第7話 実技試験
修行開始から約二週間後の八月二日、木曜日。
魅雲高校も夏休みに入り、椿姫たちも丸一日家にいるようになった。主に出された課題を短期間で片付けようとしており、光希は時々美術部に顔を出している。
修行自体は順調だった。もとより運動神経に優れる燈真は、すぐに柊相手の組み手でも一分以上、あるいは二分立ち回れるようになり、現在では勝つことこそ無理だが、一撃反撃を決められるようになっていた。
かれこれ二週間続けてきて、燈真は最低限妖力の錬成から維持まで可能となり、ひとまず、五等級と言えるレベルにまでは成長したと言える状態になったと言える――少なくとも、柊はそう判断したらしい。
「だからって修行を始めて二週間で実戦なんて早い気もするけど」
午後八時半。夕飯を七時に済ませた燈真たち――燈真と椿姫は、退魔局の監督官の犬妖怪男性が運転するセダンの後部座席に座り、"現場"に向かっていた。
その現場というのは言わずもがな魍魎が湧いた場所であり、つまるところ燈真の退魔局入局試験を兼ねた実技テストなわけである。すでに身体検査と筆記試験はここ三日で終わらせており、残るはこの実技だけとなっていた。
椿姫は若干急ぎ足であることに、珍しく不安を感じているようだったが……。
「自信ならある。あんなにきつい訓練を二週間もしたんだ」
意外なことに、燈真は前向きだった。
ネガティブな思考に取りつかれると長い燈真だが、逆にポジティブな状態が乗っていれば気分も良くなる――大半の人間はそうだろうが、燈真はこの修行期間で精神的にも少し落ち着き、確かに自信をつけられるだけの課題はこなしてきたと椿姫も思っていた。客観的に見ても、燈真は家に来たばかりの頃に比べれば強くなっている。
まあ根拠もなく自信を持てる椿姫にとっては、自分を信じることに論も証拠も必要ないと思っているので、全くもって論拠のない自画自賛というものをしてもらってもいいと思っていた。いつまででもウジウジ悩んでいるやつを見ると、背中を蹴り飛ばしたくなる。
「お二方、そろそろです」
若い(外見は)二尾の犬妖怪――ジャーマン・シェパード犬の特徴を持つ、スーツの美形の彼がそう言った。名はブルーノ・バルシュミーデ。ドイツ系の退魔師兼監督官だ。
車は村の南西にある工場街の一角、廃れた染物工場の前で止まった。すでに結界は貼ってあるらしく、あとは退魔局に登録済みの術師が入って魍魎を処理するだけだ。
車から降りた三人は、『魅雲染色(株)』と書いてある看板を見上げた。ペンキが溶けて垂れ落ち、赤錆が侵食して恐ろしげな雰囲気を醸している。周囲がすっかり暗いことも相まって、なんとも不気味であった。
「ここに?」
「はい。試験ということで先んじて余計な魍魎を
ブルーノがそう告げて、タブレットを操作した。局になんらかの連絡を入れたのだろうか。
工場に貼ってある結界は、微かに視認できた。表面が水面の波紋のように波打つものが見え、燈真はそれに恐る恐る触れる。すると、とぷん、と手が沈み込んだ。
「お気をつけて」
低い声でブルーノがそう言った。燈真と椿姫は、結界を潜って工場に入る。
ちなみに燈真の格好は藍色の羽織に黒い和装。椿姫は白い着物と紫の袴だ。特別ゴテゴテした装飾はなく、簡素な作りである。戦闘用なのでゴテゴテした飾りは不要なのだ。華美な衣装は周りの物に引っかかったりして邪魔になる。
「錆臭い……」
「捨てられて十年くらい経つからね。権利関係がややこしくて取り壊すに取り壊せないみたい」
廃れた工場内は鉄錆のにおいとカビの臭気、それからなんらかの、染色に使うのであろう薬剤の刺激臭が複雑に絡み合って、なんとも言えない悪臭となっていた。
鼻の奥の粘膜を突き刺すような、頭痛を伴うような悪臭だ。
そして、魍魎がいる際の異質な空気感――ねっとりと生暖かいあの感じが、確かに漂っていた。
「嫌な感じだ」
「魍魎がいるってことでしょ。数は一体ね。……原則私は手出ししないから」
「ああ。一人でやるのが試験だからな」
言うなれば椿姫は試験官だ。一応、背負った三尺刀はあるが、戦うのは燈真が本当に危ない時だけである。
