トンビ
枯れる苗
トンビ
トンビであると、聞き知った。ある朝、私の父は弱っていた。段々と沈む様に飛んでいたが、遂にフラフラと堕ちていってしまった。まるで真夜中の深い海の底の様に黒く硬い地面に沈没したのだ。その父を迎えに降着すると、
「鷹だよ、空から落ちてきたの。ねぇ、鷹が死んでいるよ母さん」
その母さんは哀れそうに子供の頭を撫でて、
「いいえ、あれはトンビよ」
と言った。周りには誰も居ない。ただ、父の死んだトンビと、通りすがりの人間の母子が在っただけだった。
死んだ父を動かそうと必死に嘴で挟んで引きずろうとする。しかし、その時地面が小刻みに揺れ始めた。向こうから大きな生き物が突撃してくるのだ。白線の向こう側の茂みまで、逃げきれない。迷う間もなく、私ひとりで飛び立った。その刹那に父は弾けて潰れた。彼は首から上を残して、穢れた肉塊に成り果てた。
私の目は宙に舞った父の深紅の羽根を捉えて、心の内側にそっとしまった。さっきまで暗い雲が支配していた空は、斑に光を取り戻し始めている。
父の死骸をこのまま放っておくのだ。思えばそれまでの私の日々に於いて、ここまで大きな忘れものは無かった。尤も、父の亡骸程重要なものを運ぶ経験も無かったのも事実だが。
私がまだ幼鳥の夏には海へ飛んで、人間の持ち物を数え切れない程拝借した。それを巣へ持ち帰って父に見せると、彼は「流石、俺の子だな」と私の額を掌で覆うように撫でた。「父さんは海へ行かないの?」と聞くと、彼は笑って誤魔化した。
実は父は人間の相手が苦手なのだ。「あれはあの人間の大切な指輪だろう」とか「あのアイスクリームは幸せな思い出にしてやるのが情だろう」とか言って、毎回何も盗らないで見逃す。
それを他の鳶達は「腰抜けの屁理屈だ」と言って嗤うのだ。その所為で父は狗盗の鳥達に大いに嫌われていた。
結局父は嫌われたまま死んでいった。私はそんな優しい父を、心の底から愛せていたのだろうか。日々、彼が父であることを恥ずかしがって居たし、近頃は巣でも中々目を合わせない様にしていたかもしれない。
巣へ向かう。何処までも遠くに広がる空へ吸い込まれて行く様だった。嘴に彼の冷たい肉の感覚が遺っている。暖かい彼の肌は記憶に無い。死んでから、彼を思い返すことが酷く薄情な気がする。
巣の上空を通り過ぎて知らない空へ向かう。向こうの空を端を摘んで引っ張っているみたいに、果てしなく深く広がっている。この悲しみの終わりは、いや、大抵の悲しみの終わりはきっと明るいものだろう。生きている限りいつか前向きになる時がある筈だ、なんて、薄情だろうか。父は、嫌われて、死んで、子に回収されることも無く、野晒し。
左の空が裂けて、大きな太陽が熟れた蜜柑の真似をし始めた。きっと、私を馬鹿にして、父を愚弄しているのだ。私には怒る権利さえ、無かった。身を焦がす熱だった。しかし、降りた帳に阻まれた所為で緩やかに冷めてしまった。それから太陽は私に呆れ返って去った。
巣には苛立つ母が待っていた。母は父が嫌いだったが、それでも何故か帰りが遅いといつも怒っていた。怒る理由を探していたのだろうか。
母は泣き出した。意外にも、呆気なく崩れ落ちたのだ。私も同じなのだ、それは気が付いたフリだった。そのままの私で母を慰める。慰める私だって同様に傷付いているのに、母だけが泣いていた。母はいつもでは考えられない様な優しい声を出して、彼を偲んだ。「立派なヒト」だったらしい。本当かな。
あれから数え切れない程夜が明けた。母はいつもみたいに巣を後にした。父が死のうと死ぬまいと、母は誰かに逢いに行くのだった。
私も結局、父の命日以降、一滴だって涙をつくらない。深い海の底に悲しみが堆積して、踏み均してしまった。元の海底と、何が違うだろうか。父の死骸を踏み馴染ませているみたいだ。
父の死んだ道を今日もまた見下す。
「調子はどうよ、兄弟」
真っ黒な鴉は口許の生ゴミを態と秘さずに話しかけてくる。
「あんたの口内の調子と同じくらいかな」
「じゃあいつも通りってわけだ」
鴉はニヤリと嗤った。それから何も言わずにこの鴉について行った。
「いつもお前の腕には助かっているよ」
鴉は前にある大きな建物から目を離さずに煽てた。
「ありゃ、美術館だ。どうせ知らないだろ。あれはこの世界中の人間がありもしない救いを求めて来るんだ」
「はぁ、つまり何を売っていて、私は何を盗れば良い?」
「別に何も売っていないよ。いつもみたいにポップコーンかなんかを盗ってくるんじゃないんだ。まぁ、付いてきなよ」
美術館の入口近くの街灯に降りた。
鴉はいつも「あいつは初めてここに来たんだな。緊張してるから駄目だ」「あいつは親の背が高いから駄目だ」なんて言いながら人間を眺める。その横顔を見ていると、自然と父を忘れている事に気が付く。いつもならそれがすごく不快なのだ。
「何ぼっーとしてんだ。やるぞ」
そういって、彼は嘴で白く薄い四角と、それを抱える二人の人間を指した。
「あれはなんて食べ物なんだ?」
「へへへ、明日の飯ばっかり追いかけんのも嫌んなったんだよ。なーに、心配すんな。俺とお前でやれば簡単な仕事だよ」
