海の見える町。彼女と二人きりの海岸線。官能的な二人の距離。もうすぐで日が暮れる。
ネムノキ
無題
海の見える町。
潮が舞いこむ町。
公園は寂れたまま捨て残され、遊具は塗装の内側から錆びついて、ついには崩れる。
ここは、地の果て。忘れ去られた海岸線。
山々に囲まれて、ここに繋がる少ない峠道を通るものは、よほどの好事家。
町は次第に閉じこもっていく、見放されて、誰にも知られないままに。
静かに、静かに、その自然のなかで。
時事の他所事にかまけている暇など、何もなく。
日々の生活のなかで。
町の領域のなかで。
二人の官能のなかで……。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「子供が少ないと世間は騒ぐけど、じゃあ、ここは子供はもういないけど、世間はなんて言うのかな」
君は、僕と海岸線のただなかを歩いているときに、そう言った。海岸線は、山の囲まれた範囲までいっぱいに伸びて、僕たちへ制限を明確に示している。
波打ち際では、エメラルドグリーンの海水と、雪のように白い砂粒が、お互いに混じり合いながら、溶け合い、そして最後には手を離し合っている。それが定めであるかのように。しかし、そこには少しの哀愁も、憐憫も含まれない。あるのは、今の僕たちの情景だった。そう、今の……。
「たぶん、なんとも思わないよ。そう、なんとも。フィールドは向こうだから。全ては向こうの話なんだよ」
「それに対して私たちは何も悲観なんてしてない。あるのは、ただ忘れ去られていく村々たち。それぞれに独立しながら、そしてお互いに生活しながら。そうやって同じ地球で、いつの間にか住み分けができていく」
「干渉するだけして、面倒を見切れなくなったら、放置。もともとの状態に戻っただけなんだよ。結局は。いままでの状態が、不安定だっただけなんだ」
「不安定なようにみえて、安定になった?」
「そう、それに慣れることだよ。そしてその慣れは、とどのつまり、自分の力で生きていくことに繋がっていく。自分で自分の人生の幸福を決めることに繋がっていく」
僕がそこまで言うと、君は砂浜に落ちていた流木を何気なく手に取り、歩いてきた軌跡を海岸線と並行してつけ始めた。それは小さく、細く、か弱いものだった。
「幸せは贅沢品、って言葉があるじゃない?」
「平和な世の中にでしか、実現できないからってことだよね」
「そう、そんな感じ。でもね、それって多分、間違ってると思うの、私は」
君の髪が海風に揺られ、いっぱいに広がった。振り返った君の顔の背後から見える無数の背景の光が、君を印象付けた。
「平和な世の中でしか実現できない幸福なんて、それは偽物の幸福よ、きっと。幸福はもっと、内側から湧きおこらなくちゃ。世の中が平和か、平和じゃないかに関わらずにね」
「環境がいいか、悪いかに関わらずってことだよね。要するに、誰しもが幸福であれるようにするための、最低条件でもあるってことか。君が言ってくれたことは」
「そう。そこから初めてスタートするのよ、その人の幸福ってものは」
君がそう言って、海岸線と向き合って、沈みつつある太陽をぼんやりと見つめているのを、僕は後ろから静かに見守っていた。
そうしていると、僕はなんだか、幸福ってものがどんな代物であるのか、わかったような気がしてきた。
そう、あくまで、わかってきたような気がしている。
もしかすると、そう思うことが大切なことなのかもしれない。
その只中において、それを確信しようとする、その行為自体が、唯一の僕たちにできる大切な、そのための営みなのかもしれない。
「僕たちの幸福ってものを考えたときに、それは、どんな形をしていると思う?」
僕は君にそう問いかけた。
最大多数の最大幸福(The greatest happiness of the greatest number)という、いつかの教育のなかで習った言葉が頭をよぎった。
そして、その幸福はいかにして、定まり、どのような形をしているのかを想像した。
おそらく、その幸福はまた異なるフィールドにあるものだということは理解できる。そして同時に、幸福は非常に多義的な定義を含む概念であることを実感した。
道具としての幸福に、そしてそれに追従している人々に、僕は複雑な感情を抱いているのかもしれない。
生の実感のために。その現代の希薄さのために。
「今は、官能のなかにあると思う。そしてそれは、二人で形作っていくものよ」
君はそんなことを言った。
僕たちはもう、27歳になろうとしていた。
今は、と君は言った。
それは、幸福が常に一定の形を取りえないと確信しているからだろうか。
僕には、まだ分からない。
幸福の複雑性。
僕には、まだ、自信がない。
物事に対して断定を加える、その姿勢。
僕には、まだ……
「一人じゃない、二人で、よ……。官能とはそういう役割が、根源的にあるのだと思うわ」
君はそう言って、誰もいない海岸線で、僕に熱い口づけを交わした。
舌と舌がお互いのなかで絡み合うとき、頭上高くで、トンビの鳴く声が響いた。
「君はいつも僕の欲しいときに、欲しい分だけの官能をくれる。それはどうして?」
「あなたが求めると、私もあなたを求めるようにできているから」
「……たまに、君が本音でしゃべってくれているのか分からなくなるときがあるよ」
夕日が水平線の向こう側へと傾き始め、夜の紺色が次第にあたりを満たし始めてきている。
「本音でしゃべっているのかなんて、誰も分からないんじゃないかしら。たとえそれが自分であっても。あなたであっても」
波打ち際と風の音だけが聞こえる。
僕は君と抱き合いながら、砂浜に仰向けになって、倒れこんだ。
一番星が、視界から、ふっと消えて、かすかに輝き始めた星々の姿が飛び込んでくる。
「私は私で、あなたはあなたなんだから」
「……だから官能があるの?」
君は僕に覆いかぶさり、大自然のなか。
二人は時の流れのなかで、幸福を感じていた。
見捨てられた町で。
忘れ去られた場所で。
二人だけの。
それだけしかない、それでいて複雑な概念のなかを。
官能のなかで漂い、そして彷徨っていた。
日はすっかり沈み、夜の沈黙と、海の囁きが辺りを満たしている。
二人は静かに静かに……
お互いの形を確かめ合っている。
【完】
海の見える町。彼女と二人きりの海岸線。官能的な二人の距離。もうすぐで日が暮れる。 ネムノキ @nemunoki7
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