第6話 フィトゥスの日誌
フィトゥス・ヘスティアス、それが私の名前である。
悪魔としてこの世に生を受け、様々な人物と関わって来た私だが、今は縁あってここ、アルヘオ家にお邪魔させてもらっていた。
お邪魔させてもらっている、とは言ってもいままでの様な仮契約では無く、この家に骨を埋める覚悟を決めた本契約の方である。
そんな私はいま、非常に困った状況に陥っていた。
「ですからエルピス様にはもう戦術級を教えてしまうべきです。この間の様に不用意に戦術級クラスの魔法を行使しては最悪エルピス様の身に危険が及びます、それを第一優先で防ぐべきなのでは?」
「基礎もできていないのに戦術級を教える方がまずいわ。エルピス様の最高魔力は今のところ把握できていないけれど、フィトゥスからの報告だけで国家級が二発分、古龍にも匹敵する魔力量よ」
「ヘリアとリリィが喧嘩するなんて珍しいわね。確かにあの魔力量は危険だけれどエルピス様はしっかりと抑え込めている、なら急がなくてもよいのでは?」
エルピス様の側付きとして任命されている執事やメイドは私を含めて計六名。
もちろん序列は存在し、この家に長く仕えている最後に言葉を発したメチル先輩が一番手、ついでここにはいないが猫人族のティスタ先輩、次にヘリアリリィ私でもう一人の森霊種がエルピス様の側付きとして働いている。
その内の三名がこうして議論を交わしている訳だが、森霊種同士では話がつかないと彼女達は最終決定権を私に振りたがる癖がある。
誰を選んでも地獄の選択肢、できれば巻き込まれたくないものだ。
「あ、あのエルピス様はもうそんな魔法を使えるんですか?」
話を横から聞いていたのか、そう言って森霊種達の話に混ざったのはエルピスの側付き最後の一人、未だエルピス様と喋ったことすら無い見習いの少女だ。
彼女はこの家に入ってから日も浅く、エルピス様と直接面会する機会を作る時間を全て家事の修行に費やしている。
なのでエルピス様と実際に話しているところは見た事がないが、彼女からはエルピス様の事を何度か見た事があるのだろう。
自分より年下の少年が戦術級を扱えることに驚くのも無理はない……というよりは驚かない方が無理がある。
「そうよ。貴方って魔法の種類がどれだけあるか知っていたかしら」
「ええっと……農民でも才能があれば使える初級魔法、駆け出しの冒険者や魔法使い見習いが使う中級魔法。
中堅の冒険者や魔法使いが使う上級魔法、上位の冒険者や宮廷魔術師クラスでないと扱えない超級魔法。
その超級魔法の使い手が数名居ないと使えない戦術級魔法に、さらに人数と触媒を必要とする国家級魔法。
神話に存在だけが噂されている神級魔法の計七種類だと聞き及んでいます」
「大体それで合ってるわ。ならその凄さがどれくらいは分かるわね。今のエルピス様は戦術級どころか国家級、つまりは一つの国を落とせるだけの力が既に備わっているのよ」
国家級の魔法を扱う事ができるのは猛者が集うアルヘオ家の中でもエルピス様を除けば唯1人、当主イロアス・アルヘオ様のみである。
子が親と同等の魔法技術を持つことは遺伝でもあるらしいにはあるらしいが、それでも長年の修行が必要な領域のはずだ。
あんなに簡単に、まるで思い描いた事がそのまま形として現れる様に現象が本来は発生してはいけないはずなのですが。
「話が長くて大変にゃフィトゥス。ここは私が受け持ってあげるから早く逃げとくにゃ」
「ありがとうございますメチル先輩、それでは俺はこの辺で」
影の中に入る様にして私は身体を地面に溶かすと、森霊種達に支配された部屋からなんとか脱出し渡り廊下に出る。
いまの時間帯だとエルピス様は寝ているころだろうか。
一体なんの
出来れば起きていて欲しかったものだが、中庭にエルピスの姿は無くフィトゥスはがっくりと肩を落とす。
「まぁメチル先輩がこっちに来ている時点で察しは付いていましたけれど……」
「よく寝て良く食べてよく動く。エルピスはいたって健康に育っているわね」
「奥様、本日もお仕事お疲れ様でした。彼方へは行かない方がよろしいかと」
「ありがと、どうして?」
「いまリリィ達が暴れておりますので。メチル先輩に私達の可愛い後輩が居るのでそう白熱しないとは思いますが」
渡り廊下を過ぎ去り部屋の前を通ると、丁度良いタイミングでクリム様が顔を出す。
仕事の時だけは彼女は正装に着替える癖があり、戦闘時に着るような服では無いがいつものダラダラとした服装では無く今日はぴっしりときまっている。
クリム様はそう言った私の顔を一瞬見た後、思いついたように腕を引っ張って私を室内へと誘導した。
その事に疑問を抱かないままに部屋の扉は締め切られ、この家の中に密室が新しく生まれる。
「え、ええっと……なんでしょう?」
「エルピスの事でね。丁度いいからリリィ達にも言っておいて欲しいんだけれど、私から二つ」
「はい。分かりましたなんなりと」
呼び止められ、主人から指示を出されるのならば私がそれに従わない通りはない。
片膝をつくとまではしないものの、それ以上の敬意を持って私は主人の言葉に耳を傾ける。
「まず一つ目、エルピスの黒髪に関しての質問は今後一切禁止、向こう側から話を振ってくるまではこちら側からふらないこと」
黒髪はこの世界でも特殊な髪の色である。
もちろん光の加減で黒に見えるものだったり、そもそも黒髪が生まれない種族なんかも存在するものの黒髪は稀有な存在だ。
