キャベツ

枯れる苗

キャベツ

一、エチュベ

寄りかかる壁には冷たく押し返される。昨日貴方が僕に掛けた言葉と同じ様な、水色の炎だ。僕の焦りがまだ頂に達していないことだけが昨日と違う所だろう。甘い香りの漂う街で、口から漏れ出す泥を見ないように空を見上げる。人が群れを成して右から左へ。拘束された不自由なままの奴隷達を連れていくハーメルンよ、僕の元へ早く現れ給え。ハーメルンは僕を見下す。

「大人に憧れる醜いナンセンスよ。素面の君に齎される幸福とは、風流とは、なんたるや」

僕の待人にハーメルンという名前は似合わない。貴方はエウロパ、決して近付いてはいけない星。それは時に太陽で、それは時にウイスキー。街はとめどなく煩くなる。ここへ向かう貴方がこの音を聞いて嫌になって逃げるかもしれないけれど、そうなってしまっては知る由もない。

例えばここにいる老人の足を引っ掛けよう。転ぶ老人を二、三人の無垢なる民が踏み付ける。それから後ろの者たちは避け始め、老人の周りに塩を撒いたような空洞がうまれる。ここまでは良い。しかし、この先が厄介だ。助ける者たちが、厄介なのだ。こいつらは善に非ず。選ばされた選択を選択と呼ばない様に、選ばされた善を善と呼ぶべきでは無い。無学文盲の救世主である。

さらにこのつまらない劇での僕の罪は、あの設定に選ばされた悪であろう。僕は悪、足り得ず。無辜の犯罪者だ。何もかも下らぬ世間の掌の上で、貴方の到着を待つ。貴方が訪れるならこの世の善も悪もその舞台の上から飛び降りよう。例えばこの人生に作者が居るのならば、その作者の正義に、貴方は従わない。しかし、悪にも従わない。自由な貴方に世間は似合わない。

人混みの中に一筋の亀裂が入った。そういえばようやく集合時間になる頃だ。彼女は落ち着いた足取りで、気が付くと僕の隣に居た。

「そろそろ飽きた?」

「何に?」

彼女の第一声を理解するのに時間がかかった。それから僕は少し考えて、頷いた。

「『私を待つのに』って事よ」

僕より少しだけ背の低い彼女は、屈んでいる僕を上から見下ろして頭を優しく撫でた。彼女の手は広く、優しい形をしていた。頭に乗った彼女の手を持って、立ち上がる。夜の街を通り抜ける風は、彼女の短い黒髪をさらりと撫でた。それがもし僕の手ならば、愛というものを語れるのだろう。

僕は彼女に手を引かれ、美しく光り輝く街を歩く。ラーメンの香り、揚げ物の香り、香水の香り。そしてまたラーメンの香り。十分に満ち足りた心を、それでも刺激する芳香は淡い色合いの湯気をあげる。二歩後ろを歩く僕を、彼女が気にかけた。

「夕飯食べてからにしようか。ごめんね、焦っちゃった」

「大丈夫だよ。僕も期待してる」

腹拵えなんてして冷めたら困る、僕も彼女も。彼女の頬には桃色のチークが薄く乗せられていた。


キツい煙草の臭いがする。煙草を飲む奴の匂いは、幼少期を思い出して嫌だ。こういう安いホテルには、決まってその匂いが漂うのでそれは一種の腐食なのだろうと考察した。ある時に眺めた絵画を思い出す。たった二文字の漢字を、二枚も三枚もの絵を使って著したものだ。もし僕が腐食を描くなら、きっとモデルは煙草になるだろう生命を終えようとする草木に、腐食は似合わない。汚い口を慰める死んだ雑草共こそ、生命に対する冒涜で、腐食足り得る悪魔の所業である。

エレベーターに乗り込んで、彼女の匂いが強くなった。彼女は僕を見つめて、喉を鳴らす。美しき色慾が空気中を漂っていた。これが僕の鼻腔に張り付いているのだ。呼吸の苦しさなんて実はなくて、そこに有るのは不自由な僕だった。エレベーターが三階に着くまでの時間はほんの少ししかない。そのたった少しの時間に心臓の鼓動は何度も何度も鳴り響く。

ようやくエレベーターが止まる。開かれる密室から二人分の荒い呼吸が漏れ出す。それからまた来た時と同じ様に彼女が手を引いた。今度は少し強引で、それがなんだか可愛らしかった。僕の笑顔に彼女が気付いて、少し焦った様子になる。

「なんで笑うの」

彼女は幸せそうに僕を責めた。可愛らしいその様相は僕の内臓をしっかり掴んだ。

「可愛いから。いつもかっこいいのにさ」

そのまま部屋の扉が開いて、吸い込まれるように僕らは入っていった。部屋の中にもう煙草の臭いはない。綺麗に整頓されたベッドとソファーと大きなテレビが印象的だ。眩しすぎる程明るいライトを消して、それからは彼女と僕の秘密が始まる。彼女は強く僕を抱き締めた。背中に刺さる針に気付かれるのが怖くて、目を閉じる。彼女が優しく頭を撫でて、僕の目を見るので今まで感じた事ないくらいの感動を覚えた。