気配はまっすぐ、前からする。二階もあるようだが、上から嫌な気配はしなかった。燈真はあくまで魍魎の気配を異質・嫌な空気感として捉えるが、これで気配探知として正しいのかどうかはわからない。だが、現状これでしか位置を探れないので、燈真は己の感覚を信じていた。
椿姫も柊も、万里恵もそして菘も竜胆も、――光希も伊予も貝音も、稲尾家にいる者は皆、自分を信じる意志が強い。決して過信しているわけではないだろうが、自分のことを信じて、物事をうまく行かせている。
なので燈真も、自分を信じるようにしていた。
奥まった場所に、工業機械が撤去された広々とした空間があった。隅の方に一斗缶や段ボール、木のパレットなんかが放置されているが、それ以外の障害物はない。
大体三十メートル四方はあるだろうか。
燈真は、視界の向こうで何かを貪る影を睨んだ。
そいつもこちらの気配に気づき、貪り食っていたネズミを手放す。
人型に、その頭部は耳と口だけの異形。大きな口が、にったりとした気味の悪い笑みを浮かべる。
「祓葬開始」
燈真は足を肩幅に開いて、半身になって左リードの構えを取った。両拳に、青い妖力がまとわりつく。
五等級魍魎・イグチが呻き声の濁流のような咆哮をあげた。
敵が素早く踏み込む。コンクリートの地面が、足型に陥没。鋭い爪が振るわれたが、燈真は妖力で硬化した左拳で相手の右爪を弾いた。
ガィンッ、と鈍い打撃音が響く。
(金剛の術は充分できてるわね。二週間で身につくのは、素質というか教え方というか……)
椿姫の分析をよそに、燈真は右拳を振るった。イグチが向かって左側に屈んで拳を回避し、左腕を振り下ろす。それをアッパーでかち上げ、ガラ空きの脇腹にボディブローを打ち込んだ。
ドンッ、と肉が波打つ衝撃と、妖力が爆ぜる音。イグチは胃液のようなものと、赤紫色の血を口から吐いてたたらを踏む。
呻き声に怒りを滲ませながら、イグチは右腕を薙いだ。大振りな一撃、燈真はそれを受けるのではなく、避ける。
直撃を貰えばタダでは済まない――それは、対峙してみればその威圧感でわかる。柊から散々言われた回避の重要性を、実戦でようやく実感を伴って理解する。
屈んだ姿勢から、燈真は左拳でレバーブロー。すぐさま拳を引いて、ヘッドバット。追撃の正拳突きが、イグチの鳩尾を襲う。
怒涛の三連撃に、イグチは血を吐いてふらつき始めた。
ウパァ! と怒鳴り、イグチが突進。燈真の二の腕を掴み、轢殺せんと押し込んでくる。
「!」
燈真はすぐにそれを受け止めた。相手の両肩を掴み、数メートル擦過。地面を削って停止し、追い打ちをゆるす前に膝蹴りを腹に打ち込んだ。
腕への拘束が緩んだところへすぐに振り解き、ハイキックを右側から顎に決めた。
イグチに脳があるのかどうか、あったところで人間の構造とどの程度に通っているのか知らないが、明らかに行動が麻痺する。
「とどめだ!」
宣言し、燈真は右拳への妖力をさらに集中。濃密な妖気が高まり、燈真はそれを、渾身の正拳突きで打ち込んだ。
「〈
稲尾流格闘術、〈
前歯を全て叩き折り喉を貫通。延髄をぶち抜いた拳は、見るからにイグチにとってとどめとなった。
昏倒したイグチは数回痙攣。ややあって、その体が赤から青のグラデーションを描く粒子となって、塵となって霧散した。
燈真の拳に付着した血液も、粒子となって消える。魍魎はその生命活動を停止すると、飛散した体液や分離した部位もろとも霧散して消える特性がある。
彼らはあくまで負の感情が妖力と結びついて具現化した生命であり、実体的な肉を持つ生物ではない。感情が質量を持ったもの、というありえない存在が、やつらなのだ。
椿姫が「お疲れ様」と声をかけてきた。
投げ渡されたミニボトルの水を受け取り、燈真はキャップを捻って喉を鳴らし、水を飲む。気づいていなかっただけで緊張で喉が渇いていたらしく、ミニボトルをあっという間に飲み干してしまう。
「試験は合格、かな」
「充分合格ラインね。あとは筆記試験次第ってところ」
「筆記も頑張ったさ。竜胆に勉強見てもらったし、菘に癒されたし」
