第8話 希望的観測



「ただいま」


「おお、お帰りハヤト。出かけてたんだな。父さんもいま帰って来たところだよ」


「おかえりなさい、ハヤトちゃん」


 家に帰ると父さんと母さんが台所でスーパーのレジ袋を覗き込んでいるところだった。帰宅途中にあるいつもの店で夕食の材料を買って帰ってきたようだ。


「腹減った、夕飯なに?」


「今日は豚ロースが安くてなぁ! 見ろ、分厚くて美味そうだろ? トンカツにするけど、ハヤト何枚食える?」


「うふふ。お父さんったら、すっかり料理上手になっちゃって」


 誇らしげに肉のパックを掲げて見せる父さんの横で、母さんが楽しそうに笑う。たしかに父さんの料理の腕は日に日に上達していた。はりきって作りすぎるという点を除けば何も言うことはない。


「うーん……一枚でいいよ」


「なにー!? 育ち盛りだろうが、たくさん食わなきゃ大きくなれないぞ。もう少し肉をつけろ! 父さんみたいに!」


「いいんだよ、僕は父さんみたいにスポーツしてないし。それより早くスーツ着替えてきなよ」


「え~」


 ごねる父さんの背中を押して台所から追いやる。クスクスと笑う母さんを見て、僕も苦笑を漏らした。あの暗く寂しい家を訪ねた後だと、明るい両親との何気ないやり取りや、この家全体に流れる穏やかな空気がどれだけありがたいものか改めて実感する。




 夕食と風呂を済ませて二階に上がると、部屋の外からでも水瀬ミヤコの笑い声が聞こえてきた。小さくノックをして中に入ると、さっちゃんと二人並んでベッドに座っている姿が目に入る。


「あっ、来栖くん。さっちゃん銅戸あかどアニマルパーク行ったことないんだって、連れて行ってあげようよ」


「ああ……あの動物園か。小学校の遠足でよく行ったな」


「このへんの子はいつもあそこだよね」


「まあな……。なあ、ちょっといいか」


 水瀬ミヤコに近くに来るよう合図を送る。彼女は不思議そうに首を傾げたが、すぐに立ち上がり軽い足取りでこちらに近づいてきた。


「なになに?」


「おい、どういうことだ? 動物園になんて連れて行ってどうする。さっちゃんの望みは母親が寂しくしていないか確認することだろ。母親の行方を探さなくていいのか」


 さっちゃんに聞こえないよう、声を落として話す。本来の目的を忘れているような軽々しい提案に苛立ちを覚えた。、眉間に力が入る。


「そうだけど……、いまはなんにも手がかりがないでしょ? 時間はあるんだし、楽しいこともさせてあげようよ」


「生きている時に知らなかった楽しいことを知って、未練が残ったらどうする。あれもやりたい、これもやりたいと欲が出て、余計に成仏しにくくなるかもしれない。それはさっちゃんの為にならないぞ」


「そうかな……私は……そうは思わないよ」


「何?」


「さっちゃんが生きている時に知らなかった楽しいことを知るのは、悪いことじゃないと思う。だって、さっちゃんが自分の人生にもこんなことあったらよかったなって思える瞬間が増えれば増えるほど、早く成仏して生まれ変わりたいって気持ちが強くなると思うの。未練を無くしてあげることももちろん大事だけど、心を満たしてあげることも大事なんじゃないかなって……ごめんね、なんか、うまく言えてないかもしれないけど……」


「……君の希望的観測だろ、それは」


「そうかもしれないけど……」


 指摘すると、水瀬ミヤコは視線を落として唇を噛んだ。苦しい言い分だとは自分でも理解しているようだ。


「あのね……さっちゃん、きっと死んじゃった時の怖い思いとか悲しい思いとか、そういう辛い気持ちまだたくさん残ってると思うんだよね。それ、軽くしてあげたい。笑った顔、見ちゃったんだもん。もっとたくさん笑ってほしい」


「…………」


「さっちゃんを喜ばせたいの! ほら、正直に言ったよ! ……来栖くんだって、そう思ってるくせに。子供好きでしょ、わかってるんだから」


 最後の方はじっとりと恨みがましい口調だった。賛成というわけではない。でも、彼女が言わんとしていることを汲み取れないわけでもない。さっちゃんに視線をやると、僕たちの会話を気にしているのか眉を下げて不安そうにしている。小さな子供にあんな顔をさせたいわけでもない。



「……なにかあったら、君が責任を取れよ」


「!」


 どうやって、なんてどうでもいい。今のはただ、彼女の言葉に素直に従ったと思われたくないだけの意地、何の意味も無い言葉だ。水瀬ミヤコもそれをわかっていて、すでに期待を込めた瞳で僕を見ている。


