第5話 恋愛観、瘴気の気配

「ここが駅前ロータリー。昨日燈真が降りてきたところだね」


 午前九時半。燈真は頭が焼かれないようにくすんだ青緑色のソフトハットをかぶって、駅前のロータリーに来ていた。前には白黒のキャップをかぶって耳だけ穴から出した竜胆がおり、先ほどどこか照れた様子で屋台の雪女から買ったソフトクリームを舐めている。

 燈真は甘い洋菓子が苦手だが、和菓子とフルーツ、そして唯一アイスは平気だった。燈真もチョコレートのソフトを食べていた。

 ちなみに竜胆は「菘には黙っといて」と念を押してきた。まあ、あの子の様子を見ればむくれることは目に見えている。それはそれで見てみたいが、あんまりいじめるのもよろしくない。さすがに可哀想である。


「竜胆、あのでっかいビルはなんだ?」


 燈真が指差したのは、七十メートル以上はありそうな巨大なビル。地上二十階建てか、それ以上。こんな田舎の村には似つかわしくない建築物だ。


「ああ。あれは退魔局の魅雲支局ビルだよ」

「村に支局ビルだって? 分団詰め所じゃなく?」

「うん。どうやらここは裡辺地方本局から見ても重要な要衝みたいでね。村がここまで発展したのも、半分は退魔局の功績だよ」


 燈真は聳え立つビルを見た。周囲には訓練施設と思しき巨大な体育館、社宅、関連工場なんかが見られる。


「この村は対魍魎戦闘の最前線。西にある廃墟を知ってる?」

溟月市くらつきしか? 二十年ちょい前に、禁忌級が五体暴れ回って一夜で廃墟になったっていう」

「そう。今も魍魎の巣と言っていいそこから、時々魍魎が押し寄せてくる。場合によっては攻勢と呼べるほどのね。僕らはそれを魍魎夜行って呼んでる。退魔局がなかったら、とっくにこの村は滅んでるよ」


 確かにそう言われると、ここは対魍魎戦闘の最前線と言えた。

 ひょっとしたら今この瞬間も、局員が戦っているのかもしれない。だからこそ、村は今日も平和なのだろう。


「駅から北西に行くと歓楽街だよ。僕らには縁のないところだね。というか学生がうろついてるとお巡りさんが声かけてくるし」

「それは嫌だな。二度もしょっ引かれるのは癪だ」

「しょっ引くって……無実の罪だったんだろ」

「まあな。だが俺が犯人前提の取り調べだから普通に高圧的だったし殴られた。可視化法のことを引き合いに出したら「ここじゃ警官おれら六法全書ほうりつそのものだ」ってよ」

「ひどいな、それ。法ってのは、人間の世界では弱者を守る盾なんだろ?」

「フン。金持ちが資産を守るための盾なのさ。俺ら下々の者のことなんぞ司法は考えちゃいねえさ」


 会話が変な方向に向かっている。燈真はソフトクリームのワッフルコーンを齧った。ザクザクとしたそれを齧り、中身のアイスと共に味わう。夏の暑さがやにわに和らいでいくのを感じた。


「そんなことより、湖に龍神が住んでるっていうのは本当なのか?」

「本当なんじゃない? 時々見知らぬ、角と尾が生えた美女が目撃されるっていうし、それが龍神様かも。僕は見たことないけど」


 竜胆はバニラのソフトを食べ切り、包み紙を丸めてゴミ箱に放った。燈真も紙を丸め、捨てる。

 久々にソフトクリームを食べたが、悪くなかった。たまに食べると、甘いものでも美味い。まあこれがケーキやなんかだったら絶対に断っていたが。

 義母がゲロ甘の洋菓子をしょっちゅう作っては、味見と言って食わしてきたのだ。義母は燈真を嫌うくせに自分の料理の腕には絶対の自信を持っていて、味見の相手がいないと燈真を選んで無理やり食わしていた。

