短編 砂時計
枯れる苗
空き缶
窓辺に一枚のモンシロ蝶が舞っている。ちょうど、そこにあった木製の机に着地した。金色に染まる背景の中に輝く羽は、美しくも凛々しくも視える。私はこの感動を、誰かに伝えたくなって、言葉を思い浮かべた。
黒革のソファー。私の体を程よく拒む。どこまでも沈んで行きそうな世界の中で、最後に受け止めてくれている様だ。シャワー上がりの身体は妙に熱を帯びて、髪には湿気が残っている。昼にシャワーを浴びると、体が水の一部になったような気分になる。光の反射した金色の液体に身体の芯まで溶かされてしまった。仕方が無いで力を抜いて、ソファーに倒れ込む。それが至福の時間だ。清潔な頬に吸い付く様な革の質感は人肌に少し似ている。動物の皮。何の動物かは分からないが、我々には共通項が多いのかもしれない。
「ガク、蝶々の羽って何枚だったっけ?」
窓の反対側、キッチンの奥に問いかけてみる。キッチンの奥からガサガサ聞こえて、それから顔も見せずに聞き返してくる。仕方がないのでもう一度、問いかけてみる。正直この時点で、もう既にどうでも良い事柄になって居たのだけれど、一度話し始めてしまった以上彼の答えを聞かなきゃいけなかった。
「四枚だな。右に二枚、左に二枚。それぞれ上下に」
私はソファーの上で仰向けになって天井をみた。ガクは私の返答など期待しておらず、特段待ったりしなかった。
それからまたキッチンの奥がガサガサ鳴って足音がこちらへ近付いて来た。立ち止まったので少し気になる。すると、男の頭が私の視界を遮った。長い癖毛が集中線みたいに彼の顔を強調する。出来のいい顔なのに、俯いていると大した事ないように感じられる。まるでそれがわざと変顔をしているみたいで頬が緩む。
「どうしたのさ、ハルキがそんな事聞くなんて珍しいね」
「別にどうもして居ないよ。なんか気になったんだ。時々、そういうことない?」
ガクは少し悩んで、まぁ、納得したという風に頷いて顔を退けた。私の足の方を指差して、にっこり笑った。私は仕方なく起き上がって、大きく欠伸をした。ガクは隣に座って、足を組んだ。オーバーサイズの部屋着越しにもわかる程、明確に美しく、細い足だ。ポケットからスマートフォンを取り出して、弄り始めた。スライドする音が静かな部屋に響いている。一定のリズムで、単調に続くその音をしばらく聞いていた。
ふと、思い出したみたいにこっちを見る。ポテトチップスをひと袋、嬉しそうに見せつけてから、ガクは「食べる?」と、袋を開けた。特に何と応えることも無く、食べ始めて、ひとつ、またひとつと口に放り込んだ。スライドする音と、ポテトチップスが崩れる音が交互に鳴っている。
それからガクは、いつもみたいに曲をかけた。唾奇のhug、Tofubeatsの水星、ここまで来たらあとはキリンジと椎名林檎だろう。音楽を知らなかったガクに、私が教えたプレイリストだ。
ガクはそのプレイリストをきっかけにアコースティックギターを買った。
「よっぽどハマったんだね。ギターなんて弾けるの?」私はすぐに飽きることを予感していた。ガクの気まぐれなのだろうけれど、嬉しかった。
「うん。まだまだ猿真似だけどね」
新品のギターを膝の上に乗せて、愛おしそうに爪で撫でる。私の予想に反して、ガクは真剣だった。
「目標は?」
「ハルキを振り向かせるよ」
「なんだそれ」
なんだか誤魔化されて、笑われた。それからガクは毎晩の様にギターを弾いている。時々見えるその表情はどこか少し悲しそうで、次第に僕が歌を勧めることはなくなっていた。
椎名林檎のギブスがかかった。次はたしか、おいしくるメロンパンだっただろう。目の前に広がる日焼けした壁紙には、本来立て掛けられている筈のテレビを恋しがっている様だ。男二人のルームシェアでは、テレビなど大して重要では無い。その上、お互い生活に余裕があるわけでもないのでそのままになっている。思えば不注意で壊したガクが全額を払うべきなのだが、「ハルキしか見ないテレビなんだから」という暴論と、彼の言いくるめる技量に敗北した。別にテレビが無いからと困る事は無いのだが、無いならないで寂しく、また退屈なものだ。カーテンから漏れる光がガクの金色に染まった髪に差し掛かる。大学入学と共に染めた金色は、出会ってからの数年間も塗り潰してしまうみたいで妙に違和感があった。しかし、今となっては案外悪くないもので、見慣れた最近はむしろ黒髪の頃のガクを思い出せなくなってきた。ガクは金髪になった。
風が、またひとつ部屋に迷い込む。蝶の羽を揺らし、ガクと、ハルキ。それから西日で金色に染まった部屋を眺めてから、キッチンの窓から出ていった。
後
何れにしても満ち足りる日々というのは幻想である。学業に勤しんでいる頃は、皮肉なものだが、時間が有り余る。しかし、金がない。ルームシェアなんてしていたら遊びに使える金銭なんて大して残らなかった。かと言って、仕事を始めた今、満ち足りる事はない。懐の潤いの代わりに多忙もある。いや、時間が無い。同棲なんてしてても時間は家事に吸われていく。
それでもようやく空いた時間を作り出せた。あの人も都合がついた様だから嬉しくなって待ち合わせた。まとわりつく夏の空気はもうすぐ夜だと言うのに離れようとしない。時計の秒針はひとつ、またひとつと歩みを進める。私のスーツは汗を吸い込んでいつもより紺色が濃くなっている。ネクタイを弛めた首元がみっともなくないか妙に気になって、とうとう外してしまった。
「ハルキ、待たせてごめんね」
「遅れると思ってた」
「ごめんって」
いつもの調子で遅れてきた。少しでも早く会いたくて走った私が馬鹿みたいだ。
「はいはい。行くよ、莉奈」
私より頭一つ小さい女の子は花が咲いた様な服を着て私の背後にいた。ふわり、ふわり。舞うように二、三回回って見せてから、自慢げに笑った。「可愛いね」。後ろを向いたまま彼女は歩き出した。そのまま大きな交差点を渡って、坂道を登る。仕方が無いので彼女の手を迎えに行くと、妙に熱を帯びていた。つきたての餅みたいだと思ったけれど、言ったらきっと怒るだろうから私は何も言えなかった。
私の目に、一匹の熱帯魚が写った。空中に浮く大きな白色のネオンテトラ。街ゆく人達は誰もその異様な熱帯魚が見えていないのだろう。羽の様な胸鰭と尾鰭は、水を掻くように翻る。鱗が金色に光る様が、私の視線を惹き付けて、離さない。ネオンテトラの目の中心、瞳孔の中に真珠がある。拳くらいの、大きな真珠だ。それがゆっくり瞼に隠れていく。完全に瞼の裏に隠れてしまった。突然、聞き覚えのあるギターの音が私の脳に流れ込む。ネオンテトラの奥。電光掲示板に、見慣れていた癖っ毛の姿が映る。
莉奈が私の腕を引っ張った。数瞬映ったネオンテトラが視界から外れる。
それから、最後に書き添えるべきことはこれだけだろう。マイク越しの彼の声は、まるで知らない声だった。
短編 砂時計 枯れる苗 @karerunae
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