第1章――2【リリスの甘~い誘惑/吸血鬼と甘い香り】

第10話 異世界生活2日目

 深い眠りの中、ふと鼻孔をくすぐったのは、花のような甘い香りだった。


 ずっといでいたくなるような、一度嗅げばそれにとらわれて抜け出せなくなってしまうような、毒にも似た危険な香り。されど、抗うことはできない魅惑みわくの香り。


 それはまるで虫を誘惑して捕食する食虫植物かのように、匂いと温もりを放って夢想に彷徨さまよう意識を捕えようとする。


 鼻孔を擽る甘い香りに、人肌を求めてすぐそばに感じる温もりに手を伸ばし掛かった――その時だった。


「……うぅん」


 深海から浮上するように意識が目覚める寸前、不意に違和感を覚えた。


「(……あれ? 僕、床に寝てたはずじゃ?)」


 自分の身体が何かやわらかい物の上に乗っている感覚に気付いて、眉根まゆねが寄る。そして、その頭に枕にした鞄の固い感触が消えていることにも遅れて気付く。


 どういうこと? と自分の状況を確かめるべく重いまぶたを開けると、おぼろげな視界に映った光景に「えっ⁉」と思わず驚愕した。


「リリス⁉ ……おわあっ⁉」


 ぱちぱちと数度、まばたきを繰り返して前を見ると。そこには隣にいるはずのないリリスが心地よさそうな寝息を立てて眠っていた。


 状況はさっぱり分からないまま、咄嗟とっさにリリスから離れようと身体を退くと次の瞬間、雪崩なだれのようにベッドから落ちた。


「いてて。なにがどうなってるんだ」


 視界が真っ逆さまになって頭の上に☆が回る。


 最悪な寝起きに顔を歪ませながら身体を起こすと、しわくちゃになったベッドに視線を向けた。そこに手を置けば、直前まで誰かがいたであろう温もりがまだ確かにあって。


「……僕、なんでリリスと同じベッドで寝てたんだ?」


 と茫然ぼうぜんとしていると、このベッドの主であるはずのリリスが不愉快そうなうめき声を上げながら気怠げに目をました。


「朝からうるさいなぁ。目が覚めちゃったじゃない」

「あ、ごめん……じゃなくて!」


 指先で瞼をこすりながら、時間を掛けて目を開けていくリリス。寝起きの所申し訳ないけど、僕はどうしても自分がベッドで眠っていた理由を確かめずにはいられず、恐る恐るリリスに訊ねた。


