『コグニション・コード』蒼光の観測者

蒼灯一二三

第0話 前日譚『感情制御と、謎の男』

 画面には300個以上の警告マークが並んでいた。

 8割は機械の誤検知で、残りの2割は重大な事故につながりかねない危険信号。

 自動と言っても結局はそんなものだ。判断はこちらがしなきゃならない。

 

 ふと、手が止まる。以前、明らかにおかしなデータを見つけて報告したら、この取引先から酷く怒られたのだ。「今まで何も問題は起きていない」と。

 このまま放っておいて事故が起きたら──。

 どう告げれば、そこで働くみんなの為の対策を取って貰えるか。


「通知を出すだけでいい。事故は先方の責任です。効率よく仕事をしなさい」

 上司の冷たい声が響く。

(でも、これは……)

 異常値のグラフは、一週間前から、ラインの温度が0.1度ずつ上昇を続けている。一見わずかな変化。けれど、このまま放置すればいずれ重大な事故が起きるだろう。


「課長、申し訳ありませんが」

 立ち止まった上司の表情が曇る。


「この数値の上昇は、制御システムの異常を示している可能性が」

「事故が起きてからで。その方が、当社に有利になります」

 感情制御システムによって最適化された、無駄のない判断。


(ふざけるな。事故が起きてからじゃ、遅いだろ)

 胸の中で怒りが渦巻く。

 

「メモリ君」

 その目には何の感情も浮かんでいない。

「来週から全社員への感情制御システム導入が義務となります。早めに装着することを、強く勧めます」


(そうか。俺もあんな風に、なるのか)

 危険を「誤差」として無視する。データだけを見て、その先にある人の命を忘れる。

 そんな自分に、なるのか。

 この違和感、不安、そして他人を心配する気持ち──。


「申し訳ありません。もう少し、検討させてください」

 上司は無言で立ち去る。


 この職務──大手企業への就職は出世コースのはずだった。

 機械で管理された空気が、急に冷たく感じられる。

 

(……俺、間違ってたのかな)

 画面には依然、赤く点滅する警告が並んでいる。

 無視すれば楽なのに、メモリにはそれが出来なかった。


「まだ帰らないの?」

 

 掃除ロボットを点検していた老人の声に、慌てて画面を消した。

 システムの導入が始まって1年。高いお金がかかる感情制御システムを、この人はつけていない。

 会社では珍しい「普通の人間」だ。


「あ、はい。もう少しだけ」

「若いのに顔色悪いよ。成績ばかり気にして」

「いえ……感情制御システムの、申請を考えてて」

「そう……。うちのもあれをつけてから、効率は上がったんだろうけど……まあ、しょうがないのかねぇ」


 何かを諦めたような返事が、胸に刺さる。

 タイムロスだ。

 周囲に見つかればまた「無駄話をしている」とマイナス評価を受けるだろう。

 ──けれど。胸の奥が焼き付くような心地とが混ざり合う。

 

 もう一度画面を開く。

 メモリの直感は今まで間違ったことがない。せめてこれだけはと、重大事故への警告と確認依頼を送った。

 これが最後のマイナス評価になるかもな、と自嘲しつつ。


(今日の分は、なんとか終わった……)

 目がかすんでぼやける。もう限界だ。

 感情制御システムの申請書を書かないと、と机を片付けながら考える。

 


「このまま、見過ごすつもりですか?」


 深夜残業を終えたメモリに、突然声を掛けられた。

 ぼんやりと薄暗い連絡通路の真ん中に、場違いな人物が立っている。


(なんだこの人?)

 高級スーツに身を包んだ銀髪の男性。その立ち姿からは、この労働区画には不釣り合いな威厳が滲み出ていた。何より違和感があったのは、その表情。


 感情制御システムを付けた人間は、メモリの上司たちのように、必要最小限の表情しか見せない。

 それなのにこの男は、優雅に微笑んでいた。


「こんばんは、メモリさん」


 まるで昔からの知り合いのような口調で話しかけられて、戸惑う。

 ──名前を、何故?


「あの、どちら様で」

「先ほどのデータ改竄。放置すれば、誰かが死ぬ」

 男の言葉に、思わず動きを止める。


「……産業スパイか何か、ですか? ちゃんと手順に則った報告はしてますよ──」

 そう言って立ち去ろうとするメモリに再び声をかけてきた。

「それは、握り潰されるよ」

 既に起こったような、静かな断言。

 返答に困った俺の表情を、男が静かに見つめる。

「そして君も、いずれ『事故』に遭う」


 背筋が凍った。荒唐無稽でなく、あり得ると感じてしまった。

 最近の不自然な人事異動。通らない報告。そして先週、突然姿を消した先輩。


「でも、まだ間に合う」

 男──リンゼイと名乗った彼は、アオイロ行きの搭乗パスを差し出した。

「君には、もっと大きな不正を暴いて貰いたい」

「大きな──?」

「人の命も、真実も、守れる場所で働くのはどうかな」

 この世のすべてを静かに楽しんでいるような、穏やかな「存在」に当てられて、一瞬言葉が出なくなった。

 

「君の目をもって、ある場所の『不正調査』をしてほしい」


 この状況は怪しいことだらけで、信じられる要素は何一つない。

 なのに不思議と、この男は嘘をついていないと感じた。それが余計に恐ろしかった。

 危機管理の仕事をしてきた経験から来る直感だ。


 受け取った名刺には『Lee.Lindsay』とだけ記されている。

 

 感情制御システムをつければ、真っ先に消されるはずの性質。それは分かっている。だからこそ、このタイミングであることに意味を感じてしまった。「君の自由意志でなければ意味がない」だなんて。

 

 そして変わらず、リンゼイは嘘をついていない、という奇妙過ぎる直感。

 感情を、削り落とす前に……『正しさ』があるのなら。


 翌日には会社への休職手続きが完了し、半年後には退職代行まで手配される。

 善良な探偵事務所のツテに背後調査を依頼するも『実在の公的機関に所属がある、好きにするといい』のみで不自然に手を引かれた。もっと上の組織を示唆する口ぶりで。

(そんなのが、どうして俺を)

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