ピノキオ
とおるさんは黒崎さんに容赦がない。
殴るし、叩くし、黒崎さんが常に目深に被っているパーカーのフードを掴んだりする。
今日は鼻を摘まんでいた。
「伸びないんだけど、この鼻」
「高いだけで伸びたりはしないんだよー」
「嫌みったらしい。叩けば引っ込むのかしらね、その高いお鼻は」
「ねえさんの為なら、モグラ叩きのモグラの代わりになってもいいよー」
「モグラは鼻じゃなくて頭を叩かれるものよ」
「……その、どうかしたんですか?」
いつも後から遅れてやってくる黒崎さんだけど、今回は先に来ていたようで、ドアを開けてくれたのも黒崎さんだった。
ダイニングテーブルの席に並んで座るとおるさんと黒崎さん。ボクはその正面に座り、三人でおやつ時間を楽しんでいたけれど、その途中でボクがお手洗いを借り、戻ってくるとこんな状況になっていた。
とおるさんは黒崎さんの鼻を摘まみながら説明してくれる。
「おびとがね、私に嘘をついたの」
「嘘?」
「ちょっとした冗談じゃんかー」
「冗談? 私がまだ見ていない私の健康診断の結果を先に見た挙げ句、『体重が五キロくらい増えてたよ』は冗談になるのかしら? 嘘に分類されると思うの。嘘をついたら鼻を伸ばすのよ、ピノキオは伸びてるんだから、伸ばしなさい、気合いで、ほら!」
黒崎さんに視線を向けると、そんな冷たい目で見ないでとか言ってきた。いや、見るって。
とおるさんの手首を掴んで抵抗しているけれど、見掛けによらずとおるさんの力が強いのか、なかなか引き離せないみたいだ。ボクは見ているだけ。助言もしない。するもんか、乙女の敵め。
自分の席に座って、ゆっくりお菓子を食べていく。美味しい。
黒崎さんが解放されたのは、それから十分くらい後のことだった。
「そうだ、めぐみちゃん」
「はい、何でしょう」
「まだ時間ある? 一緒に観たい映画があるの!」
「映画ですか、いいですね。時間なら大丈夫なんで、是非」
黒崎さんに後片付けをやってもらい、ボクととおるさんはリビングへ。二人掛けソファーに並んで腰掛けると、とおるさんはテレビを点けて、慣れた様子で素早く操作していく。
「普段はタブレットで観てるんだけど、せっかくなら大きい画面で観たいわよね」
ボクはとおるさんの横で、テレビの画面が目まぐるしく変わるのを見ているだけ。二分くらいかな。画面にはおどろおどろしいフォントで『ピノキオの逆襲』とか表示されていた。
「……とおるさん」
「めぐみちゃんってホラー大丈夫? これすっごい面白いの。ピノキオがね、わざと嘘をついて鼻を伸ばして、悪い奴を鼻でぼっこぼこにしながら、最後に鯨の亡霊と戦うの!」
「……」
「ねえさんはそういうの、ほんと好きだよねー。富樫ちゃん、これけっこう血が出るやつだから、無理なら断っていいからね。配信サービスいっぱい契約してるから、怖くない可愛いのとかもあると思うよー」
片付けが終わったのか、黒崎さんがやってきた。当たり前のようにボクらの足元に腰を下ろす。
「……いえ、平気です。観たいです」
「えぇっ! ほんとに大丈夫? ちょっとグロいよ?」
「そんなにグロくないわよ。さささ! さっそく観ましょう!」
そして映画は再生された。
開始して間もなく、黒崎さんがポップコーン欲しいね、とか言ってたけど……なくて、良かった。
ボクらは映画を最後まで観られなかった。
「ごめんなさいね、めぐみちゃん」
「い……い、え」
「無理な時は無理って言うことも大事だよ、富樫ちゃん」
黒崎さんの言葉には返事をしなかった。
ボクはソファーの肘置きに突っ伏し、そんなボクの背中をとおるさんが優しく撫でてくれている。黒崎さんは、何をしているんだろう。視線を向けるのも億劫だ。
……平気、だと思っていた。多少のグロなんて。
でも、いざ実際に観てみたら、想定していたよりもグロくて……だんだん気持ち悪くなり、我慢できずに肘置きに突っ伏した。二人はすぐにボクの異変に気付いてくれて、映画は止められた。もう消したからねと言われたから、再生されることもないだろう。
「風呂場から桶持ってきたから、吐きたくなったらここに吐いていいよー」
さっきよりも近い所から黒崎さんの声がする。桶、桶か。少し考えたけれど、平気ですと断った。そこまでの気持ち悪さではないし、さすがに申し訳ない。
「そう? 吐きたくなったら言ってねー。ここに置いとくから」
