第16話 暗影に潜む
空の怒りが地を打つかのように、激しい雨が降り注いでいた。
泥濘の道は、まるで進む者の意志を試すかのように容赦なく足を取る。凛音は無言でその道を歩み続けた。その目には、どこか剣のような鋭さと、薄く揺らめく疲労の影が交錯している。
雨が頬を打ち、冷たく肌を刺すが、それさえも彼女の心を掻き乱すには至らない。後ろを行く李禹が何度か声をかけようとするが、彼女の背中はそれを許さないかのように語っていた。
「どれほどの重荷を背負っているのか……」
彼はその問いを呑み込む。冷たい雨が全てを押し流すように、自分が言葉を挟む隙間すら奪い取っていく。
六日間――凛音はこの短い間に立て続けに波乱を乗り越えてきた。
慕氏を葬った一夜、闇に紛れる刃と交えた武術大会、喧騒の酒場で一瞬も気を抜けない勝負、そしてつい先ほど命がけで振り切った山賊の襲撃。
どの瞬間も、一歩でも踏み誤れば命を落とすような綱渡りだった。それでも彼女は止まらない。
もはや彼女自身の意志ではなく、「何か」に突き動かされているようにさえ見えた。
「凛雲様、少しお休みを……」
李禹は焦るように言った。凛音は振り返らず、ただ一言。「ここで止まるわけにはいかない。」
その声は雨にかき消されることなく、李禹の耳に届いた。
その言葉にはいつものような揺るぎない強さがあったが、彼女の震える指先がそれを否定しているようにも見えた。
やがて、雨のカーテン越しに、小さな町の影が見えた。
瓦屋根が連なるその町は、まるで嵐の中で揺れる灯火のように、薄暗いながらも確かな温もりを放っていた。
雨がますます強くなり、李禹は再び提案した。「ここで少し休みましょう。」
凛音は無言で頷き、小さな町の中へと足を進めた。
町の古びた宿屋の女将が二人を迎え入れる。温かい食事と簡素な部屋が用意され、二人はそれぞれ疲れを癒す準備を始めた。だが、凛音は心のどこかで微かな違和感を覚えていた。部屋の静けさが妙に耳に刺さるように感じられる。
深夜、凛音のうたた寝を遮るように窓が僅かに軋む音がした。
「何か妙ですね。」李禹が即座に声を潜め、灯りを消した。
その直後、部屋の外で物音がした。僅かな金属音――それは何者かが武器を構える音だ。李禹が剣を抜き、窓辺に立ち塞がる。
窓が勢いよく開かれると同時に、黒装束の刺客が音もなく侵入してきた。手には鋭い短刀、そして毒の匂いを纏わせた矢が光る。
「伏せて!」李禹の鋭い声が響く。
彼は目の前に迫る一人目の刀を受け止めると、素早い反撃でその首を切りつけた。敵が倒れ込むのを確認したその時、別の影が巧妙に間合いを詰め、李禹の死角を狙って刃を振りかざした。
咄嗟に、凛音は一歩踏み込み、刺客の攻撃を肩代わりする形で李禹を守った。
短剣が彼女の肩を掠め、鋭い痛みと共に鮮血が滴り落ちる。
「凛雲様!」
李禹が緊張した声で叫ぶと同時に、どこからか鋭い飛び道具が闇を裂き、その刺客の喉元に突き刺さる。彼は短く喉を鳴らし、その場に崩れ落ちた。
「甘く見ないで……!」
凛音は痛みを抑えつつ、落ちた短剣を素早く拾い上げ、肩の力を込めて振り抜いた。その鋭い一撃がもう一人の刺客の手首を斬りつけ、武器を落とさせた。彼が怯んだ隙に、李禹が一瞬の反撃でその男を突き飛ばす。
突然、暗闇の中で淡い火花が散る――煙幕弾の導火線だ。煙が一気に立ちこめ、視界が遮られる。
「撤退!」誰かが低く命令を叫び、残りの刺客たちは素早く動き始める。 李禹は追いかけようとするが、凛音が肩の痛みでわずかに体勢を崩したことで彼の動きを制止した。