幸せが形を成して現れた。この人が永遠に自分のものになったなら、僕はこれからどう生きていけば良いだろう。何も目的が無くなってしまいそうで怖くなってきた。いつだって、幸せは際限なく、欲望も際限なく。身を焦がす程の熱は次第に風呂の温度より冷めたものになってしまう。それはとても寂しいことで、今この時点の僕の心を突き刺す一本の針になるだろう。

彼女の肌が私に吸い付く。唇は幾度となく重ねられ、彼女の口内を鮮明に記憶する。ザラザラとした舌の感触が固くなったり、柔らかくなったりしてくすぐったい。まるで元からひとつだったみたいに、私と彼女の間の空間は埋まった。何不自由なく生きてきたのは、この身体を知らなかったからだろう。僕の幸せが塗り変わってしまいそうで怖くなった。お互いの呼吸は荒くなるのに、心が段々淋しくなる。

重なる唇から熱が崩れ落ちていく。彼女の髪は乱れて落ちた。唇に灯る赤い生命が私の心を震わせた。これで僕はまた、何不自由なく生きていけるのだ。あぁ、これが僕なのだと安心する。いえ、安心とは少し違う。ただ、愛を身体に取り込んだ様な満足感が有る。僕の、身体になったのだ。彼女の身体から漏れ出す腸達は、閉ざされた世界から解放されている。ほんの少し前までは僕に感謝していたのに、飛び出た瞬間、掌を返したように冷たくなった。空気に触れてはいけないのに、それしか望まないからそうなるのだ。しかし、そんな愚かさの悉くが愛おしい。

まだ身体の中心に熱が残っている。それを確かめるように触って、唇から吸い取る。いつものあの甘い香りのままだ。きっとこの匂いを嗅ぐ事ができるのは最後だろうから、一生懸命この欠片を集める。

「待つのを飽きるわけないよ。もちろん、会えて嬉しいけれど、待っている間に君を思えた」


着替えた服は洗剤の良い匂いがして、汗ばむ体をお湯に浸した事が今になって正解だったと確信した。この爽やかな夜空に、愛やら恋やらが満たされた体をひとつ走らせる。届かないはずの星はそこら辺で蹲って、主の奴隷に成り果てた。奴隷の奴隷なんて、あぁ、なんて残酷な関係だろう。全て壊してあげたい。そうしなきゃとても惨めで可哀想だ。やることは多いのに、任務も責務も置いておいて、ただこの自由な空の中を走り抜ける。心臓はいつにも増して早く鼓動を打って、肺の中に痛みが走る。それでも楽しくて、右に一回転、左に二回転。花びらみたいにふわり、ふわり。

背中に翼が生えていない事が不思議で仕方がなかった。道行く誰かに聞こうかとも思ったけれど、皆、目立つ僕から目を背ける。自由が嫌いなのだ。自由とは安心の無いもの。罪の類義語。不良なエウリュディケ達よ、可哀想に。僕が手を引こうものならば振り返ったりせずに安全に解放してあげよう。

いずれ訪れるサビは、このAメロを彩る。僕はそれまで待たなければならない。だから、この焦燥感を抑えつつ、カフェだかバーだか分からない店に入った。バーの中に充満する香りは、程よく燻されたドライフラワーのようだった。つまり、結局のところどうせ不快も爽快も気分の中で揺れ動くもので、客観的な事実に基づいた話じゃない。雰囲気のいい店内、暗い雰囲気の静かな世界。

「今日か、明日でしょう」

若い男の声が暗い店内を巡回する。それが貴方の声だと気が付いて、僕の心は今日一番の鼓動を刻む。これが運命で無いならば、僕の快楽は終わりを迎えるだろう。幸い僕の話で盛り上がっているご様子だ。