「竜胆、あんたと光希には懐いてんのよね。男同士だから気楽なのかも」
「菘にも懐いてる……ってか、頼られてる感じだけどな。あいつも大変な年頃なんだよ」
「まあわかるけどね。私も少し前までお母さんと柊にえらい噛みつく時期だったし」
まあ、自立心の強い椿姫はそうだろうと思った。特に女は、変な距離感になってしまうと女親とずっと相性が悪いみたいなのは聞く。その辺は柊もわかっているだろうから、うまく距離感を保っただろうが。
燈真はミニボトルを握りつぶして捻り、ポケットに捩じ込んだ。ポイ捨ては自然を愛する妖怪に嫌われる、最悪の行為だと知っていたからだし、そうでなくとも人としてすべきではないと思っている。不良少年だったが、それくらいの良心はあった。
「さーてと、帰りましょ。菘十時には寝ちゃうから、寝付く前に部屋に連れて行かないと」
「椿姫の部屋に? 一緒に寝るの嫌がらないのか?」
「まだそういう歳じゃないし。それに、私を尊敬してくれてるから」
「そういやそう言ってたな」
燈真たちは喋りながら工場を出た。
外で待っていたブルーノは、気配探知で魍魎が消えたのを――嫌な空気が払拭されたのを知り、結界を解いた。
「お疲れ様でした。お屋敷までお送りいたしますね」
さながら執事のように微笑んで、ブルーノは車のドアを開けた。
×
翌日、八月三日の土曜日。
午前十時二十分――燈真と椿姫は退魔局の十四階にある、来客用応接間で待機させられていた。
合否通知の発表があるのだ。どんな結果であれ燈真は真摯に受け取るつもりだった。やることはやった――その自覚がはっきりとあるから、ダメならダメ、合格なら合格で受け入れることができると思っている。
椿姫は出された冷たい麦茶を飲んで、「そんなに硬くならなくても大丈夫でしょ」と微笑んだ。彼女には結果が見えているかのように思え、おかげで声をかけられると少し安心する。
心意気がどうあれ、不合格というのはやはり、悔しいものがある。どうせなら合格する方がずっといいし、そのつもりでここに来ているのだからいい気分で合格通知を受け取りたかった。
「燈真、マカロン食べないならちょうだい」
「ああ。洋菓子苦手だし、食っていいぞ」
燈真は洋菓子が苦手だった。その理由は義母にある。
「なんでダメなの? 和菓子とアイスは平気なのに」
「クソ女……義母が手作りの洋菓子を味見しろつって無理やり食わせてきたことが何度もあってな。義母も嫌いならそのお菓子もゲロ甘で食えたもんじゃなくて、苦手になった。和菓子とアイスは出されなかったから、まだ平気だけど」
「へえ。……うま」
椿姫は緑のマカロンを頬張り、口をもぐもぐ動かした。
麦茶を飲んで待つこと五分ほど。やがてドアがノックされた。燈真たちは立ち上がる。
入ってきたのは一つ目のボブヘアの女性と、ガタイのいい五十代の男。
燈真は彼らが秘書と、この支局の支局長であることを事前に聞かされていた。
「本日は本魅雲支局へお越しいただき感謝します。わたくし、支局長秘書の
「よろしくお願いします」
燈真はお辞儀をした。
こういう場でのマナーは、実はよくわかっていない。ただ、敬語は絶対だろうということと下手な動作はアウトということだけはわかっていた。
美原の隣に立つ大男が前に出て、燈真の肩に右手を置く。
「
「はい!」
隣の美原が茶封筒を差し出してきて、燈真はそれを受け取る。
「後日提出していただく書類です。ご自宅でしっかり読んで、サインをお願いします。引っ越されたとのことですが実印はお持ちですか?」
「はい。その辺の諸々のものは自分で持ってます」
「でしたら実印で、判子もお願いしますね。では支局長、予定が詰まっておりますので」
「そうだったな。じゃあな漆宮五等、稲尾二等。柊様によろしく」
そう言って久留米は大きな歩幅で部屋を出ていった。美原がその後ろで一礼し、ドアを閉める。
嵐のような邂逅だったが、何はともあれ燈真は無事に試験に合格するのだった。
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