その意味にエルピス様が気がつくまで、もしくは気がつこうとするまで私達からおせっかいを焼くというのは確かに無駄な行為である。
それを話題として提供しようとしていた手前、クリム様の登場は私にとって本当にタイミングの良いものだった。
「二つ目にあの子の力の事。イロアスがまだ帰って来ていないから正確なことは言えないけれど、あの人が帰ってきたらあの子のテストをする。それまでは魔法は戦術級まで、体術は護身術のみの指導とするわ。問題ないわね?」
「はい。全て主人の意のままに」
私に指示を出すだけだ、たったそれだけの事なのに主人の顔は苦々しい。
きっと自らの子供の成長が見たくて見たくて堪らないのだろう、それはクリム様と同じとまでは口が裂けても言えないが私も同じだ。
彼の成長が見たい、彼が強くなるところがみたい、エルピス様の為ならば命を賭すと側付き達は全員が決めている。
そんな側付きよりも更に深い愛情でエルピス様に接するクリム様からすれば、仕方がない事とはいえ苦渋の決断だったのだろう。
最も危険な事はエルピス様が力の使い方を分かっていないまま力に溺れる事だ、そうなってしまえば最後最悪の場合はエルピス座をその手にーー
「分かったわ。貴方エルピスに弱いから少し不安だけれど……任せたわよ?」
「酷いですねクリム様。公私混同はしませんよ」
それは嘘だ、この家での生活全てがフィトゥスにとって公であり私的でもある。
ならば主人に対して嘘をつかない方法は、そうならないようにすればいいだけの事だ。
それからどこかへと出かけてしまったクリム様を見送り、私は先程言われた言葉を反芻してからエルピス様の部屋へと向かう。
いつもと同じ扉なのに今日はなんだか少し重たく感じられ、その感覚に私は気を引き締め直した。
「……やはり寝ていましたか」
時刻にすれば朝の八時を少し過ぎた頃合いだろうか。
エルピス様が睡眠を開始するのは二十一時頃なので、十一時間以上は睡眠に充てているという事になる。
龍人はその元が龍であるという性質上、一度の睡眠で長い時では一週間から一月程度になることも少なくはない。
まだまだ小さなその身体を眺めながら、近くにあった椅子に腰掛けると私は寝顔に言葉を投げかけた。
「あの時感じた魔力の質、明らかに人のそれでも龍人のそれでもない異質なものでした。エルピス様、貴方は一体なんなのでしょうか」
人というよりはもっと崇高な、崇めるべき何かであったような、馬鹿馬鹿しいといえばそれで終わりだが、私が感じたのはそんな言いようのない違和感だ。
「んんっ……フィトゥス? おはよ」
そんな私の声で起きたのか、エルピス様は眠たそうに瞼を擦りながら身体を起こす。
そんなエルピス様に対して椅子から身体を起こして真面目な頭に切り替えると、小さな咳払いをしてから私は朝の挨拶を返した。
「おはようございますエルピス様。良いお目覚めですね」
「朝は寒いから起きられないや……ううっ、起こしてー」
「自分で起きなきゃダメですよエルピス様」
そうは言いつつも私は差し出されたエルピス様の両の手を握り、優しくその身体を起こす。
先程まで布団に入っていたというのに随分と冷たい手で、
確か朝は体温が低く、夜は体温が高くなる完全な夜型種族だったはずだ。
「そう言いつつも起こしてくれるフィトゥスが好きだよ?」
「はいはい、リリィにそんなことを言ってはダメですよ誤解されますから。今日は魔法の訓練とお勉強です」
「えぇ、勉強嫌なんだけど」
「教養は日々の助けになります。夢を選ぶ為の選択肢にも、それ以外にもね。ほら行きますよ」
会話をしながら着替えを終えさせ、エルピス様の手を引いて部屋へと向かって歩いていく。
丁度別棟の近くを通る必要があるのだが、未だに口論が終わっていないのか耳にはリリィ達の声が小さく聞こえてくる。
出来ればやめて欲しいものだが、そうは言ってもあの三人の間に入っていくような勇気もない。
「なんか向こううるさいねー」
「耳を塞いだ方がいいかと、呪いみたいなもんですよあれ」
「呪いってなにさ、怖いんだけど」
軽口を叩き合う時間が私にとっては一番心地いい。
嘘も何も無く、心からの言葉を伝えてくれる主人との会話は私にとって最良の時間だといえる。
心を覗く悪魔の力があるからこそ、エルピス様の言葉に対して私は感動するので、他に悪魔が居ないアルヘオ家本家では私の心の内を察する事ができるものはいない。
「そういえばさフィトゥス、一つ言いたかった事があるんだけど」
「なんでしょう?」
「いつもありがとうね」
こちらを向いて少し恥ずかしそうに感謝の言葉を述べる彼の姿が、どうしようもなく私を救ってくれた時のイロアス様と同じ様に見えて──。
心の中にあった疑念は気が付けば消え去っていた。
彼が何者であったとしても、こんなにも良い子なのだ。
たとえ何があったとしても守らなければならない可愛い子供。
「ーーええ。全てはエルピス様の為に」
感謝の言葉を告げて部屋に入っていく主人の背中は、まだまだ当分は小さい。
だがその小さな背中がこれから先どうなるのかは、エルピス様次第だ。
今日一日を日記に記すのならば、きっと自分は最後にこう書き記すだろう。
この家に初めて来た日と同じ、あの言葉を。
「忠義は全て貴方様に。我が身全てはこの家の為に……でしたっけ」
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