。


「学校来てたんだね」


 アンにバレないように渡すには……と画策していたが、絶好のチャンスだ。薫子はポケットに手を忍ばせた。


「バレンタインだから友達にお菓子配ってました」


「へ~。ところでカオちゃんは……男子にあげたりするの?」


「ミツヤには毎年あげてます」


「……そうなんだ」


 ……今、少しだけコウの視線がそれたような。


 薫子はアンが中井に夢中な内に、とポケットから小箱を取り出した。


「進路のこととか、勉強とか……いつもいろいろありがとうございます。文化祭で写真を撮ってもらえたことも嬉しかったです」


 口から出てきたのはびっくりするほどありきたりなこと。好きのすの字も出なかった。


 だが、今はそれでいい。今回のチョコは日頃の感謝を伝えるためだから。


 目を伏せて差し出すと、周りの音が耳に集まってくる。遠くで”愛してるー!”と調子に乗ったアンの声も、チョコがほしいとわめく男子生徒の声も。


 一向に反応が返ってこないコウに、似合わないことをしたと後悔が生じた。


 顔を上げるとコウは呆けていた。後ろで”コウちゃん先生またチョコもらってるー”という声にも反応しない。


「……急にすみません」


 やはり迷惑だっただろうか。小箱を引っ込めようとしたら、コウの手によって引き留められた。


 驚いた顔から嬉しそうな表情に変わったのが嬉しくて、薫子の表情筋が和らいだ。いつの間にか強張っていたようだ。


「カオちゃん、ありがとう」


「……はい!」


 ミツヤと違い、スマートにお礼を言ってくれたことが嬉しい。自然と口角が上がり声も高くなる。


 コウは小箱に目を細め、大切そうに両手で包み込んだ。


「こんな風にお菓子をくれたコ、初めてで嬉しいよ」


 初めて、という響きに頭がぽーっと熱を生む。まるで自分たちだけ別の次元に取り込まれ、周りの景色も音も遮断されたような。


 彼と向かい合っている、ということを急に意識してしまった。恥ずかしさにうつむき、髪の毛の先をいじった。


「カーオ! そろそろ教室戻ろ」


 肩に手を置かれた。アンの声に現実に引き戻される。髪の毛から手を離すと、コウに向かって勢いよく頭を下げた。


「あっ、うん。……では失礼します」


「うん、じゃあ」


 コウに背を向けた時、気づいてしまった。まだまだ一緒にいたいと思うのは、友だちや幼なじみだけではないことに。











 ラッピング袋に印刷されたハートに勘違いしそうになる。コウは受け取ったばかりの小箱を見つめ、上がった口角を手で隠した。


 密かに期待していた、薫子からのチョコ。


 差し出した時の、はにかみ顔に照れが加わった表情。クールキャラがあんな可愛らしい一面を見せるのはずるい。ギャップにやられる。


 コウは職員室に戻る前に、薫子が去った方向に顔を向けた。


 今はまだ、背を向けられてもまた会える。


 だが、しばらくしたら────


 その後ろ姿すら見ることは叶わなくなってしまう。


 彼女と会える回数は段々と減っていく。


 センチメンタルな表情で職員室の引き戸を開けたら、すぐそばで神崎がニヤついていた。

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