私はこの鴉の性格も生き方も信用しないけれど、風が私の身体を押す様に、流されていく。
その白い荷物と二人の人間は、美術館へ吸い込まれる様に入っていく。
「行くぞ」
私達もそれを追って美術館へ入る。美術館の中は寂しい程に狭い。空から光を奪う天井がやけに薄気味悪い。目の前に私達の獲物が居る。私が荷物の上辺を嘴で挟み、鴉が人間二人の注意を引く。
「今だ、持ち上げろ」
鴉が必死に合図をするが、どうにも持ち上がらない。次第に人間が集まってきて、鴉を囲み始めた。嘴が捉える僅かな絵の硬さを失わない様に必死に咥える。固く、重く、何処までも冷たい。
「駄目だ、逃げるぞ」
反射的に従って、翼の関節に力を込める。私と共に絵にかかっていたベールがするりと抜ける。その刹那に、私は絵の中に取り込まれる様な感覚に捕らわれた。
「美しい、絵」
不意に私はそう言った。悲しそうな顔をした女が男の生首を抱える絵だった。
「何してるんだ、急げ。人間に丸焼きにされるぞ」
その声に解放されて、私は重い空へと飛び立つ。
翼が大いに禿げあがった鴉が申し訳なさそうにしている。仄暗い洞窟の中、星々がそろそろ光始めようとしていた。
「悪いな、絵なんてのは紙一枚きれだと思ったんだ」
「いや、良いんだ」
私は失敗について後悔していなかった。鴉を信じた事も、また盗り逃したことも。私の記憶の中に刻まれたあの悲しそうな絵だけが心の中を支配している。
「オルフェウス」
鴉は私の顔を覗き込む様に見た。
「あの絵の生首だよ」
「オルフェウス?」
鴉は落ち着いて、腰を地面に擦り付ける様にして座った。それから咳払いを二回ほどして、少し悲しそうにこちらを向いた。
「そう、オルフェウス。ギリシャ神話の男だ。ハープを弾きながら自分の奥さんを冥界まで迎えに行ったんだ」
「生首なのにハープを弾いたのか?」
鴉は笑いながら、首を振った。
「元から生首なヤツなんか居るもんか」
鴉はチョンチョンと歩いて、洞窟の中のちょっとした水溜まりに顔を付ける。
「それで、冥界の王との約束を破ったんだ。決して振り返ってはいけなかったのに、心配性が祟って、振り返って、それで、奥さんを盗られた」
「それは、なんと言うか、随分と間抜けだな」
喉を潤した鴉はこちらを向いて、真剣になった。
「オルフェウスは確かに、大きな失敗をしているな。ダメなやつだ。最後の最後に詰めが甘い」
「あぁ」まるでそれが良い事の様な口調で鴉が話す。
「その後女を絶って、アポロンを信仰して、女に殺された」
「アポロンってのは、あの、お前らを黒く染めた奴か?」
今日一番の笑顔を取り戻して、彼はこう言った。
「ありゃ、俺の先祖が悪かったんだ」
野原に翼を広げて空へ飛び立つ。二三度羽ばたくと次第に風に乗って、背の高い木々を見下ろせる高度まで飛び立てる。それからあの美術館を見付けて、あの街灯で留まる。それから、いつも開いている天窓から忍び込む様に入った。出入口の正面に位置する様な配置であの絵がある。その絵を、しばらく見つめて、また天窓から帰る。この日課にどの様な意味も無いが、しばし続けて、飽きたら辞めようと思っている。
「危険だぞ。見つかったらどうなるか」
背中に冷たい蛇が這うようだった。遂に首元まで来て、私の項に噛み付く。あの鴉だ。
「見つからなくて良かっただろ」
何となく冗談で誤魔化してやろう、なんて笑ってみせる。しかし、彼は一向に笑わなかった。
「俺とは違ってお前は鴉じゃない」
酷く悲しそうな声でそう言った。
「鴉じゃないのは知ってるさ。トンビだ、私は」
何故かそこがとても大事な様な気がして、彼の翼に私の翼を添えようとした。
「トンビじゃない。お前は鷹なんだ。穢らしい盗人の悪知恵なんかじゃない。お前の理性だよ」
私は鷲だった。鷲も、トンビも似た様なものだろう。そんな事、今更どうでもよかった。私の翼が彼の翼の近くに来た時、それを制止するように、彼は笑った。彼の手は私の手をすり抜ける様に離れていく。
「お前とは、お別れだ」
そう言った。そう言って、飛び去った。彼の声は、何処か嬉しそうで、追いかける気になれなかった。
穴の空いた天井に、朝日が差し込む。その手前に真っ黒く影になった一羽のトンビだか、鷹だかが留まっている。寝起きの私と目が合って、飛び去った。倉庫の中の、汚れた教科書を取り出す。枕元に有る灰皿を、寝室の窓から庭にひっくり返して撒いた。そこに水を汲んで、濯いで、また水を汲んで飲み干した。塀越しに見るごみ捨て場には、今日も沢山の鴉たちが集まっている。
「おはよ」
汚い部屋に良く似合うソファーは母の定位置だ。埃が霧みたいに舞っている。返事をするのは何だか照れくさいのに、ん。とだけ返した。そういえば、さっきから聞こえるこの音楽は父が好きだったものだ。
煙草を撒いた地面の一部に、アイスの棒みたいな木片が刺さっている。初めてそこに手を合わせた。やはり、悲しみを忘れ去る薄情な話だった。何がダメでも、愛しているさ、私のオルフェウス。
トンビ 枯れる苗 @karerunae
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