第2話 猫と血と、緊急事態

「ねぇ、猫さん。僕をどこに連れて行きたいの?」

「……」


 黒猫にみちびかれて足を踏み入れた裏路地。そこに以上ないほどの違和感を覚えたのはすぐだ。


 鼻孔をおかすのは放棄されたゴミ袋の生臭さ。けれど、それとは別の、もっと生々なまなましい異臭を鼻孔から感じ取った。


 引き返すべきだ。そう一歩足を進めるごとに脳が鳴らす警鐘けいしょうが強くなっていく。


「――ぇ」


 じり、と本能がこの先に進むことを躊躇ためらって踏み留まったのとそれを視界にとらえたのは同時だった。


 反射的にこぼれた小さな吐息に黒猫がぴくぴくと耳を動かす。数秒遅れて黒猫が足を止め、僕に振り向くと「にゃあー」と鳴いた。それはまるで、僕をこの場所へと連れてきた理由を語るように。


 眼前。黒猫が僕に見せた光景は――この薄暗い路地裏に放置されたように倒れている、血塗れの少女の姿だった。


「――っ‼」


 驚愕きょうがく。全身に落雷が落ちたような衝撃が走り、身体が硬直する。身体がこれまで経験したことのない恐怖に縛られて足先から生じた震えがまたたく間に全身に到達する。


 捉える光景の衝撃さに脳が処理に追いつかずにフリーズする。この場所に入る時から鳴りまずにいた脳の警鐘が無意識に後退を迫り――


「助けなきゃ‼」


 ずりっ、と足が半歩退いた瞬間だった。身体が条件反射で動いた。


 状況は理解できないまま。ただ、目の前に倒れている人がいる。それだけでこの身体を動かす動機は十分だった。


 急ぎ倒れてる人の元まで詰め寄り、滑り込むように地面にひざを着く。


「なんでこんな所に人が倒れて、一体何がどうなって……ああっ、今は全部後回し! とにかく、この人に意識があるか確認しなきゃ!」


 軽くパニックにおちいりながらも、去年学校の講習で習った救命活動を全力で思い出す。


「まずは……そうだっ! 意識の確認しなきゃ。……すいません! 意識はありますか!」

「……っ」


 肩を揺らすと小さな息遣いが聞こえた。


「よかった。意識はあるみたい」


 微かな反応を示した女性に、ひとまずは息が続いていることにほっと胸をで降ろす


 けれどそれもすぐに続く緊迫感に塗りつぶされていく。


 意識の有無を確認。その次は、


「この出血をどうにかしなきゃ」


 これは何かの事件なのか。少女の身体を見れば裂傷のあとがあちらこちらにあった。幸い、今は止まっているようだけど、地面に血溜まりができるほど大量に出血していたのは状況からわかる。


「こんなに血を流して……これって相当マズイんじゃ……」


 自分の手が血で汚れることなど気にも留めず少女の腕を取って脈拍を測る。弱くて速い。よく見れば、すでに少女の顔色は血の気が失われているように蒼白と化していた。口唇は、辛うじて肺に酸素を取り込んでいるようにか細く震えていて。


 手遅れだと、本能じゃなくて理性がそう訴えかけている。


「どうすれば……どうしたら」


 今から救急車を呼んで、それでこの人は助かる? 


 分からない。分からないけど、このまま何もしないより、この人が助かる可能性がわずかでもあるのなら。


 血塗れの手でポケットからスマホを取り出して、一縷いちるの望みを懸けて『119』と番号を打っていく。


1、 1――


「――を」

「っ!」


 9、と最後の番号を打つ寸前。少女の口唇が微かに動いた。


「――ち、を」

「目を醒ました⁉」


 自分の中にわずかに残った力を振りしぼるように、少女がまぶたをぱち、と開けた。


 少女が懸命に口唇を動かして僕に何か伝えようとしていることに気付くが、あまりにもか細くて上手く聞き取れない。


 僕は少女の肩を両手で掴むと慎重な手つきで上体を起こす。制服に少女の血がこびりつくのもお構いなしに抱きしめて、自分の耳を少女の口唇に近づける。


「――血、を」

「血?」


 あえぐような呼吸に合せてこぼれる言葉を拾って自分の口で反芻はんすうする。


「血を、って」


 血を止めてくれってこと?


「血なら止まってるよ。でも、出血量が多すぎて、このままじゃキミは……っ」

「ちが……血、を」


 止血はしているようだがこのままでは血を流しすぎて死んでしまう。それを今にも死んでしまいそうなこの子に伝えていいのかと苦悩が生じる。しかし、少女は僕の言葉を否定するようにふるふると首を横に振ると、


「血、のま、せろ……」

「のませろ、って……え? どういうこ……うわっ⁉」


 少し怒りをはらんだような声音に呆気取られて、困惑する僕。少女の言葉の意味を理解しようと思考を加速させた、その瞬間。ギリッ、と歯がこすれる音がしたと同時に少女がぐいっと僕の胸倉を掴んで引っ張った。


 咄嗟のことに思考が追い付かず、身体がそのまま引っ張られていく――そして無防備になった僕の首筋に、少女は一切の躊躇ちゅうちょなく嚙みついた。


「――いっ」


 ズキッ、と噛みつかれた場所から鋭い痛みが襲う。しかし、そんな痛みよりも動揺が勝った。


 なんで僕はこの子に噛みつかれたんだ? 理由が全く分からない。


 二転三転する状況にもはや思考は停止寸前。そんな僕を気にも留めず、少女は首筋に噛みついたまま、やがて傷から出てきた血を、


「んくっ……んぐ、ごく、ごく……」

「嘘⁉ まさか、僕の血を飲んでるの⁉」


少女の黒髪にさえぎられてうまく顔が見えない。けど、耳朶じだに溜飲音が聞こえる。


さらに混迷を深めていく状況の中、愕然がくぜんとする僕の脳裏が先の少女の言葉を思い出した。


「血のませろ、って……もしかして、血を飲ませろってこと⁉」

「ごくごく……そうよ」

「返事した⁉」


 つい先刻まで瀕死ひんしの状態でろくに声も出せていなかった少女からの唐突なまともな返答に思わず目を剥く。


「んくっ、ごく、ごくっ……あら、中々に上等な血じゃない」

「なんかすごく元気になってない⁉」


 まるで僕の精気でも吸っているのかのように、僕の血を一心不乱に飲み続ける少女。


「え、なにこれ……血を飲んで、それで元気になってる、ってこと?」

「ごく、ごく、ごく……うるひゃい、いまうまくしゃへれらりほ。しふかにふへ」

「なんなのこの人⁉」


 少女は僕の血を飲みながら器用に顔を傾げて、「うるさい」とでも言いたげな視線を僕に送ってきた。


 人の血を飲んでおきながら怒るとかとんでもない理不尽にっている気がする。堪らずげんなりしてしまうが、それでも、


「……うん。僕の血を飲んで、それでキミが少しでも元気になってくれるなら、いくらでも飲んでいいよ」

「……ふぅん。なら、えんりょらく」

「っ」


 僕の想いに応じるように、少女は紫紺の瞳を細めると視線を僕の首筋に戻した。それからは、少女は何も発することなく、ただただ無我夢中で僕の血を飲んでいく。


 そんな少女の横顔が、とても妖艶ようえんに見えて、そしてそれ以上に愛らしく見えて。


 ドクン、と心臓が強く跳ね上がる。


 それはあまりに場違いな、自分の中の何かが芽生えた瞬間だった。


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