「あー、謝謝。一杯目はモヒートと決めていましてね。酒に大して強くないので、慣らさなきゃ。では失礼。あぁ、これはなかなか、良いお酒ですね。好、好。そう、あの連続殺人鬼のお話でしたね。そう焦らないで、佐々木くん。そう、その通り。今日か明日と言いましたとも。しかし、もし今日ならばこの時間帯だと終わっているでしょうな。この間もそうでしたでしょう。えぇ、えぇとも。そう。だからこうやって酒場に来ればうっかり奴が姿を、そう。あの男の恐ろしいところはその行動の悉くが抜け目なく、それでいて幸運の中にいる。まるで、その様にして生まれたみたいに。出入口付近に立っていてくれませんか。嫌かい。不好、不好。別に構わないですけどね。佐々木くんはそうやって、不好、酔いを理由に成果を取り逃すんだから仕方ですね。もしかして、これもやはりその幸運と言うやつなんでしょうね。好、好。面白い。凄まじい程の警戒心とか、トリックとか、そういうんじゃないなんて面白いではありませんか。時々いらっしゃいますよね、不好。私はそういう方、嫌いなんですけど。どんな努力や才能も、なんか変な力みたいなものが、適当にどうにかしちゃって、それで勝ち残っちゃう様な、そんな人。貴方のことではありませんよ。冗談辞めてください。才能もなければ努力もしない癖に、変に自分を高く評価している君が面白いんです。そばに置く理由なんて、それだけですよ。あら、落ち込むんですね。不好。笑うところですよ。好、好。佐々木くんの飲んでいるそれはなんでしょう? ウイスキー、メーカーズマークの。好、好。良い夜になりそうな予感がする酒ですね。なんですって? なに、テキトーではございませんとも。マスター、このカウンターに居る人に、そこの、彼。そう、あの可愛らしい顔付きの彼に、好きなお酒を一杯贈ってください。謝謝。そう言えば佐々木くん。昨日一通の手紙を送ったよ。あの酒場でね。不好、佐々木くん。そう怒らないでください。警察官であることくらい彼も分かっているのさ。なんて言ったかだって? やはり、気になるかい。好、好。それでは聞いてみましょうか。さっき店に入ったくせにマスターではなく私達の話に耳を傾ける私の左、三つ先のカウンターテーブルに掛けた君にだよ。はぁ、不好」


せっかくのお気に入りのコートを近くの客に被せて来てしまった。路地裏にはネズミとゴキブリと僕が居た。しかしこれでようやく分かった。あの男はやはり、舞台を壊す男だ。跳ねるように波打つ鼓動は、幼少期に玩具を買ってもらった時のようだ。汚い世界に落とされた様な状況である筈なのだが、彼を憎もうなんて微塵も思わなかった。



二、コールズッペ

朝日が何もかも忘れさせてくれていた。あの佐々木という男の顔は覚えていないけれど、彼の顔は明確に思い出すことが出来る。その顔と瓜二つのものが今、目の前の鏡に配置されている。僕の見た目は年よりかなり若く見える。それが珍しいものだから、有名人や近所の者に例えられることはなく、雰囲気が柔らかいだの、狐のような顔だのと例えられた。きっと、世界で僕と彼だけなのだろう。僕は彼に似ていて、彼は僕に似ている。まるでナルキッソスの様だ。うっとりする。今まで自分の顔なんて見るだけで嫌な気持ちになったのに。鏡が僕の息で曇る。それが鬱陶しく思えるくらいに、今は、近くでみていたい。鏡が割れてしまえばいいのに。そうしたら貴方がここから出てくるかもしれない。美しい世界の中に、閉じ込めたままの貴方をこのまま取り出してしまおう。破裂音がして、我に返る。右頬と、右手が赤く充血している。「恐ろしい、なんて恐ろしい」。僕自身の手で僕自身に罰を与えたのだろうか。


僕は下を向いて、子供用の靴を見つめる。僕には似合わないはずなのに、僕は革靴が履きたかったのに、母はそれを許さなかった。「贅沢言わない」と、何度も聞いた台詞だ。

「それで、まだ口答えする気かい」

僕は首を振って応える。たしか万引きをするのを嫌がったのだ。僕の身体にいくつものアザができて、目の前に暗い靄がかかり始めていた。

少し前、小学校に通っている同じくらいの歳の子と話す機会があった。しばらく風呂に入っていない自分と、まるで新品の私立の制服を着た彼がまるで別の生物みたいで苦しくなった。頭に綺麗な青い日除けのようなものが着いている。頭を覆うそれが気になって指をさして聞いてみると、彼は無視して僕の腕にある酒瓶を見た。

「物を盗んじゃいけないんだよ。全く、不好。ほんの数年前までは良い子だっただろうに」

それを聞いて、僕は実に自分が悪いことをしているのだということに気付いた。追ってきた男達が僕の首を掴んで持ち上げる。しかし、大人に殴られる事は僕に対する真なる教育にならなかった。彼の言葉は天の使いの様に、僕の心に染み込んだのだ。僕がこの瞬間にようやく善の世界に取り込まれたのだろう。あの時の快楽は忘れられない。真に救われたのだと思う。

「それで、酒はどこにあるの? 早く持ってきなさい」

母の声は僕を頷かせた。傷だらけのまま家を飛び出した。赤く腫れる頬は痛みを火照らせて、僕の善を吸い上げていくようだった。明確では無いけれど、僕の行動はどうしようも無いところで何か掛け違えている。そこでようやく僕は気が付いた。あの子と僕は違う生物なのだ。姿形だけなどでは無く、全く別の生態系を持った生物なのだ。あの子に習って生きる事は善ではない。あの子にはあの子の生き方があって、僕には僕の生き方を見出さなければならないのだ。

