第6話-最終話 ※侑里視点

 日差しは春なのに、しめった空気の日だった。撮影現場で一緒になった女優からしつこく飲みに誘われた葛城侑里かつらぎゆうりは、自分には葛城純という名の愛おしい妻がいるからと自慢げに告白した。そのことを純に伝えたら、ゴシップに売られるよ、と大いに叱られてしまった。


「この世から抹殺したい男の話ならしてもいいの?」


 だから侑里は、殺風景なリビングから隣のダイニングに声を投げた。侑里はソファで頭からブランケットを被り、キッチンに立つ純の後ろ姿を眺めた。仕事からの帰り道、雨に降られて帰宅した侑里は、純と一緒に料理したいと甘えた。それも純に、「侑里が風邪を引かないように」といった理由で断られてしまう。ドライヤーをかけたのに、侑里の長い髪がしっかり乾くまでソファでブランケットにくるまれていろと命じられたわけだ。


「侑里は物騒だな」


 チラリと横顔を見せてくれた。その口元は弧を描いていた。




 純の父親と侑里の母親が今年の正月に再婚して、自分達は兄弟となった。顔見せの場で、侑里は五つ年下の純に一目惚れした。人を好きになった、全身で誰かを欲しいと思ったことは初めてのことだった。純に抱いた思いは、いままで侑里が経験してきた、それなりに成熟した精神が求め合うような恋愛ではない。挨拶を交わした時の、あの黒眼に引き込まれた。白い肌にむしゃぶりつきたくなった。彼の細い足にひざまずいて頭を撫でてもらいたかった。純のくしゃっと笑う表情をもっと見たい。それを邪魔するようなら、たとえ家族でも許さない。純への思いは、獣が威嚇するときに咆哮するような、ハエがたかるように醜い、狂気をはらんだ執着だった。純と過ごす時間は、侑里からすると逢瀬そのものだった。純とは初めて会ったとは思えないほどに、血の繋がりを感じさせるほどに、深い密度を感じた。純は侑里をお兄さんと呼んで慕ってくれた。純が昇進したと言うから、気休めに安いリボンの付いたプレゼントをしたら、純は涙を流して喜んでくれた。それは侑里の飢えを暴走させる要因でもあった。

 最初に純と関係を持ったのは、侑里のマンションだった。自分の部屋に純がいると考えただけで理性がぶっ飛んだ。純を無理やり玄関に押し倒し、自分は号泣しながら腰を突き上げたのだ。そうしないと死んでしまう、と獣が発情したみたいに、純を犯した。床は血まみれで、いつの間にか純は気絶していた。侑里は救急車を呼ばず、ただ胸が潰れそうな思いで泣き喚いていた。

 純が起きたときに、


「どうしたらいい、どうしたら、もう君を傷つけないかな」


 と侑里は喉を震わせた。


「侑里お兄さんは僕を好きなの?」


 二十五の年にしては幼い口調だった。後になって分かったことは、あの時の純は恐怖よりも、驚きが勝っていたそうだ。よく自分に欲情したね、と言った。純は驚くほどに自己評価の低い男だった。


「愛してるんだ、どうしたらいいか分からないくらいに」


 尻から血を流す純の頬に、何度も侑里の水滴が落ちた。性器を純の血でぬらぬらとさせた侑里は、この場で謝罪するために喉を切ろうかと台所に向かった。包丁を手にするも、もう一度だけ純のかわいらしい顔を見届けたいと欲が顔を見せた。玄関に戻ると、純は呆けた顔をさせ、股を開きながら壁にもたれ掛かっていた。顔をこちらに見せて、


「侑里お兄さんなら、僕はどんなになってもいいよ」


 と純は腕を伸ばして、侑里を手招いた。純の隣にしゃがんだら、侑里の頬を拭ってくれた。侑里は全身から力が抜け、木の床に包丁を落とした。侑里はその場で這いつくばり、床に付着した純の血を舐め取る。それを見た純が足を床に滑らせ、赤いペディキュアを塗ったみたいなつま先を侑里の口元に寄せてきた。侑里はそれを口に含み、股間を昂ぶらせた。


「僕を好きになってくれて、ありがとう」


 そう言った純の甲高の足を舐め上げ、股の間に顔を埋めた。侑里は視線を上げ、純の細めた目を見つめた。彼の瞳には、この倒錯的な、グロテスクな愛がどう映っているのだろうか。それを純に訊ねても、彼はきっと笑わないだろう。




