第3話-失恋

 このあと新しい肉屋の店員でも探すか、と血の巡った股間を潰すように足を組んだ。


「二葉?」


 このまま応えなかったら、きっと純はその小さな頭を悩ませて、縋るように二葉の名前を舌で転がすだろう。二葉の機嫌を取ろうとする純を放置するのはやぶさかではない。が、最低な男の話を聞いてやってもいいだろう。


 実の弟に欲情しなくても、もしも純のような人形が店で売っていれば、着せ替え用の上等な服と一緒に買う。しかし、純の心を置いてある棚はない。ある程度の労力と財力をもってすればロボットに記憶を植え付けることも可能なのだろう。それが叶う時が訪れるまで、純の姿をした人形を眺めの良い部屋に飾り、たまにベッドに寝かせて大事にする。それも悪くない気がした。


 尻の位置をずらしていたら、純が「あのさ」といきなり声をあげた。驚いて顔を上げた二葉に、純は信頼しきった顔で小首を傾げさせた。


「今日さ、まあ、いつものことなんだけれど、二葉と会うときにはスマホの電源を切っているんだ」


 映画館じゃあるまいし、と二葉は喉の奥で笑った。二葉の軽い気配に気が付いたのか、純はうつな視線を下げ、鞄から取り出したスマートフォンをテーブルに置いた。

 二葉は、画面の真っ暗なスマートフォンより、純の白い手に目を引かれた。長くて細い指は丁寧に切りそろえられている。二葉は仕事の関係上、大勢の手を見てきた。その中でも、性別は関係なく、純のすらりとした手は特別に愛おしく感じた。


「なんで?」


 二葉の冷たい声に、純が手を引っ込めようとする。純は指の腹でテーブルをなぞり、手のひらを反らして、指を一本ずつテーブルの角から落としていく。

 その意図的なまでの色香に、二葉は腹の底で瞬間的に熱が吹いた。


「善良な人でいたいから」

「スマホと何の関係がある」


 言い淀む純を急かさないよう慎重に相づちを打った。

 案の定、純は奥二重の線が見えなくなるくらいに目を見開き、唇を割り開いた。ぽってりとした下唇が唾液で光る。


「人を傷つけないように、手を抜かないように優しくするためには、適度な距離感が必要なんだ」


 SNS中毒か、着信恐怖症か。それとも、二葉への文句だろうか。であれば、二葉と合う日を選ぶ意味がない。言葉を濁す純を見ていたら、腹の立つ疑いが現実となりそうだ。


「俺との時間もか?」

「それは……、違うんだ」


 純のはっきりとしない反応が面白くなくて、二葉はスマートフォンを手に取る。


「電源は入れないで」


 純が咄嗟に口を出してきた。他の客に配慮した声は、鳥のさえずりみたいだった。


「知ってるよ」


 二葉は特徴のない本体を裏返して、製造メーカーを確認する。マジかよ。と頭から血の気が失せていく。


「これ、純が選んだのか、いつ機種変したんだよ」

「……違う、今年の四月から」


 一体どこのどいつに首根っ子を押さえられているのやら。二葉なら片手で絞められるような首に、自分以外の誰が?


「電話がかかってくる、僕がどこにいるかアプリも入れられている、場所を特定されて迎えに来られるから、ちなみにこれで盗聴もできるみたい、嘘みたいだけれど、スマホのスクリーンを向こうも同時に見られるみたいで、僕が何を調べているか、何のサイトを見ているか、何の動画を見ているか、何の音楽を聴いているか、全部筒抜けなんだ」


 純のスマートフォンは海外製で、機械の改造やらを趣味とする界隈では有名な機種だった。似たようなことを考えていた二葉からすれば先手を打たれたも同然だ。だから、純の話には信憑性がある。


「お前、借金か犯罪でもして監視されているのか?」


 二葉はわざと肩をすくめて、一つ笑い声をあげた。隣のテーブルの客がこちらを見た気がする。それもどうだって良かった。もし純が犯罪者で、借金返済に追われている身でも、彼に対する思いがちっとも薄れないことに気が付いたからだ。


 ああ、俺は親友としてではなく、それ以上に純のことを好きになっていたのか。そう思うだけで、鼻の奥がつんとした。


「違うよ、いまの恋人がしているんだ」


 気が変になりそうだ、と純が甘いため息と共に言い零した。


「嫌なら別れればいいだろう」


 別れろ。別れてくれ。自分達の関係が間違いではないと証明してくれ。


「スマホでどうこうは怖いけれど、初めて好きって言ってくれた人だから、それにその人といると自分を大切にできるんだ、それってすごいことだよね」


 言い切ってすっとしたのか、純は薄い体を椅子の背もたれに投げ出した。諦めたような、どこかうれしそうな顔をさせた。この瞬間を残したい。


「俺を見ろ」


 二葉は自分のスマートフォンで、こちらを向いた純を撮った。


「なんだよ、急に撮るなよ、恥ずかしいから消して」


 純の手が伸びてくる。それを掴みたかったけれど、二葉は身をよじってかわした。


「あまりに馬鹿面だったからさ」


 と二葉はスマートフォンをズボンのポケットに入れて、わざとらしく口角を上げた。いまの自分は上手く笑えているだろうか。指の先から凍りそうだったから、コーヒーカップを手のひらに包んだ。カップとソーサーが激しく音を立て、ぬるいコーヒーで手元を濡らした。

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