僕は酒瓶を洋服に、何本も何本も入れた。今まで狙っていた安酒ではなく、高い酒を何本も、何本も。勿論、店主が気付いて追いかけて来る。捕まったら殺されてしまうだろう。重い酒瓶は僕の脚を止めようと必死に藻掻く。家に、早く家に着いて。そうすれば僕の善は完成されるのだ。そこら辺にあるどうってことの無いくだらない石ころが僕の足をとる。両脚が宙を舞う代わりに、両腕が地面に擦れる。痛みに耐えきれずどうにか肩に重心を逃がす。しかし僕の革命の意思は際限なく溢れ出た。血だらけになった僕であったが幸い二瓶だけでも守ることが出来た。あとひとつ角を曲がれば直ぐに家に着く。門もなければ窓ガラスもないので、飛び込むだけだ。何とか力を振り絞って走る。

「小汚い餓鬼なんて一銭にもなりやしないんだから。割れた瓶より価値がないよな」

僕の後ろに低い声の男が立っている。

「殺さないでおいてあげたのに。頭も悪ければ見逃して貰った恩義も無い。これは全く困った」

後ろの男は、冷静な口調だった。しかし、それは僕を許したからでは無い。散々怒鳴る声を聞いたからこそ、この僅かな違いについて気付くことができる。恐ろしくて下半身から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。あと、たった一つの角を曲がるだけなのに、こんなにも遠い。

後ろを振り向くと男の手に握られていたのは鋭い包丁であった。見た事ないほど大きいものだ。きっと料理なんかに使うやつとは違うのだろう。僕の首を掴むと身体を軽々持ち上げた。血が滴り落ち、涙が止まらない。

「痛そうだな、まぁ、可哀想っちゃ可哀想だな。でも悪いことは悪い、そうだろ。お前が死んだって一銭にもならないけど、お前が生きていると俺にとって損なんだ。分かるよな。俺の苛立ちももう限界なんだ」

そのまま力なく投げ飛ばされる。この男は僕が走って逃げれない事を知っているんだ。だから、投げ飛ばした。痛め付けて、少しでも僕の死に価値を持たせようとした。しかし、これが僕にとって幸運だった。僕が叩きつけられたはずの壁は、その衝撃に耐えきれず、崩れた。

「何してるのさ、あら、騒がしく帰ってきた割にはちゃんと持って来たのね」

僕の背中に灯る水色の炎は、ここに来て大きく燃え広がった。血だらけの身体の痛みが蜘蛛の子を散らす様に消えた。

「ほら」

ぶら下がるように垂れた両腕で二本の酒瓶を母に投げつけた。母は物乞いのように飛び付いて、抱き抱えた。

「危ないじゃないか、あんた! 親に物を投げるなんて」

母の視界にもう僕は居ない。そこに居たのは酒屋の親父だ。酒屋の親父だって馬鹿じゃない。薄々気付いていたに決まっている。小さな餓鬼が必死に酒に飛び付くなんて、おかしい話なのだ。母は醜い身ぐるみを簡単に剥がされて、暗がり引き摺り込まれた。


気持ちの良い夕陽は直ぐに遠くへ去っていって夜が来た。家の奥には母の死体がある。鼻を突く様な生暖かい空気が気持ち悪い。その様子を見たいとは思わないし、住処を移すべきだと思った。

「坊主、ざまぁみろ」

家の奥から出てきた酒屋の親父は愉快そうに笑いながら帰った。

街の中心の方はそろそろ明るくなる頃合で、こっちの方は時期に夜がくる。僕は清々しい気分で星空を眺めようと天井の抜けたリビングで横になっていた。

「悪いことは、悪い。僕は良い子」

例えば、僕の人生に良いことがあったのなら、僕は復讐をしたくなるんだと思う。けれど、どうにもそのやる気は起きない。なぜなら、母が悪かったし、僕が悪かったからだ。お酒を盗んでは行けないし、子供殴ってはいけないからだ。罰が下るのは正解だし、酒屋は全くの被害者だ。僕らの悪事のせいで、ヒーローを演じなくちゃいけなくなった。しかし、どこか変だ。心の中に一筋の闇がある。これは放って置いてはいけない問題だ。今、この解放された幸せの中で、この苦しみを残したまま今日を終えてはいけない。それがいつか大きな闇となって僕を襲うかもしれないという予感がするのだ。

僕はきっと、酒屋が可哀想なんだ。彼は、今日、この日に起こった事実を、良い出来事として覚えてしまう。被害者がそう思ってはいけない。彼が選ばされた善を喜んではいけないのだ。そしてその気付かない罪の中に生きる彼が不憫でならない。僕は母の身体にハマったナイフを引っこ抜いて、袖で乱暴に拭いた。ようやく訪れた夜と、遠くに輝く希望の月。それから結ばれ始める星座たちも、僕の心の刃の輝きには遠く及ばない。僕は、僕の善の中に居る。拾っただけのナイフが愛おしい。

