うつくしみの手

佐治尚実

第1話-最低な男の話

「最低な男の話をしてもいい?」


 いつも通り駅伝の話をしていたら、親友の葛城純かつらぎじゅんがいま思い出したかのように話題を変えた。


 近藤二葉こんどうふたばは、昨年優勝校の選手名が舌の先まで出かかっていたが、冷め切ったコーヒーカップに口をつけて飲み込んだ。


「最低の男か、その話は面白くなさそうだな」

「まあ……二葉の言う通り、つまならいよ」


 いつもの純は不必要なほどに笑みを絶やさず、やわらかい声でゆっくりと言葉を選ぶ。今日の純は彼らしからぬ弱々しい声で表情も暗かった。


「話したいなら聞くから続けろよ」


 どうやら自分は、純の見慣れない表情に絆されたみたいだ。


 十一月の終わり、冬の気配がぐっと濃くなった午後だった。いつもの喫茶店で、純と向かい合うようアンティーク調の椅子に座り、挽き立てのコーヒー豆の香りにうっとりとしていた。間接照明の仄暗い店内は、小さなテーブルが五つあり、奥のカウンターから音量を抑えたジャズバラードが流れてくる。この喫茶店は観光地の片隅にひっそりと佇み、四十代のマスターが一人で切り盛りしていた。メニューにはコーヒーとシフォンケーキしか置いていない。今日が土曜日ということもあり、純と来たときには観光客の姿しかいなかった。

 二葉はエスプレッソシフォンの最後の一切れを、ブラジルコーヒーで喉の奥へと流し込んだ。男にしては子供っぽい顔を暗くさせた純を見つめていたら、頭蓋骨の側頭筋あたりに力が入る。純の切り出した話題は面白くなさそうだが、興味はあった。それでも、サイフォンで入れたコーヒーでも飲まないと気が休まらないだろう。


「ありがとう……暑くなってきたね」


 純が袖をめくった。彼の生白い腕にうっすらと血管が走り、骨張った関節の指で拭った首は不健康なほどに細かった。それなのに、質感はやわらかそうで、どこか不思議な印象を抱かせた。その体にはかつて薄い筋肉が覆われていたはずだ。それがいまや、オーバーサイズのセーターとチノパンツが柔らかい輪郭を拾い上げていた。だらしのない印象を抱かない変わりに、凹凸のある体つきは色っぽく思えた。赤身と脂身のバランスが良い肉だ、と二葉は口内の唾液を飲み込んだ。

 二葉は暖房で乾いた手をおしぼりを湿らせ、ブラジルコーヒーを追加注文した。


「お前は?」


 純は手元のバニラシフォンにホイップクリームをたっぷりのせていた。カップは空だった。


「僕も、えっと」


 メニューを見てエチオピアを頼んだ。しばらくして運ばれてきたカップからは、湯気がゆっくりと立ちのぼっている。高校卒業式の後に、この店に純と背伸びして入った思い出がある。当初こそ緊張でコーヒー豆の違いを楽しむ余裕すらなかった二葉も、二十五歳になってなじみの客として振る舞えるようにはなれた。


「で? 早く言えよ」


 彼はザクロ色をした唇を甘噛みして、窓ガラス越しに目を向ける。白い首が伸びた。まろやかな光に照らされた黒眼がヘーゼルナッツ色に光る。純は黒く縁取ったようなまつげを二回ほどしばたたかせてから、覚悟を決めた顔つきで二葉を見上げた。純の視線の流れはあまりに扇情的だった。顔の作りは特筆して美しくもなく、数多の美女や美男子の美貌には到底敵わない。それなのに、昔から純が見せる些細な仕草に、二葉は胸を熱くさせていた。


「話を遮ってごめん」


 純は深く頭を下げた。


「そういうのいいから、相変わらず回りくどいな」

「うん、えっと、今日は来てくれてありがとう」


 先ずはそこからかよ、と純の足を蹴った。白いスニーカーを汚してやったのが自分だと思うと、頬が垂れ下がる。顔がにやつくから手で半分隠すも、手触りがざらりとして不快だった。


「ちょうど休みたかったし」


 二葉はらしくもないことをいったのが恥ずかしくて、痒くもないのに短いうなじを掻いた。自営業の二葉にとって、勤め人の純と休日を合わせることになんらストレスを感じなかった。半袖のときや、コートで着ぶくれしたときでも、急速に流れゆく季節に抗うよう純との時間を大事にした。


「ありがとう」


 純は曖昧に笑い、カップのコーヒーに視線を落とした。彼の吐息で、黒い液体に波紋が広がる。昔から聞き慣れていたはずなのに、純の息遣いがいちいち甘ったるいから困る。高校からそれほど背丈が変わっていないことから、いまでも百七十センチぐらいはあるはずだ。純とは身長差がちょうど十五センチだから、その湿った唇にキスするには自分が屈まないと。なんて不埒なことを考えたら、外だというのに下半身が熱くなった。

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