第20話 覚醒
ブルーノの送迎もなく、彼らは山に向かう。燈真は靖夫のものだというオフロードバイクに跨って、走っていた(燈真は今年のGWを利用して普通自動二輪の免許を取得済みだ)。
椿姫と万里恵は屋根を蹴って跳躍、イメージ潜行移動を利用し、素早く北西に向かう。燈真もバイクの速力とイメージ潜行を利用し、あっという間に北西の山に出た。
この先何があるかわからないので麓にバイクを置いて、燈真は駆け出す。体力は十分以上についている。山登りも、鬼岳で何度も経験しているので小慣れたものだった。
山の廃堂の位置は柊から聞いていた。北西に、並んでいる地蔵を目印に進めばいいという。燈真たちはその地蔵を目印にして駆け、菘の元に向かった。
空は夕焼けで赤く染まり、まさに逢魔時である。――と、
目の前の廃屋の前に一人の男。身に纏うのは袴で、略装の着物と合わせている。
黒髪が風に揺れ、乳白色の白い角が二本、額から伸びていた。
「そこの少年以外は行ってよし。だが、少年。貴様は俺と戦え」
「あんた……あのときの」
そいつは以前呪具屋に行った際の帰りにあった、あの青年だった。
椿姫と万里恵は顔を見合わせ、「燈真、任せたわよ」「勝ちなさいよ、燈真君!」と言って走っていった。
男は名乗る。
「鬼塚真之。人の身から、焦がれる怒りで鬼へ成り果てた者だ」
「漆宮燈真。謂れのない罪で勘当された、哀れな男だ」
両者が肩幅に開き、拳を構える。退魔師と呪術師。ならばもう、戦うことに余計な言葉なんぞはいらない。
両手に青い妖力のオーラがまとわりつき、真之は素早く、踏み込んだ。
鋭い左の掌打が迫り、燈真は体を流して受け流す。右の拳を相手に振るい、しかし真之は右手でそれを外側に弾いて間をおかず右の前蹴りを放った。
燈真は妖力でそれをガードしつつ体を回転させて勢いを殺し、その勢いを乗せた左の裏拳を放つ。
真之が左腕を跳ね上げてブロック。しかし、回転力の乗ったその打撃は真之の体を背後の廃屋まで吹っ飛ばした。
追撃――燈真は相手に肉薄すると、硬直していた真之にドロップキックをかました。優れた筋肉を持つ鬼をも吹っ飛ばす蹴りに、彼は後ろの立派なドアを巻き込んで屋内に吹っ飛んだ。
廃屋は二階建ての立派な邸宅である。かつては富豪が住んでいたに違いない。廊下には名画のレプリカが飾られ、高そうな花瓶が玄関に置いてある。
燈真は家屋に踏み込み、土足で踏み込むと辺りを見回す。埃が舞い、西陽が差し込む廃屋は薄暗い。妖力による暗視で視界を確保――しかし、真之がいない。
慣れない霊視で探ると、彼は二階の奥、書斎と思しき場所にいた。
「誘ってるな」
ここは乗るしかない。
燈真は慎重に階段を登る。彼の体重は、一七六センチの身長に対し九〇キロもある。先祖の影響で、筋密度が高く体が重いのだ。運動神経がいいのも、怪力なのもそのせいである。
霊視で探る限りトラップはない。真正面から、あくまで地形を利用しようという腹だ。
二階に上がる。書斎は廊下の突き当たりだ。
真之の気配の出どころまではわからない。ただ、妖気がそこに滞留しているのがわかるのだ。
ドアの前で燈真は構えつつ入ろうとすると、直後そのドアが内側から吹っ飛んだ。朽ちているとはいえ頑丈な樫材のドアから拳が生えてきたのだ。
燈真は反応が遅れ、顔面に手痛いクリーンヒットをもらう。後ろにひっくり返りそうになるのをなんとか堪えて左手で折れた鼻を力づくで戻し、鼻血を鼻息で吹き出す。
すぐさま真之がドアごと突進。燈真はそれを柔道の巴投げに近い形で後方に受け流して吹っ飛ばすと、トイレにっつ込んだ真之を蹴飛ばす。
「やってくれたな!」
男性用小便器を根本から引き抜き、オールドセラミック製の三十二キロあるそれを片腕で小枝のように振るい、真之の頭をぶっ叩く。
破砕音と共に小便器が粉々に砕け、真之は頭部から出血。彼は燈真の腰に組みつき、そのまま床のタイルに叩きつけた。
馬乗りになって左右の拳を顔面に打ち下ろし、合計十発殴ったところで燈真の足が、彼の拘束を緩めた。
跳ね起きた燈真は真之の頭を鷲掴みにし、手洗い場に叩きつけ、窓ガラスに押しつけ顔面へ頭突き。お互いに絡みついてそのままトイレを出ると、誰かの寝室に突っ込む。
「久々だ、こんなに楽しい喧嘩は!」
「俺もだ、漆宮!」
真之が燈真を蹴飛ばし、本棚に叩きつけられた彼は側の花瓶を掴んで投擲。真之はそれを平手で叩き落とし、燈真に左のジャブを繰り出す。
右手の甲で拳を逸らし、左のアッパーカット。真之はその拳を顎を逸らして避け、右拳を鳩尾に捩じ込む。
「がっ――」
燈真の隙をついて、真之は後ろから腰を掴んでレスリングでいうバックドロップを繰り出した。
頭から凄まじい力で床に叩きつけられ、そのまま腹へ飛びかかった真之の両足が、燈真ごと床をぶち抜く。
