掌編・短編まとめ
天鵞絨リィン
童話じゃあるまいし
恋人が蛙になった。はぁ?
いや、違うんだ、なにも違わないんだけど。朝起きたら隣で寝ているはずの恋人がいなくて、代わりにベッドの中に蛙がいた。恋人の服は敷き布団と掛け布団の間でしわくちゃになっているし……下着までも……、家のどこを探しても恋人はいない。鍵も財布もスマホも置きっぱなしだから外出したとも思えない。
おまけにこの蛙、恋人に顔が似ている。蛙と顔が似ているってどういうことだよと自分でも思うが、ほんとうに似ている。ちょっと憎たらしい顔つきと、左目の泣きぼくろとちょうど同じように模様なところ。うん、信じられないが、これは私の恋人だ。意味がわからない。しかし、なってしまったものは仕方無いから、とりあえず食べ物を与えないと死んでしまうだろう。いや、ほんとうはそんなの知ったこっちゃ無いが、さすがに後味が悪い。
蛙の食べ物を調べながら、そもそも恋人がなんという蛙になったのかふと気になる。適当に画像検索をかけてみるが、近しいものは見つからない。まぁ良いや。このまま置いておくわけにもいかないので、住環境も整えてやらねば。面倒くさいな。
「これは……新種かもしれません」
近くのペットショップで水生生物を担当しているらしいスタッフが、分厚い眼鏡をきらりと光らせながら、私の手の上にいる恋人をしげしげ眺めている。へぇ、と私が適当に返事すると、今すぐ然るべき場所に連れて行くべきだと言う。然るべき場所ってどこですか、と尋ねると、近くに生物園があるからそこが良いと返ってきた。へぇ、このへんにそんな施設があったのか。
生物園に持って行くとスタッフなのかなんなのか、人がわらわら集まってきては蛙を囲んでやいのやいの言い始めた。私は決まり悪くて、とりあえずわかったら連絡ください、と電話番号だけ書き残して生物園を後にする。
三日後くらいにかかってきた電話曰く、やはり恋人は新種の蛙らしかった。まだ細かい調査をしたいし、生物学的にとても貴重なので、ぜひ生物園の方で預かりたいと言われた。興奮気味の声とは裏腹に私は淡白だった。はぁ、ご自由にどうぞ、と言った。
さすがに蛙になってまで奴と恋人ではいられないと思ったので、これで縁が切れたなとぼんやり思った。私は二人分の家賃を払うことも馬鹿馬鹿しいとすぐに思い、引越しを検討し始める。家財をまとめながら、恋人の所有物を容赦無く捨てた。
もし恋人が人間に戻ったら、なんてこと、一ミリも考えなかった。奴はもう蛙なのだから、せいぜい蛙としての生を全うすれば良いと思う。
「会いに行くんでしょ? 恋人なんだし」
私と恋人の共通の知人である友人が、ことの経緯を聞いてそう言った。私は、はぁ、と間抜けな声を出してしまう。よくあの蛙をまだ私の恋人として認識できるものだ。
「やだよ、あそこ年パス無いし」
私はそんな適当な理由でかわそうとするが「きっと会いに来るの待ってるよ」とか「急に蛙になって不安がってるんじゃないかな」とか、まるで善意マックスのことを言うものだから、とりあえず一回くらいは見に行こうと思った。
恋人は水生生物などを展示しているコーナーの一角にいた。水槽には小さな「新種発見(名称未定)!」という看板が貼られていて、大層ご立派だと思った。私は水槽の中に目を凝らした。恋人は砂利の上に座っていた。すぐに私に気がついて、ガラスの向こうでゲコリと鳴いた。蛙に対して特別な思い入れが微塵も無いからか、動揺も感動もしなかった。向こうも私に会いたがっていたり、不安がっていたりしたとは思えない佇まいをしていた。蛙の感情の機微なんて知らなかった。
恋人がじっと私を見つめる。私もじっと恋人を見つめている。なんでそんな目で見るんだ、その黒々とした瞳を、まっすぐに向けるな。ふくふくと呼吸している様子を見せつけるな。私は、私は、お前なんて。
私は咄嗟に水槽の中に手を突っ込んで恋人を鷲掴みにした。まるで動揺したかのようにゲロッと大きな音を出したのでおもちゃみたいだと思った。そのまま恋人を近くの壁に投げつけた。びたんと激しい音が鳴り、恋人は壁伝いにずるずる床まで落ちた。私は座り込んで、床の上の恋人がまだ呼吸しているのを見ていた。
「なにごとですか」
生物園のスタッフが物音を察してばたばた近づいてきて、私と蛙を交互に見やる。ぽかんとしている男性と、私に近づいて「どうしちゃったのかな」とあくまで優しく言う女性。私は、はぁ、投げました、となんの気無く言った。
「ちょっと来てもらえるかな?」
私は手を引かれて、たぶんどこかで詳しく話を聞かれるのだろう、抵抗もせずにスタッフの後に続いた。無理も無いと思った。新種とかそういうことを置いといても、生き物を投げつけるなんてやってはならないことだ。
突然、蛙の鳴き声がした。振り返ると、床の上でひしゃげている恋人がゲコゲコと鳴いているらしかった。けたたましく鳴くそれはまるで笑い声のように甲高く、豊満な愉悦を含んでいるように聞こえた。連れられてその場から去ってしまっても、恋人のその声が耳について、離れない。
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