酒屋の親父はレジ横のベンチで満足そうに眠っている。三本も四本もビール瓶を空けているから、きっとしばらく起きないだろう。僕の善は、邪魔されずに完遂される。胸の高鳴りは、この高揚感は、僕が僕の善を実感する為にある。首に突き刺して、溢れる液体は、酒屋らしく、きっとワインなのだろう。僕が子供でなかったら、この尊さに気付けたのに、と。ほんの少しだけ残念になった。これはいい事だ、僕は良いことをした。罪を一つ、天へと還したのだ。溢れる血も、僕の正義感も、カサブタになったこの腕の痛々しい傷も、全て意味のある事だった。善と悪の為に用意された劇場を、一つ一つこの手で壊していこう。あぁ、そうだ。僕のこの意味の無い人生に、僕のこの無教養な運命に、たった一つの救いがあるとするならば自ら選んだこの善だ。



三、シャルドネ

「好。やはり、そうですね。薄々気付いて居ましたよ。次は私なのでしょう。皮肉な話ですね。誘き寄せられてしまったことを焦って見せましょうか」

上品な店内は薄明かりに照らされていて、深みのある朱を基調とした装飾品は艶やかに輝きを放っていた。料理と木材の香りが微かに漂う店内は、腕の良い職人達の技が垣間見える。耳を澄ますと微かに聴こえるバイオリンの声が心地好い。

テーブルの向かいに、彼がいる。あの麗しきシャーロック・ホームズが、明智小五郎が、エルキュール・ポアロが。

「貴方のことなんてお呼びしましょうか。ジェームズ・モーリアティー教授、それか遠藤平吉。もしくはシェパード博士?」

僕はそんな所まで似ているのかと思って、クスりと笑ってしまった。すこしすると料理が出てきた。

「前菜、春野菜のエチュベ」

「ホームズさん、まず何からお話しましょうか。昨日の情事に就いてその顛末をお話致しましょうか」

「モーリアティ教授、私は君をトモヤと呼ぶ事にするよ。そうだねそうしてくれるとありがたいけれど、情事そのものを語られても困るね」

彼は私の目を見つめたまま腰元を二回手のひらで叩いた。やはり、彼は全てお見通しでここへ来ている。勿論服の下に隠したナイフにも気付いているはずだ。だから、このナイフを使うことはないだろう。それは呆気なくこの舞台を終わらせてしまうし、それは選ばされる悪である。

「ハオラン、この間くれた手紙には、明後日、つまり今日僕と会えるって言ってたけど何かあったの?」

彼は少しだけ驚いた表情を見せていたがすぐに気がついて、近くにいる佐々木を睨んだ。なんてことは無いけれど、午前中に佐々木と少しだけ話したのだ。僕は彼の上司の友人という皮を被って。

「怖いよ、トモヤ。うちの佐々木翔太郎は何を喋ったんですかね」

佐々木はそっぽ向いている。そもそもこの食事会に誘えたのは佐々木のおかげだ。だいたい、佐々木は僕に対して全く警戒していない。僕らの会話が聞こえているにも関わらず、緊張の欠片もないあたり、どうにもその能力の程度が知れる。しかし、それにも理由がある。佐々木は平常心を装っているのだ。本当は僕が何処かに現れるかも知れないと気が気でない。

「佐々木くん。見回りへ行ってくれませんか」

「はい、勿論です。やつを捕まえてきますね」

この空気に反して元気そうな声をあげて立ち上がった。そのまま出口まで小走りで向かって、こちらに一礼した。

「楽しいお食事会に水を差してしまって申し訳ないね。モーリアティくん?」

本当はその言葉に目一杯の皮肉を込めているんじゃないかと勘違いしてしまいそうになる。それならばそれで、面白いのだけれど。

僕らは前菜を頂いた。彼はにっこり笑って僕の感想を待つ。その顔に微笑み返すと、まるで僕らは何年来の友人のようだった。

「どうして、彼女を殺したのかな」

「それはね、ハオラン」

口元に付いたソースは夕方の浜辺の様に優しい塩味を主張した。名残惜しいけれど、夕方は短く、夜は訪れなければならないから真っ白なハンカチで拭き取る。

「彼女は可哀想な子だったんだ。ホストに騙されて、鬱病で、歳上の男を籠絡する事しか生き方を見いだせなかったんだよ。立派な事じゃない、悲しいけれど」

「悲しいことですね。しかし、それは貴方が裁くべき罪じゃない」

この人は、どうも食えない。僕の言い分を理解して、僕が何を思って言っているのかどうせ分かっているくせに、何も知らないふりをしている。きっと僕に言わせたいんだ。まるで敏腕のインタビュアーだ。

