二人目 SS
枯れる苗
短編 二人目
「君も幸せになってね」
広縁の少し開いた障子窓からは、薄い雲に隠れた月が見える。敷布団に寝転がっているので、彼女の顔は見えない。黒いシルエットだけが彼女の存在を証明している。机に置いてある指輪をはめて、こちらへ近付いてくる。そして僕の頭をそっと左手で撫でて、「ありがとう」と囁いた。
「待って」
僕は必死にその手を抑えた。しかし、彼女の手は僕の頭から離れていく。僕の掌を彼女の指輪に付いた石が抉る。引き止められない。あと、ほんの、数瞬。
手を引いた彼女は何も言わずに、微笑んでこちらを見ている。次の言葉を探して、探して、見つからない。「行かないで」とか、言ったら、笑っただろうか。夜風が部屋の中に入ってきて、部屋の端に掛かっていた僕のブレザーが落ちた。
校舎の窓から、校庭を眺める。今、校庭には誰も居ない。つまらないので黒板に視線を移すが、やはり、何も無い。二年前のあの夜を思い出して、後悔することは無い。しかし、あの思い出は僕を酷く切ない気持ちにする。
僕は貴女の為に羽を生やす。すると、曇っていた空がくもの子を散らす様に晴れて、美しい太陽がその姿を晒した。鳥が僕の下を飛んで、銀色に輝く風が頬を擦る。
「ここまで飛んで来たの?」
眼帯を付けて、包帯を巻いた傷だらけの彼女が驚きながら尋ねる。僕が頷くと、彼女は少し嬉しそうに笑った。彼女の住んでいるアパートの扉は木製で、酷く乾いていた。僕が手を差し伸べると彼女はその手を取って「よろしくね」と笑った。
空から世界を眺めると、やけに小さく感じる。歩くとあれ程遠かった道程もあっと言う間に飛べてしまう。背中の筋肉が張っている感覚さえ気持ちがいい。君は僕の手を掴んで、不安そうにしている。
「大丈夫だよ」
と額にキスをすると、君は嬉しそうに笑った。
なんて、事があったらいいな。数学の先生は興が乗ったのか、楽しそうにチョークを滑らせている。誰もノートを執ったりしないのに。何だか急に面倒になって、荷物を纏める。
食堂の入口で食券を買っていると、後ろを彼女が通り過ぎた。
「待って」
また、あの時と同じ台詞だ。しかし今度の彼女は笑って手を差し出した。彼女と僕との丁度真ん中で手が触れう。
「偶然だね」
僕は彼女の手を握って存在を確かめる。そこに居る彼女に微笑みかけられるだけで幸せになる。
「君、ラーメン好きだっけ?」
「ここの学食はラーメン以外美味しくないんです」
そっか、と言って彼女は笑った。
食券を手渡すと、その相手は彼女だった。
食堂の席に着くと、隣に彼女が居た。
不意に後ろを誰かが通り過ぎる。「美味しそうだね」僕のラーメンを見て、彼女が笑った。
食器を戻す時、食堂を出る時、学校を出る時、電車に座った時、そこに彼女の姿があった。
いいや、何処にも彼女は居ない。彼女を引き留めなかった自分が居るだけだ。あぁ、あの時の臆病な自分が居るだけだ。
恋はいつ終わるのだろうか。失恋したあの時を逃した僕には、もうその時は来ないのかもしれない。昨日まで好きだったのに、今日急に嫌いになんてなれない。
家の近くの小さな公園には、古びたベンチがある。小さな頃によく友達と遊んだ大きな公園だ。ひとつ、またひとつと遊具が無くなって、最後に残ったのがそのベンチだった。
壊れてしまいそうなベンチに腰を掛け、月の色をした空を見上げる。誰かが横にもたれかかってくる感覚が有って、それを抱き寄せる。分かっている。これも、妄想。
二人目 SS 枯れる苗 @karerunae
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