【短編集】秋の夕日に
泡沫 河童
Am、そしてFmaj。
夜中23時の海老名駅、風が冷たい。
ViNA GARDENSができたことでViNAWALKだけでなく駅のすぐ近くも人が集まるようになったこともあり、人々の往来の足音がいつも鳴り響いている場所だ。
しかし深夜にもなるとさすがに人影もまばらになり、遮るものがなくなった通り道は昼間と打って変わって孤独の冷たさを風が語りかけてくる。
コンコースから商業区域まではただの屋根付き通路があるだけで、私たちストリートミュージシャンにとっては夜は勝負どころとなっているである。
季節を最も感じるのは指先だ。ライトな弦から振動数が指に響いて痛みを訴え始める。一曲弾き終えるだけでもう指先は血が出そうなほど痛い。いや、11月までになると実際に数曲引き続ければ血が出てくるであろう。
私は女子の中では身長が大きいわけでも小さいわけでもないが、手の大きさは一家言ありギタリスト向けだと親には言われ続けていた。ただ、こんな歳になってもまだ音楽にしがみ続けている姿について親がどう考えているかは怖くて聞けていない。
それでも私がかき鳴らし続けるのは、若気の衝動を訴えたいという年齢も超えて三十路に達した今では、どこかのスカウトマンに声を掛けてもらえないか、またはアラブの王族がスポンサーになってくれて好きなだけ音楽をさせてくれないか、なんてことを往復で考えながら、ただ目の前のオーディエンスに向けて情熱を喉から叩きつけていた。
今日もレパートリーを終えて息も上がり、人影がまばらになってきた頃に、まばらにチップの入ったギターケースからふと目を離すと、一人のしゃがんだ女性に目が行った。
その女性はライブを行っていた日々で何度か目にした人で、年のころは私と同じくらい、いつも黒のスーツ姿で、細いレンズの眼鏡をかけていてまとめ上げた髪をきっちりそろえている姿はいかにも真面目そうな雰囲気を纏っていた。
たいてい平日に現れるが、休日にもたびたび現れるのでいつしか顔を覚えてしまっていた。
いつもただ腕を組んで佇んでいてライブの終わりとともに立ち去ってしまう人で、最初はレーベルの人かと期待してしまったがそうでもなかったようで。
今日は珍しくしゃがんで聴いているなと思っていたら、その女性は嗚咽を漏らしながら泣いていた。
「あの…」
私は、私自身が気が動転したというのもあるが、どうにも気になってしまってつい声をかけてしまった。
「あ、いや、ごめんなさい!その、あの、失礼します!」
女性はハンカチを出すために開けていた鞄を急いで閉めようとしたが、手が滑って中身を少し散らかしてしまった。私も含めて周辺の人々でわたわたと散らばった中身を拾い集めると、女性は何度も頭を下げながら駆け足で立ち去って行った。
やれやれとチップを回収しようとギターケースを見ると、その脇に何やら小さいパスケースのようなものを見つけた。
よくよく見てみると、それはSuicaの定期入れだった。演奏中は見かけなかったことから、おそらくさっき女性が落としていったものだろう。
カサバアケミ。それが彼女の名前だろう。定期区間を見てみると、秦野から大手町になっている。ということは、わざわざ海老名に途中で降りて聴きに来てくれているのだろうか。いや、それは自惚れだ。きっと用事があるときに聴きに来てくれているのだろう。
私はギターを置いて、小田急のコンコースに向かったところ窓口にそのカサバアケミらしき人物を発見した。着こなしの割には就活生っぽさを感じる姿は間違いない。
「すみません、これをお探しですか?」
私は後ろから声をかける。ちょうど駅員さんが遺失物の内容を聞き取っている最中であったようで、カサバアケミは半泣きで振り返った。
一通りを通り越して怒涛の勢いで謝罪を受けた私だったが、ほとんど耳には入っておらずなんだか謝罪の語彙の多い謝りなれた人なんだなぁとか考えていた。
「あの…いつも聴きに来てくれてありがとうございます」
私はとりあえず感謝の意を伝えた。これは、なんでもなく本心だ。
「いや…!私は…!あの…!!」
カサバアケミは目も合わせず顔を手で隠しながらしどろもどろだった。
「私…あなたのファンなんです…」
目はコンコースの床を向いたままだったが、カサバアケミは滔々と語り始めた。
2年前辺りに営業先で立ち寄った海老名駅で初めて目にしたこと、何度も聴くうちに歌声に魅了されたこと、カバー曲だけでなくオリジナルにも心を打たれたこと、それ以来辛くなったら聴きに来ていたこと、それがどんどん頻回となり自分が夢中になっていることに気づかされたこと…。
そして、今日はとても仕事で辛いことがあったらしく、独りでやけ酒をした後に私のライブに来たら心を打たれて思わず泣いてしまったこと。
「ごめんなさい…私…こんなこと聞いてもどうでもいいですよね、ごめんなさい…」
カサバアケミは、迷子になったのにそれを自分のせいにして隠そうとする少女のような表情だった。誰かに頼りたいけれども、それを心の外側にある壁が阻むような、そんな表情だ。
「それじゃあ、私帰りますね!それじゃあ…」
カサバアケミが駅のホームに向かおうとして振り向いたとき、私は無意識のうちに右手を握っていた。
「あの、私のファンって言ってくれた人って初めてで、それで、あの、それって大事なことで、その…」
小中学生の頃の通知表ではコミュニケーションが下手だと指摘されていただけあって、いざとなると自分でも何を言っているのか訳が分からない。だけど、私にはそれでも、心を伝えるためのギターがある。
「また聴きに来て下さい。貴女のために、私歌います!」
あ、いや、でもほかの聴いてくれる人にも歌ってるわけで、それで…と私が逆にしどろもどろになっている姿を見て、カサバアケミはぽかんとしていた。
「…ハイ!何度でも、私聴きに来ます!」
私が握っていた手を逆に強く握り返し、カサバアケミは涙目ながらも強い笑顔で私に言った。その目は、もう迷子の少女の目ではない。
「あ、そうだ、これ…」
カサバアケミはスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、取り出した名刺に何か書き込んで渡してきた。
「これ、貴女のファン第一号として、受け取ってください!」
笠羽明美、名刺の会社名は高校中退の私でも知っているような名前だ。
「あとこれ」
笠羽明美は、一緒に鞄からホッカイロと暖かいコーヒーの缶を手にねじ込んできた。
「じゃあね、私のヒーロー!」
そう言って、笠羽明美は終電を逃すまいとする群衆の中に消えていった。
残された私は、手に残された名刺を改めて見た。裏には、LINEのIDが書いてあった。
深夜0時の海老名駅、風が冷たい。
だけど、私の手は、そして心はいつもより暖かかった。
【短編集】秋の夕日に 泡沫 河童 @kappa_utakata
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