「僕、昨日床で寝てたはずなんだけど、でも朝起きたらリリスと同じベッドにいたんだ」


 もしかして寒さのあまり無意識に起きてリリスの寝ているベッドに潜り込んでしまったのか。


 そんな思案が脳裏に過った直後、リリスが「あぁ」と身体を起こしながら答えた。


「夜、トイレに行きたくなって目が醒めたのよ。それで戻ってきたらセンリが床で寝てたから、だからベッドに移動させたの」

「なんで⁉」


 まさかリリス本人が移動させたとは思わず、愕然とする僕。そんな僕にリリスは「んーっ」と背伸びしながら答えた。


「なんでって……逆に私の方が聞きたいわよ。なんでベッドがあるのに使わないの?」

「いやリリスが使ってるじゃん!」

「だから?」

「だからって……つ、付き合ってもない男女が同じベッドで寝るのは、その、倫理的にどうなのかと……」

「べつにいいじゃない。私たちはパートナーなんだし。それに、私が抱き抱えても一切起きる気配がなかった貴方が私に何をするのよ?」

「それはっ、リリスの言う通りだけど。でも……」


 決して大きくはないベッドで一緒に寝ていたとか、その事実を思い出すだけで心臓が一気に騒がしくなる。


 うまくリリスと目線を合わせられなくなってしまって、そして言いよどむ僕にリリスはさして気にする様子もなく言った。


「細かいこと気にし過ぎよ、センリは」

「細かいことかなぁ。由々ゆゆしき問題だと思うんだけど」

「私がセンリと一緒のベッドに寝て問題ないと判断したのよ。それでいいじゃない」


 背伸びと腕を伸ばして身体の調子を確認し終えたリリスは、ベッドから降りると僕の横に並ぶと、


「それとも、センリが耐えられなくなっちゃうかしら」

「――っ」


 挑発するような笑みを浮かべて、リリスは視線を僕の腰に下げた。その視線の先には、ズボン越しでも分かるほど元気になってしまった、僕のソレがあって。


「とりあえず、今はお腹空いたし、顔洗ったらビールに行って朝食にしましょ」


 くすっ、と艶やかに微笑んだリリスはベッドから出て立ち上がると、羞恥心に耐えられず硬直してしまった僕に向かって手を差し伸べた。


 数秒遅れてハッと我に返るも相変わらず顔は呆けたまま。ただ差し伸べられた手に己の手を重ねると、リリスがぐいっと僕を引っ張って立ち上がらせて、


「少なくともまだ貴方を食べることはないから安心しないさい。まだ、だけど」


 そう言って艶やかな笑みを浮かべたリリスの顔が、僕の頭からしばらく離れてはくれなかった。


「まだ、って。どういうこと……」



 ***



「ふぁぁぁ。あっ、おはよう二人とも」

「おはようカルラ」


 昨夜のうちにミリシャさんから渡された朝食券を持ち、昨夜も足を運んだビールへとやって来た僕とリリス。そこで、大きな欠伸あくびを掻いているカルラと遭遇した。


 挨拶を交わしてカルラの元へ行くと、昨夜の活発な少女という印象はどこへやら、声が小さく物静かな雰囲気になっており、それに見れば髪もあちこちに寝ぐせが跳ねていた。どうやら、まだ起きたばかりらしい。


「カルラは今からお仕事?」

「ううん。私は陽刻からだよ」


 陽刻、とは日本で言うお昼のことだ。この世界の時間帯は主に四つに別れているらしく、朝、昼、夕方、夜をそれぞれ『明刻』『陽刻』『夕刻』『夜刻』と呼ぶらしい。


 宿部屋でくつろいでいた時にリリスからこの世界の時間帯について説明してもらったのが早速活き、内心ちょっぴり嬉しさを覚えながらカルラと会話を続ける。


「それじゃあ今は何してるの?」

「今は起きてすぐで、これから身支度を整える所」

「……そういえば、マルダンさんの姿が見えないね」


 カルラの父でビールのオーナーであるマルダンさんの姿を探していると、カルラが「あぁ」と小さく吐息を漏らしてから教えてくれた。


「お父さんも私と同じ陽刻からだよ。今はまだ寝てるんじゃないかな」

「そうなんだ。それじゃあ、あそこの厨房に立てる人は……」

「あれはスクセさん。ビールで朝の料理を担ってるベテランさん」


 カルラの紹介が聞こえたのか、スクセさんと呼ばれる女性が僕たちに振り向いて手を振ってくれた。物腰の柔らかそうな女性だ。


 ぺこり、と会釈を返すと、


「アナタたち。ラ・ルルで朝食付きを選んだ人たちでしょう?」

「はいっ」

「ならカルラ。お客さんに朝食用のメニュー案内してあげて」

「えぇ。私、まだ仕事の時間じゃないんだけど」

「友達なんでしょう。ならそれは仕事じゃありません」

「んな屁理屈なぁ」


 二人のやり取りにくすくすと笑みをこぼすと、むすっとした顔のカルラに睨まれた。


「はぁ。しょーがない。ほら、二人とも。近くの席に座って、この私が直々じきじきにビールの朝食で何がオススメなのか教えてあげる。とはいっても朝食は夜の時と違ってメニューは少ないんだけどね」

「ううん。教えてくれるだけでもありがたいよ。ありがとう、カルラ」

「へへ。どういたしまして」

「あ、そうだ。カルラもまだ朝食済ませてないなら、せっかくだし一緒に食べない?」


 リリスもいいよね? と訊ねると、彼女は退屈そうに大欠伸を搔いていた。


「ご飯が食べられればなんでもいいわ」

「異論なしってことで。カルラはどうかな?」

「もちろんいいよ!」


 カルラは二つ返事で応じてくれた。


「ふふっ。せっかく一緒に朝食を食べられるんだし、これを機に二人に色々聞いていいかな⁉」

「いいよ」

「私も構わないわ。ただし、ちょこっとだけ朝食を豪勢ごうせいにしてもらうけど」

「交渉成立ね! なら早く席に座って座って! ……あ、スクセさーん! 三人分のお水ちょうだーい!」

「自分で取ってきなさーい」

「だから私まだ勤務中じゃないって!」


 異世界生活2日目の朝は、はしゃぐ少女との愉快な会話から始まっていく。

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