「そうそう、気にしないで吐いちゃってね。無理させた私達が悪いんだから、桶の一つや二つ、ほんと、大丈夫だから」
「……このまま、じっとしていたら……落ち着くと、思うので、その……ありがとう、ございます」
背中を優しく撫でてくれる手は温かくて、気持ち悪さがゆっくりゆっくり少なくなっていく。正直、ずっとこうされていたい。
「……いいなー」
ぼそっと黒崎さんが何か呟いたけれど、聞かなかったことにしよう。
◆◆◆
しばらくして、気持ち悪さがなくなり起き上がると、黒崎さんからグラスに注がれたお水をもらったので喉を潤す。よく冷えていて美味しかった。
とおるさんからまた謝罪をもらったのでボクも謝り、何度も繰り返した所で、室内に設置された時計から音が鳴り出した。どうやらもう七時らしい。帰らないと。
「おびとに送らせるから、杖だと思って気楽に使って」
「普段はねえさんの杖だからね」
「余計なこと言わなくていいから」
平気です、と言い切る前に、左の手と二の腕に触れられる。
ほら行こう、なんて笑った顔は、フードを目深に被っていようと、サングラスをしていようと、抵抗する気が失せるほどに無邪気そのものだった。
黒崎さんに支えられながらとおるさんのお宅を出て、ボクの家に。
同じマンションの二階と三階。ボクの家は三階の、非常口の傍だ。
「鍵は開けられる? 渡してくれたら代わりに」
「平気です。それくらい自分でできます」
「……今日はごめんね。はしゃぐねえさんが可愛くても、止めるべきだった」
「……ボクだって、自分のことを過信しすぎました。お互い様です。とおるさんにも気にしないでくださいと伝えてください」
「もちろんだよ」
鍵を取り出しドアを開ける。いつも通りの行程。
でも、今日は、それで終わらなかった。
「……あ」
ドアを開けると、ちょうど、お父さんと彼女さんが抱き合っている所だった。もうとっくに帰ってると思ったのに。
お父さんはボクに気付いて気まずそうな顔をしていたけれど、彼女さんの方はにっこり笑い、お父さんの頬に口付けしてボクの元まで来る。
「お邪魔しました、また来るね」
ボクは何となく声を出したくなくて、返事をしなかった。そんなボクの態度なんて気にしてないみたいで、カツンカツンとヒールの音を響かせながら、彼女さんは帰っていった。
残されたボクとお父さん、ついでに黒崎さん。お父さんは顔を俯かせて、早かったな、なんて言ってくる。
「いつも通りだと思うよ。むしろそっちが遅かったね」
「……すまん」
「……」
「……」
何も言うことはない。
黒崎さんにお礼を言って、彼から離れる。そこではじめてお父さんは黒崎さんの存在に気付いたみたいで、驚いた顔をして黒崎さんを見ていた。
「めぐみ、その男は何だ」
「何だって」
「──はじめまして、黒崎おびとと申します。お嬢さんとは、二階に住む柿原を通して仲良くさせてもらってます」
初対面のお父さん相手にちゃんとする黒崎さんは、少し変で、正直違和感がすごい。……でもこの人、一応成人してるんだったな、そういえば。シスコン成人男性ってきもいから、みたいなことを前にとおるさんが言っていた。
「柿原って、ああ、あの杖をついている」
「美人すぎる女性のことです」
「は?」
「失礼。お嬢さん、少し気分が優れないようなので、気に掛けてあげてください。じゃあね、富樫ちゃん」
ボクの肩をトンと叩いて、黒崎さんは帰っていった。遠ざかる彼の背中をちらりと見てから、中に入り、ドアを閉める。お父さんはその間ずっと突っ立ったまま。
靴を脱いでそのままお父さんの横を通り過ぎようとしたけれど、
「気分が優れないって、何かあったのか?」
なんて話し掛けられたから、一応答えた。
「大したことないよ、今はもう平気」
「そ、そうか。……夜ご飯は、後の方がいいか」
「そうだね、その方がいいや。あの人が作ってくれたの?」
「あ、ああ。料理教室で学んできたことをさっそく試したいって」
「……頑張るね」
「そうなんだよ、お父さんやお前の為に頑張ってくれて、本当に……あ」
お父さんの話を最後まで聞かずに、自分の部屋に向かう。興味ないことを言われても、返事をするのが面倒だ。
自室のベッドに横たわり、瞼を閉じて思うことはいつも一つ。
──彼女さんは、お父さんの何が良くて付き合っているのか。
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