煙が薄れ始めた頃、刺客の遺体に残された装備が目に入った。その手首には不気味な紋章が彫られており、眼帯をかけた虎のデザインが目を引いた。
「この紋章……どこかで見たことがある。」凛音は微かに顔をしかめ、痛みを押さえながら呟いた。
一方、李禹は静かに窓を閉め、息を整えた。その瞳には、煙の中で飛び交った火花と、不可解な援護者の影が鮮明に残っていた。
「蒼岳……やはりあいつもこの場を見張っていたか。」李禹は胸中でそう呟くと、薄く息を吐いた。それ以上考えを深めることなく、彼は凛音のもとへ視線を戻した。
宿屋の屋根―― 蒼岳は煙幕の広がりを見届けながら、目を細めた。
「少なくとも、彼女を守るという任務には支障はなかった。」
短く言葉を切った後、彼は額に手を当てて小さくため息をついた。
「……でも、傷を負わせてしまった以上、殿下がまたうるさく言うだろうな。」
小さく肩を竦めながら苦笑し、蒼岳は夜闇に紛れて再びその姿を消した。
宿の部屋には重い沈黙が漂っていた。先ほどの襲撃の余韻がまだ消えず、血の匂いと激しい戦いの痕跡が残っている。 凛音は壁際にもたれ、右肩からじわじわと血が滲み出ていた。李禹が素早く駆け寄り、傷口を確認する。
「凛雲様、大丈夫ですか!」
「これくらい、大したことはないわ。」
凛音は低く答えたものの、その声には微かな疲労が滲んでいた。
「ですが…毒が塗られている可能性があります。このままでは…」
李禹が急いで布を取り出し、応急処置を試みようとしたその時、扉が静かに開いた。
月光の差し込む中、一人の男が音もなく部屋に入ってきた。全身を白い衣に包み、顔には黒地に銀色の紋様が彫られた仮面をつけている。鋭い眼光だけが仮面の奥から覗いていた。
「誰だ!」李禹は即座に剣を抜き、警戒心を露わにして男を睨んだ。
「心配するな。」男の声は低く、冷静だった。「私は医者だ。毒が回る前に治療を始めなければならない。」
「…医者だと?」李禹はなおも疑いの目を向け、剣を男に向けたまま動かなかった。
「時間を無駄にするな。彼女の命が惜しいのなら、私に任せろ。」
男の声には妙な説得力があったが、李禹の剣先は震えたまま動かなかった。しばしの沈黙の後、彼は渋々剣を下ろしながらも、目を逸らさず男の一挙一動を見張っていた。
男は凛音に近づき、その傷口を無駄のない動きで診察し始めた。鋭いがどこか柔らかさを感じさせるその手つきに、医者としての熟練がうかがえる。
「傷口は浅いが、毒が塗られている。すぐに解毒する。」
男はそう告げると、薬草を練り合わせた解毒剤を取り出し、手際よく塗布していく。
凛音はその香りを感じた瞬間、微かに眉を動かした。
この香り…どこかで嗅いだ覚えがある。――数日前、白鳥から渡された香囊の匂いにも似ている。
「……あなた、本当にただの医者なのか?」
凛音が静かに問いかける。しかし、男は返事をすることなく淡々と手を動かし続けた。
治療を終えた男は、手早く傷口を包帯で巻き、道具を片付けると立ち上がった。
「毒は完全に除去した。今夜は安静にしていろ。」簡潔にそう言うと、彼は李禹の方へ一瞬視線を送り、「嵐の前ほど、静寂が深いものだ」とだけ呟き、まるで風のように去っていった。
「待て、あなたは何者だ!」李禹が慌てて声をかけたが、返答はなく、男の姿はすでに闇に溶け込んでいた。
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