「それを言ったらこの場は無駄になるよ」「その通り。まったく、好、好。」

彼はまだ口内に残る料理の味を思い出すように目を閉じ、頷いた。次はスープかな。


「スープ、コールズッペ」

彼は料理にご執心だ。香りを嗅いで、目を瞑る。

「謝謝。さぁ、次はスープですね。好。今の私たちにはぴったりです。そんな顔はしないでください。私、いつもはトリックとか、密室とか、そういう事件を解決しているんですよ。それで、その、今回はかなり楽な仕事だったんで、ね。気分が良いんです。トモヤはそういうの嫌いでしょう、トリックとか、密室なんてのは。『そもそも』えぇ、続けなくて結構。貴方は自分を犯罪者なんて思っていないんでしょ。罪人だなんて思ってない。不好、不好。でも、貴方のやった事は犯罪です。悪です。変わりはありませんよ。スープ、冷める前に頂きますね。あぁ、思った通り。なんて美味しい。失礼、少しはしゃぎ過ぎましたね。何をそんなに苛立っているのですか? 私に幻想を? 不好。犯罪者に抱かれる幻想ほど不快なものはないですね」

この人の周りの大気は、僕と、僕を愛する守護霊達が近付けない。まるで世界観が違うんだ。こんなにも僕らは似ているのに、どうしても僕らの根本が違う。きっと、分かり合えない。僕はきっとこの人に捕まるけれど、それでもこんなに良い料理店でこんなに良い男と食事が出来るならばそれで満足だ。

「不好、話が逸れましたね。さて、私はこの近くに生まれて、それから、まぁ、運良く才能が役に立つのでこういった職業に。貴方がお楽しみの時こそ私の仕事は増えるのです。ほんとに困った話ですね」

僕と彼とは、生まれが違うだけだと思っていた。でもそれは違う。僕も、彼ももっと根本的に大きく違うんだ。彼が僕を見つめる。自己紹介を求めているんだろう。しかしそれにどれほどの価値があるだろうか。僕は選ばされるというのが不快だ。同じ結論に至るとしても、自分で選ばなきゃつまらない。納得できない。自己紹介をするという選択を選ばされることも、自己紹介をしないという選択を選ばされることも、きっと彼が用意した皿の上にある。食わされるのは癪なんだ。

「ご存知の通りだよ。なにも、かも。ひとつ違うのはね、僕はキャベツが好きじゃないってことだ。ハオラン」

「えぇ、存じておりますよ。首を切る音と同じ、でしたっけ」

僕は浅く頭を下げた。

スープは綺麗に無くなって、二人で顔を見合わせる。

「貴方のお母様は十年ほど前から行方不明だそうですね。それも貴方が?」

僕は彼の顔を見て、わざと意味深に微笑んだ。何か勘違いする様子を見たかったのだ。

「そうですか。不好。それは失礼いたしました」

彼は指一本たてて、話始めようとした。しかし、その言葉は従順なウェイターによって遮られた。

「失礼しました」

一歩下がる店員を横目に、ハオランは立てた指をもう片方の手で下ろす真似をして微笑みかけた。

「大した話ではないんです。謝謝、その素晴らしい気遣いに感謝致します。お気にならさず」

「メインディッシュ、春野菜と鶏肉のフリカッセ」

笑顔で店員を見送って、彼は料理に眼を落とした。

「これまた、美味しそうですね。好」

眼を細めて、蛇のように笑う。僕もまた似たような顔で同じ表情を作る。

さて、ただ談笑するだけの為に用意された舞台などつまらない。それはまさしく後半にだれ始めるSF作品のように。

僕は最後に、たった一つの賭けに出た。次に注がれる筈のワイングラスには睡眠薬が縫ってある。

彼がもし、本当に何もかもお見通しなら、この賭けは負けに終わるだろう。もっと悲しいことに、睡眠薬が効果を現すまでに僕が捕まる可能性もある。すべての善と悪を天に任せよう。すべて自然に任せるのだ。ワインを飲まなければそれでいいし、グラスを変えるのならばそれでいい。ただ、僕が見たいのは、どっちを選ぶかって事だけだ。僕の背中には水色の炎が宿り始める。物語の始まりを予感させるこの熱は、まるで成功が近くにあるかのように錯覚してしまう。この男、ハオランに於いて、その予感は全く別の意味を持ってしまうのではないだろうか。その不安がこの熱を身体中に燃え上がらせる。次だ、ようやく待ちに待った瞬間だ。隣のテーブルで注ぎ終わったウェイトレスが、とうとうこの席まで来る。店員がワイングラスを持ち上げた。このワイングラスの縁が、この細いフルートグラスの縁が僕の希望の在処である。

「失礼」

彼の声が私の背中を不気味に撫でる。表情からその真意は読みれない。仕方が無いのでもう一切の打算的な考えを捨てることに決めた。それからハオランはウェイトレスの持ってきた高そうなワインを指さした。指さして、笑った。困惑するウェイトレスは一歩、後ろへ下がった。

「別のをお持ち致しましょうか」

「不好。いえ、それで構いませんよ。ただ、そのワインについてよく知っておきたくて」

「かしこまりました。こちらのワインは……」

それからは早かった。店員はなんだか色々話していたけれど僕の頭には何一つ入ってこなかったのだ。そうして、かれはフルートグラスにキスをした。味わう様に、愛する様に。


四、フリカッセ

ハオランは目を覚ました。今が朝で無いことを分かっているのでしょう。彼が困惑している様子を見るのは初めてだった。真っ暗な部屋の衛生状況は良くないものだ。この汚い街ならば特に汚れやすい。だからこそ、僕はハオランの為に美しい暗闇を用意しなくちゃいけなかった。