 おかげで洋菓子の類が、燈真はすっかり苦手になってしまったのである。食べたくないと断ると、あからさまに不機嫌になって子供のように拗ねる女なのだ。


「そろそろ戻ろっか。陽が高くなってくると、僕は尻尾に熱がこもってつらい」

「悪い悪い。じゃあ帰ろう」


 燈真は尻尾をパタパタ振って風を取り入れている竜胆と共に、来た道を歩き出した。

 駅前でアイスの屋台をやっている雪女(氷雨ひさめとか呼ばれていた)は竜胆に気づくと、微笑みを浮かべて手を振った。すると竜胆はわかりやすいくらいに顔を赤らめて、手を振り返す。

 これはあれだ、完全に惚れている。

 この手の話題に疎い燈真ですらよくわかった。

 が、焚き付けて厄介なことになっても困るし、竜胆には竜胆のペースがあるだろうから、黙っておいた。人間の恋愛観と妖怪の、さらには種族間によってそれぞれ恋愛観は異なるというし、下手な手出しは無用だ。


「燈真、なに。ニヤニヤしてるけど」

「してないしてない」

「言っとくけど別に僕は氷雨さんのことをそういう目で見てるとかないからね。確かにお淑やかでたおやかで、子供からも好かれるお姉さんだけど……」

「饒舌だな?」


 竜胆が慌てて口をつぐんだ。燈真はくっくっく、と笑いながら中心街を北東に進む。稲尾家が所有する鬼岳という標高八〇三メートルの山がそこにあり、言い伝えでは山頂付近の山小屋には羅刹童子という恐ろしい鬼が住んでいるとかなんとか。

 柊が酒を飲みながら昨晩語っていた。平安時代に鬼退治に来た武士の青年と共に暮らし、人間である彼を失いたくなくて己の骨を分け与えて鬼に変えたとかなんとか。男色の関係にあたるようだが、平安時代では別に珍しくはない――というか、有名な文官ですら何人も男を侍らせていたと伝わる時代だ。

 引越し初日から何聞かすんだ、と思ったのは言うに及ばない。その場には竜胆や菘もいたが、ケロッとした顔だった。

 妖怪はあくまで性行為を「繁殖のための交尾」くらいの認識でしか捉えない。性欲と愛欲が分かれているのだ。むしろ、性と愛を混ぜる方が特殊だというのが妖怪の認識である。サキュバスが性行為を淡々とこなせるのもそのためだ。彼女らにとっては、ただの食事である。愛とか恋愛とか、関係ない。

 なので、彼らは人間のアダルトコンテンツが非常に不可思議なものに思えるらしい。そんなものに金を出すのか? と、たかだか交尾の映像にそんなビジネスが成り立つのかと、三日三晩考える妖怪までたまにいる。羅刹童子が性行為のために武士の男を好きになったかどうかは定かではないが、おそらくそこには深い事情があるのだろう。