重量級の妖怪でも暮らせるように作られた家だ。老朽化しているとはいえ、その床は相当に頑丈であるはずだ。それでも、人一人をおもちゃのように扱う踏みつけは、燈真ごと床をぶち抜いた。
一階のキッチンに落下した燈真はシンクに溜まっていた汚水に背中から突っ込み、そのままバウンドして床に転がる。
全身を激痛が苛み、燈真の視界が派手に揺れていた。楽しいが――これは、間違いなく死の臭いを伴う死合いだ。
震える膝をガンガン叩きながら立ち上がり、燈真は妖力を練り直す。悠々と天井の穴から飛び降りてきた真之も、ダメージはあるがまだ六割ほどの体力を残しているように思える。
その一方で燈真の体力は残り三割と言ったところ。短い攻防だが、しかしその中で確かに相手は鬼に相応しいパワーを見せつけ、燈真を削っていた。
視界が、霞む。
「お前の力はそんなものではない。もしお前が本気を出せねば、本当に殺す」
真之はそう断言した。
本気も本気じゃないか、燈真はそう思った。畜生、どうしろって言うんだ――。
相手が懐に飛び込み、掌打を顎に打ち込んだ。脳が揺れ、燈真の視界が一瞬暗転。膝に力が入らなくなり、思わず跪く。
加減も容赦もない真之は燈真の肝臓を蹴りあげ、胃を殴り、顔面にラッシュを繰り出して壁際に追い込んだ。
「ごふっ、がはっ」
「お前は自覚していないのか?」
「なに、を――」
「とんだ宝の持ち腐れだな。……いいだろう、殺してやる」
まずい――燈真はなんとか妖力を練り上げ、金剛の術を発動する。
しかし真之の左拳が燈真の右胸を打つ方が速かった。バキ、と乾いた枝が折れるような音。ガードもままならない燈真の左胸に、拳が二度打ち。
肋骨が砕けた感触、そしてそれが肺を貫いた感触が生々しく、燈真を支配した。
激痛に意識が飛び、白目を剥いて燈真は派手に血を吐き、昏倒した。
前のめりに倒れた燈真を見下ろし、真之は呟く。
「自覚しろ。お前は、半神狭真の心臓を継いだ、鬼神なのだ。俺を楽しませろ、生きる実感をもたらせ、漆宮燈真!」
×
「きつねさんは、どうしてやさしくしてくれるの?」
あの日――禁足地に足を踏み入れそうになり、それを引き留めた白狐は燈真が泣きじゃくるのを黙って受け止めていた。
やがて燈真が泣き止み、夕暮れになると、彼女は燈真を背中に乗せて帰路につく。森の中、燈真はついそう聞いたのだ。
見ず知らずの子供のためにここまでしてくれることが、幼いながらに不思議だったのだ。
十歳の燈真には、まだ人の優しさというものをうまく理解できなかった。無償の愛が存在することは知っていた――両親がそうであるように。だが、彼女とは血のつながりなんてない。
「さあ、どうしてかな。私がそうすべきだと思ったからじゃないかしら」
「おねえさんがそうすべき?」
「理由や理屈で動くものじゃないのよ、妖怪って。私はあなたを大切にしたいと思ったから、大切にしただけ。いい、燈真」
狐は、優しく、けれど力強くいった。
「強く生きなさい、懸命に」
燈真の胸に、強く鼓動が波打った。
「おねえさんの、おなまえは?」
「私は、稲尾椿姫。……また、会えたらいいわね」
×
どくん、と心臓が跳ねた。
倒れ伏していた燈真の、死に瀕した鼓動が再び脈打つ。
全身に巡る、今までとは異なる「血」。熱く、激しく、そして荒々しいそれ。
砕けた肋骨が集まり、繋がり、肺から引き抜かれて元に戻る。穴の空いた肺が再生し、全身の傷が即座に修復された。
燈真から立ち上る妖気は青ではなく藍色で、濃密な圧力を伴う。
真之の口に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「それでこそだ! ああ――いつぶりだろうな、本気で
立ち上がった燈真は、静かに深呼吸。その、右のこめかみあたりから漆黒のグラファイトのような三日月状の角が伸び、藍色の輝く脈が絡みついた。
覚醒したのだ――漆宮燈真は、今この時を持って鬼神として目覚めたのである。
「来い! 漆宮!」
「――っ、ぁあっ、……お望み通り、ぶん殴ってやるよ! 歯ァ食いしばれ!」
構える真之に、燈真は全力全開の右拳を振り抜いた。
パンッ、と空気の層が破れるような音がして、真之が吹っ飛んだ。
壁を何枚も、部屋をいくつもぶち抜いてようやく止まったのは、廃屋を飛び出して二十メートルも転がった先である。
「マジかよ……」
燈真は己の力に困惑した。
……なんだ、これは。
いや、今はいい。全力で制圧するだけだ。
――第二ラウンドのゴングが、その拳打によって打ち鳴らされ、両者は妖怪としての本領を発揮するのだった。
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