「不好。私、まだ生きていますね。それはまぁ、好。貴方が素敵な人でよかった。ここは、屋上ですか」

「えぇ。神が見やすい様に。まぁ、誰も来やしないよ。僕らと、天の神様だけ」

吹き荒ぶ夜風はあの優雅な世界を忘れたようだった。星は脚元に墜ち、太陽は遠くの空へ消えて久しい。まさしく美しき清潔な暗闇だった。何も無い屋上、一脚の車椅子に座ったハオランと身の丈に合わない外套を脱いだ僕。

「怪我ひとつ無いと逆に困惑しますね。ついでにこの腕にある邪魔な装飾も無いと困惑せずに済むんですけれどね」「では殴って差し上げようか?」「いいえ、遠慮しておこう」

彼の顔をまじまじと見る。大理石で作った彫刻の様な美しい顔立ちだ。血の一滴でも流そうものならば、この表面を滑走して滴り落ちるだろう。高い鼻と、薄い唇。なんだか、見れば見るほど僕とは似ていないように思えてきた。悲しくて、虚しくて、僕の大切な人ではないのだと証明する証拠ばかり出てくる。

「不好、盲点だった。ワイングラスか、それか料理。あの店の店員もグルなんだな。不好。これはまずい」

廃ビルの管理は杜撰で、屋上ともなると、安全の為に張られた柵が破けて居ても気にされない。都合良く、そこから落とそう。傲慢なイカロスか、勇敢なヘルメスか。ゆっくり、時を刻む様に、一歩、また一歩と車椅子を進める。キシキシと音を立ててタイヤは懸命に彼を運ぶ。ハオランの腕に血管が浮き出し、僕の顔を見詰める。声を出さないのは最後のプライドなのだろうか。爪がくい込んで血が滲んでいる。なんて虚しいことだろう。彼の命は随分と長くて、二十年か三十年か、それほどの時間を宿した身体だ。二、三十年の長い間、空気を読んで、善を察して、学ばされて、選ばされてきたのだろう。なんて虚しい人だ。

「過去の被害者、あの十八人と同じように私も殺すつもりですね。不好、無視されるおつもりで。まぁ構いませんよ、どうせ貴方には何も出来やしないんですからね。信念のない貴方には、何も」

なんて虚しい人だ。ハオランは荒々しい口調になって畳み掛ける。その熱に反して、僕の心の熱は冷めてきた。

「目的も、大義も信念もちゃんとあるよ。でもね、今回はどうにも思い付かない。君以外の全員、居なくなっても良いのに。君一人、いなくなってしまうのが惜しいんだ。僕は分かったんだ。為す術なく行われる悪は惨めで、可哀想な人生を生むんだけどさ。それって善でも同じことが言えるんだ。君と出会ってようやくこの言葉に辿り着いたんだ。『偽善者』。世の中が作り出す、弱い物を守ろうとか、弱い物を守らないとかそういう、くだらない世間の、くだらない価値観の、操り人形だ。そうすると僕は今まで『偽悪者』を殺していたんだろうね。偽物を殺すんだ。本物が、本当の善が欲しい」

「殺さないでくれ。頼むよ」

その台詞自体は僕の心を逸らせるのにピッタリだった。しかしなんだか少し演技混じりにも聞こえる。急な態度の変化では無い。なんだか、僕の直感がさっきまでの口調とほんの少しだけ違うことを知らせた。冷たい風が頬を撫でる、嫌な予感だ。

「ハオランさん、まだ、まだ生きてますか?」

室内への扉から、若い男の、聞き覚えのある青い若者の声がする。佐々木か。まずい。目撃者が居るのはこれからの僕の人生に於いて良い影響を齎さない。いつからこの場所がバレていたのだろう。

「謝謝だぜ、佐々木くん。もう少しでぺしゃんこだったよ。流石に、ふぅ、流石に焦りました。ははは。はぁ、好、好」

脇腹から音がする。古い扉が甲高い音をたてて開く。着崩したスーツに、息切れた男。

「貴方が佐々木くんか。初めまして」

なんだか少し拍子抜けしてそいつを見る。

「驚いた。俺を忘れる人がいるんだね。モーリアティ。残念ながらお前と話す時間は惜しいよ。これでお前の連続殺人も終わり。名残惜しいかい? 俺は待ち遠しくて仕方なかったよ」

息を調えて、どうにか格好を付けようとしている。しかし、どうもこの男には似合わない。車椅子に眼を落とすと、彼は静かに座っていた。ハオランの黒髪が夜風に混じる。僕は今、ようやく観客のいる舞台に立った。

両腕に力を込める。全身の血液がら両腕に集結し、水風船の様に膨れ上がる。思い切って走り出す。僕が招待する最後の人は、このハオランだ。天国までは後六歩程度だろう。タイヤはホコリや砂利を噛み砕く。ハオランの身体は背もたれへ衝突し、為す術なく前進させられる。壊れそうな音を立てて、一歩。タイヤの僅かな歪みに足を取られそうになりながら、また一歩。