「俺は純がいればいいだけだから」


 純がピーラーで皮を剥いた人参は鮮やかなオレンジ色をしていた。熟したトマトに包丁を入れると、まな板の上でぐちゃりと潰れた。薄赤いゼリー状の組織を、純の白い指がすくう。それを舐め取りたいと思うだけで、馬鹿みたいに腰が揺れた。早く純の体を味わいたい。交尾したい。純の平らでやわらかい腹を限界まで膨らませたい。


「純は?」


 命令に背いた侑里はソファを下りて、純の側で足を止めた。ブランケットが床に広がった。


「侑里、髪は乾いた?」


 そう言った純はシンクに包丁を置いて、タオルで手を拭いた。


「もう大丈夫だって、純は心配性だな」


 純は食材をそのままにして侑里を見上げた。

 侑里が純の指をまとめて口に含むと、舌にトマトの味が広がる。指の間をれろれろと舐めたら、純の唇から湿った吐息が漏れる。口の愛撫から解放した手は唾液塗れで、侑里はそのまま自分のジャージの中に忍び込ませた。それは完全に硬くなっていたから、純に見せびらかすように強く握らせた。


「料理を邪魔されるのは嫌だって言ったよね」


 ごめん、と答えた侑里は純と唇を合わせた。舌を差し込んで絡ませる。純の腕を掴んで手淫を促すと、痛いくらいにこすられる。侑里はそれだけで腰が揺れた。


「もう、あの男とは会わないよな、あのハエみたいにたかる連絡魔を抹殺したくてムカムカする」


 一目見た時から、自分と似たろくでもない男だとわかったから、余計に癪だった。


「うん、侑里が嫌がることはしないよ」

「違う、俺がとかじゃなくて、純の意志で」

「そう言われると困るな、まあ……正直に言えば、二葉は親友だよ、会えるなら会いたい」


 唇をもう一度合わせた。


「そ、そうだよな、ならさ、これからは、俺も一緒でいい? あいつ、下心丸見えだから、っ」


 ふふ、と純が笑った。どうしたの、と純に聞こうとしたら、彼の手のひらに吐精していた。


「侑里、ご飯を食べよう、お腹空いた……そうだ、これを食べちゃおう」


 純は白濁した液体に塗れた手を舐めた。肉と一緒に吸い込み、じゅるっと音をさせた。純の尖った喉仏が上下する。それだけで純にぶつけた情熱が、彼のなかに生きていくと感じた。


「まずい」


 べー、と純は白い舌を見せた。その顔は何も知らない子供みたいで、丸い目から大粒な涙を零す危うさに目を奪われた。


「どうしたの、そんなに不味かった? 純のは美味しいのに」


 純の黒目を見つめていたら、その常闇に吸い込まれてしまいそうで、腰が痺れた。


「最低」


 そう蔑まれた侑里は、純のきれいな白目から垂れた水滴を舐め取り、次に唇を吸った。ぽってりした下唇を甘噛みして、彼の耳元にささやいた。


「最低でもいい、純、愛しているよ」


 侑里は床に膝を突き、純のしおれたものを口に含んだ。練乳が出てくるまで根気よく頭を動かし、チューブみたいに先端から絞り出した。頭上から悩ましい声が上がり、純はへたっと尻餅をついた。侑里は立ち上がり、まな板の上にある丸丸としたトマトを手でつぶす。もう一度つぶす。侑里は大きく開けた口にトマトを流し込み、ジュレみたいな果肉と口腔内の練乳を混ざり合わせた。早く飲み込みたいのを我慢して、純に口移しをした。親鳥みたいに餌をたっぷりと与えたら、純はそれを飲み干してくれた。


「侑里はドSだね」

「純があまりにかわいいからだよ、そんな俺はいや?」


 唇を尖らせた純の眼差しは、侑里だけを見ている。純の黒目は夜の底だ。身の内にどろどろとした暗闇が広がる陶酔感に、頬が落ちそうだ。

 侑里は深呼吸し、こう思った。純を取り巻く具体的な何かを終わりにしたいと、彼にとって必要で、侑里にとって不必要なものを断ち切らせたい。彼と自分の邪魔をするものを粉々に叩きのめしてやりたい。そうすれば、この世でふたりだけが存在できる。もちろん、純の嫌がることはもうしないから、全部空想に過ぎないのだけれど。


 純と視線を合わせたまま、彼の手の甲に口づける。石けんの匂いがした。


「好き、侑里、大好き」


 大好きか。控えめな愛情表現につい笑ってしまう。純の首筋に鼻頭を埋めると、あたたかい肌の匂いが侑里の内側へと浸透していく。


 愛しているよ、と侑里が念を押して言うも、互いに合わさった吐息と共にするりと抜けていった。

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うつくしみの手 佐治尚実 @omibuta326

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