 なので、恋愛観が違うと言うのも然り。竜胆の好きが、そっくりそのまま、あわよくばすけべな事をしたいという意味にはならない。


「燈真、大股だなあ」

「わり、いつもの癖だ」


 歩幅が違うから距離が空いてしまう。燈真は桃の果樹園の坂道の途中で止まった。

 けれども、ふとそこで燈真は昨日見た果樹園の、作業着を着た農家がいないことに気づいた。

 それに空気が――いやに生ぬるい。ねと、っと体にまとわりつくような、生命を侵食するような気色の悪い感覚が這いずっている感覚。

 一体、これは――。


「燈真ッ!」


 竜胆が叫んだ。燈真はハッとして、ほとんど本能で右に飛び退いた。すぐ頭上を、風圧が駆け抜ける。髪の毛が数本、ちぎれて舞った。

 風に散る白髪を切り裂いたそいつがいる――後ろで、嗤っている。燈真は坂道を転がって竜胆のそばまで来て、その敵を睨んだ。

 そいつは目も鼻もない、口だけの頭を持った人型の怪物。怨嗟とも嘆きの呻きともつかない声をどろどろ漏らし、こちらに向かって少しずつ歩いてくる。


 あれは――魍魎もうりょうだ。憎しみや悲しみなどの人の負の感情から生まれる異形。

 燈真もニュースで時々見るから知っている。人類と妖怪の天敵で、駆逐すべき害意の象徴。


 その異形が、腕を振り上げた。

 鋭い爪が燈真たちに接触する寸前、青白い燐光が弾け、バチィッと雷鳴音を上げた。


「くっ――」

「竜胆! これ、結界か?」

「うん! でも実戦は初めてでうまく維持できない……! 今までは感知結界くらいだったから」


 バチッ、バチィッと激しく衝突音が響く。両手を前に出して結界を張っている竜胆と、それに対し異形は阻む壁を破ろうと何度も腕を振るい、轟音と衝撃を撒き散らした。

 その青白い結界に、亀裂が入る。竜胆の腕の毛細血管が破裂し、腕からうっすらと血が溢れた。

 血管は妖力を流す管であり、血液は肉体の中で最も妖力を流しやすい伝達媒体だ。結界に力を入れすぎたあまり、フィードバックも大きく反映されたのだ。


「っ!」


 竜胆の額に脂汗が浮かび、燈真は自分が何もできないことを歯噛みする。

 直後、結界が砕けた。


「あ――」


 両手を突き出して結界を張っていた竜胆の、終わりを悟ったような声。怯え切った、その顔。

 魍魎が一際大きく腕を振り上げた。その口は、明らかに笑みを浮かべている。

 気づけば燈真は竜胆を突き飛ばし、彼に覆い被さっていた。

 次の瞬間、背中に焼かれたような凄まじい熱――激痛が走った。


「がっ――ぁあ!」

「燈真! 誰かっ、助けて! 姉さん!」


 再び腕を振り上げた魍魎が、横殴りに吹っ飛ばされたのは竜胆が助けを呼んで一瞬後のことだった。

 どこからともなく現れた椿姫が背負っていた三尺刀を抜き放ち、一刀の下に魍魎を斬り伏せる。

 ザアッと塵になって消えた魍魎と、血振りを行い鞘に納刀する椿姫。


「姉さん! 燈真が!」

「わかってる。止血して家まで運ぶわよ。手伝って」

「う、うん」


 椿姫は式符からガーゼと包帯を顕現し、燈真の体を巻いて血を止める。竜胆もそれを手伝いながら、痛みに呻く燈真を勇気づけ続けた。


 燈真は意識が揺らいでいる中で、母が死んだ時のことを思い出していた。


 蝉の鳴き声、読経の声、燈真は母は死んでいないと怒り狂い、葬儀場を飛び出した。

 いくあてもないまま歩いている時に、禁足地と言われる場所まで来てしまい、どうでも良くなってそこに入って行こうとした。死にたかった。死ねばまた母に会えると本気で信じていた。

 そうして自分は、出会った。白い狐に。


「強く生きなさい、懸命に」


 その声が、いまだに脳裏に強くこびりついている。


 死にたくねえ。

 燈真は、結局どんなに辛くてもそう思う。高校で濡れ衣を着せられた時の怒りと絶望、横暴な取り調べ、父の冷淡な態度。

 それでもなお、生きたいと思う。死にたくないと強く思う。それは、きっと――。


×


 フクロウの鳴き声が木霊する。燈真は鼻元にこそばゆさを感じて目を覚ました。

 視界が白い。何かが乗っかっていると思って、燈真は顔に手をやるとモフっとしたものが乗っていた。上体を持ち上げつつそれを抱えると、十二、三キロほどの狐がいた。真っ白でふわふわ、しっぽと耳の先端は紫色で、尾の数は二本。稲尾菘だ。本来の狐の姿でニコニコした顔で「えへー」と笑っている。