「シエシエ、ハオラン。あの世がどんな所か。今度手紙送ってくれよ」

後、ほんの少し。佐々木はこちらへ向かって走ってきている。しかし、遅すぎる。ハオランが地面に着く方が早いだろう。後、ほんの、少し。

「トモヤくん。そういえば、名刺渡してなかったね。これ、はい」

目の前に名刺が現れる。視界が塞がれて、思わず脚を止めた。縛られた筈の両腕。ボロボロの車椅子。ほんの少しだけ先にある死の世界。追い付く佐々木。それと、巫山戯たデザインのあほらしい名刺。

「好、好。君が寝ている間に私を襲わなかった理由を教えてくれないか」

たった一手。いとも簡単に、僕の計画も、運命も、塗り替えてしまった。

「主役が起きていない舞台なんてつまらないでしょ」

僕はこれから閉じ込められる、強制収容されて、飼い殺されるんだ。あの定められた世間の風潮に、世間の善に。そして、世間の悪に。それだけは、避けなければならない。

「私、ね。このビルについてもよく調べて居ましたよ。貴方に遊び心があって良かった。ここのビル、元々はパブだったらしいですね。nacahと言う名前の。試すとか、試練とかそういう意味で聖書に出てくる単語ですね」

車椅子から手を離し、屋上の端に立つ。今の言葉が気になったのだ。見下ろしてみるとそこには幾層にも重なったマットがあった。僕は深い溜息を一つ吐いて、振り返った。恐る恐る近付いて、車椅子の大きなタイヤを掴む佐々木。

「好、好。佐々木くんは仕事が早い。この間逃した贖罪でしょうかね」

「何言ってるんですか。死ぬかも知れなかったんですよ」


遠くの空で太陽が起き始めた。漏れ出る光線は西の空まで一直線に届いて、夜が朝の服を着はじめた。それもこれも、僕の背中側で起きていることで、黒い影が灰色に伸び始めたことからその様子を察していた。僕の時間は終わりを迎えるのだろう。舞台が終わって、緞帳が降りてくる。その前の瞬間が、明るい拍手に包まれるように、今日は晴れるようだ。ハオランは長年愛用しているソファの様に車椅子の上で寛いだ。佐々木は安心した心持ちで手錠を右手に歩いて来ている。

「好。綺麗な朝日ですね。そういえば、貴方は先程言ったね『世間の価値観の操り人形』。どうせ君だってどこかの価値観は世間の価値観さ。それでいいって妥協してる」

「世の中を絞ったらその一滴が本当に大切な雫なんだよ。それが重要で、その話をしているんだ」

「『君の価値観の中で』ね」

「客観性から導かれる絶対的な価値観さ」

「客観性というのは世間の?」

「神の。僕は神の代弁者になろう」

「好、好。目標ができることはいい事ですよ。皆さんそう仰います」

僕はそのまま後ろへ倒れ込んだ。佐々木が必死に駆け寄ってきているのが見える。お前が轢いたクッションだろうが。信じているよ。ハオランは笑顔で僕を最後まで見ていた。なんだかんだ、こいつは人の死に心を痛めていたりしないんだろうな。もし僕がここでうっかり死んだらどうするつもりなんだろう。


五、エスプレッソ


クッションが固くて死ぬかと思った。佐々木にニトリを紹介してやらなきゃいけない。暗い路地裏に汚らしいゴキブリ共と小便塗れの溝鼠が這っている。まぁ、構わないさ。やる事が出来て、少しだけでもその気になれた。目標を立てることはいい事だ。水が何滴か水面に落ちる。なんだか昔に戻ったみたいだ。表の通りには僕を捜す人達が沢山いる。これが厄介だ、こいつらは善に非ず。銀貨三十枚で働く商人だ。僕がこれまで、どれだけ善に尽くして来たか。きっと誰も分からないだろう。

悲しい気持ちになるけれど、僕らが会うことはもう無いかもしれない。今日の貴方の言葉の所為だ。燃え上がらされた僕の水色の炎は、貴方の目にはもう留まらないだろう。結局、何一つ敵わなかった。気持ちも、志も、努力も、信念も、世間の偽善に敵わない。ゴミの中にある安っぽい陶器を踏み潰す。それは灰に戻って、風に飛んでいく。僕の体は脚から砕ける。その破片は灰になって、そのまま風に乗る。やらなきゃ行けないことは多い。けれど今は、少し休みたい。ちょうど良い出っ張りに腰をかけた。遠くの空でカラスの声が響く。

臀の下に在る空調は耳障りな音を立て、生暖かい空気を吐き出した。当たりが緩やかに熱を帯びていることに気付く。瞼の裏を見れば、幾分も不快感を消すことが出来た。

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キャベツ 枯れる苗 @karerunae

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