「いいよ。行こう。明日でいいか。夏休み中だけど平日だからそんなに混んでなさ――」


「やったーーーー!!」


「馬鹿! うるさっ……ああ、父さんたちには聞こえてないのか……。もういい好きなだけ騒げ」


「さっちゃん! さっちゃん!」


 水瀬ミヤコは本当に遠慮なく大きな声でそう叫ぶと、両手を広げて飛びあがり、さっちゃんの座るベッドにダイブしだ。


「明日は銅戸あかどアニマルパークに行くよ!」


「……! どうぶつえん? ほんとうに行ってもいいの? お兄ちゃんも一緒?」


「そうだよ。 三人一緒、楽しみだね!」


「うん……!」


「やーん。かわいい! いまの見た?」


「当たり前だろ」


 水瀬ミヤコが目を輝かせて振り向いた。僕だって彼女と同じようにさっちゃんの笑顔を可愛いと思っているんだ。見逃すわけがない。




 

***




 


 銅戸あかどアニマルパークは銅戸市郊外に位置する中規模の動物園で、僕の家からは電車と徒歩で片道四十五分程。十八歳以下の入園料は二百円と良心的。特別流行はやっているわけじゃないが、地元民から愛され細く長く続いている。にこやかな受付の女性からチケットを一枚受け取り、数年ぶりに園内に足を踏み入れた。


「わー。なんか前に来た時より綺麗になってる気がする!」


「ひろい……お花がたくさん」


「二、三年前にリニューアルしたはずだ。案内板は……あれか」


 平日という事もあり客はまばらだった。彼女たちと会話をするのに、常に周囲を気にしなくて済むのはありがたい。リニューアルを機に植物にも力を入れ始めたらしく、あちこちに置かれたプランターやアーチに色とりどりの花が咲き園内を彩っている。さっちゃんは忙しくあたりを見回し、浮き立つ気持ちを抑えられない様子だ。


「来栖くん、どこから回る?」


「このルートから行けば……小動物のいるふれあい広場、大型動物のいるサファリエリア、……ああ、爬虫類館なんていうのも出来たんだな。それから最後は猛獣エリアで……うん。一通り回れるみたいだ」


「いいねいいね、早く行こうよ! おいで、さっちゃん」


「うん!」


 水瀬ミヤコが軽くスキップするような足取りでさっちゃんの手を引いて行く。いつも以上に元気があり余っているし、さっちゃんも雰囲気に呑まれているのか今日は表情が柔らかい。二人の姿を後ろから眺めていると、ここに来たことが悪い選択ではなかったと思えてきた。こうして水瀬ミヤコの起こす波に飲まれていく僕の姿は滑稽こっけいだろうか。……いや、滑稽なのは彼女に振り回される僕の姿じゃない、素直に受け入れることができず言い訳ばかりしている僕の姿だ。もうこれ以上、傷つくのも失うのも耐えられない。

 

「早く行こうよー! 来栖くーん!」


「……うん」


 何を、僕は何をこんなにも恐れているのだろう。


 



 

 


「……ウサギさん、かわいい」


「かわいいね〜。あと意外と大きいね。 さわれないのがくやしい〜!」


「でも、近くにきてくれるよ。サヨリたちのこと、みえてるのかな?」


「私もそれ思ったんだ、この子たち視えてるよね、絶対」


 さわることができないのにふれあい広場に寄るのもどうかと思ったが、二人はそれなりに楽しんでいるようだった。本来なら自由に歩き回っているはずのウサギやモルモット、ヤギたちに取り囲まれてまじまじとお互いを観察しあっている。


「ねえ来栖くん、見てないで私たちの代わりにふれあいしてよ〜! 餌やり百円だって、やってみて?」


「周りから見たら男一人で来てるんだぞ僕は。家族連れに不審がられたら嫌だ」


「もー! 気にしすぎ! 動物好きな男の子としか思われないから。ね、さっちゃん。お兄ちゃんに餌やりして欲しいよね?」


「ごはん食べてるとこ、ちかくで見たい……」


「……買ってくるよ」


 さっちゃんのお願いなら仕方がない。叶える手段を僕がもっているのだから、やらないわけにはいかない。


 


 


「……ヤギの勢いには驚いたが、こいつは可愛いな」


 膝の上で夢中になって人参をむウサギを撫でて、呟く。水瀬ミヤコはそれを聞き逃さなかった。


「ほらほら~、やっぱり楽しいでしょ?」


「別に……楽しいとかじゃない。さっちゃんが見たいと言うからやってるだけで……」


「お兄ちゃん、お顔わらってる」


「…………」


 そうだな。今度は本当に一人で来るのもいいかもしれない。









 

__________________________

物に触れない幽霊たちが座っている描写がよく出てきますが、ミヤコがちょろっと話していた、生きていた頃の動きを真似ているうちの一つです。実際は座っているように見えて浮いている状態と思って頂ければ。無意識に人間に近い動作をする霊はまだマシ、人間に近い動作をしなくなったらちょっと危険という設定。

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