「いやされた?」

「くしゃみ出そうになった」

「わっちはモフモフだからな……」


 よくわからない理屈だが、菘を下ろしてやると彼女は少女の姿に変化し、「ひいらぎー! おねえちゃーん!」と家族を呼びに行った。

 辺りを見回すとここは自分の部屋で、時計はもう午後八時を示している。ほとんど一日眠っていたのか、自分は。

 ぽりぽりと頭を掻く。ズボンはそのままだが、上着は着替えさせられていた。というか、上半身裸だった。包帯がキツく巻かれ、背中がまだじんじん痛む。皮膚が引き攣る感触がした。もしかして縫われたのだろうか。

 部屋の電灯は暗めになっていたが、燈真はリモコンを手繰り寄せて中間の明るさに変え、置いてあった麦茶を煽った。氷が溶けてぬるかったが、喉が渇いていたので一息もつかず、三〇〇ミリのタンブラーを飲み干してしまう。


 若干の間を置いて部屋のドアが開いた。柊と椿姫が入ってきて、隣には竜胆もいる。

 竜胆はもじもじしつつ、それから自分自身で前に出て燈真に抱きついた。


「よかった、無事で……」

「ああ……あの程度で死ぬわけないだろ」


 燈真は自信ありげに言ったが、正直どうなるんだろうと思っていた。

 痛みというよりは熱いと感じるほど深い傷だったのだ。失血死、あるいはショック死してもおかしくないと思う。だが、幸いなことに自分は生きている。若干血が足りない気もするが、それはおいおい療養中に良くなっていくだろう。


「妾の子孫を……竜胆を庇ってくれたこと、感謝する。お主がおらねばどうなっておったか……」

「別に、いいって。できることをしただけだ」


 燈真は少し気取ってしまった。実際は、怖かった――だがそれ以上に竜胆が酷い目に遭うということの方が怖かった。

 あの時の怯え切った顔は、明らかに死に対する恐怖の現れである。

 恐れるものから逃げ出したいと思っていたはずなのに、彼は燈真を守るために結界を張って守ってくれていたのだ。そこまでしてくれた子に対し、自分が何もせずにいるというのはなんとも収まりが悪かった。


「燈真、大丈夫?」椿姫がいつもの自信家な様子はどこへやら、心配そうな声音で聞いてきた。

 無理しても仕方ないと、燈真は素直に、

「ちょっと痛む。じんじんするっていうか、血が足りない感じだ」

「鉄とタンパクとビタミンCが取れる飯を伊予に作ってもらうか。まあ燈真はよく食うしすぐ良くなるだろ」


 そう言って柊は手にしていたお椀を渡した。燈真はスプーンも渡され、それが梅がゆだと気づいて「いただきます」と言ってかき込んだ。

 熱すぎずぬるくもない良い温度で、燈真は病人であることも忘れがっついて食べた。

 燈真の世界観はシンプルだ。食って寝れば治る、とそれだけである。元々病院嫌いなのだが、体力があるので医者にかからなくとも平気だろうという妙な、自分への信頼があった。


「あんた勇敢ね。怖くなかったの?」

「……竜胆がさ、すっげえ怯えた顔してたんだ。普段はちょっとすましたような顔してんのに、あの時は本当に死を悟ったみたいな顔してて。……気づいたら体が動いてた」


 柊がじっと聞き入っていた。

 燈真はしばらくぐるぐる考えて、竜胆の顔と椿姫の顔、そして柊の目を見た。


『なんでだろうね。自分がすべきと思ったからじゃない?』


 昨日椿姫が言っていた言葉の意味を、なんとなく理解した。

 理屈ではないのだ――こういう、誰かを、何かを守りたいと思う気持ちは。


「椿姫、柊……竜胆」

「ん?」

「俺、退魔師になりたい。理由は正直わからない。でも、俺がそうすべきだと思った」


 燈真の決意。椿姫、そして竜胆は目を丸くし、柊はニヤリと笑った。


「……いいだろう、妾が鍛えてやる」


 柊が力強く言って、燈真の肩をとん、と叩いた。

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